2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第04章、知覚としての世界

▲思考によって生じる概念が知覚に秩序を与える01~05

■04-01:思考で捉える概念界には秩序がある

概念理念は思考によって発生する。 概念が何であるか、言葉で述べることはできない。 言葉は、人が概念を持つことに人の注意を喚起するだけである。 誰かが樹を見ると、彼の思考が自らの観察に反応する。観察対象に理念的な対応物を付け加え、その対象と理念的対応物を対と見なす。 対象が観察の視野から消えると、後には理念的対応物だけが残る。 これが、対象物に呼応した概念である。 経験を積めば積むほど、私たちの概念の総和も大きくなる。 しかし、諸概念は単独では存在していない。 法則に従った全体として互いに関係を保っている。 たとえば《有機体》という概念には《法則に従った発達》や《成長》といった概念が結びついている。 単一の事物において形成された異なった概念も、完全に一つにまとまる。 私がライオンにおいて形成したすべての概念は、《ライオン》という包括概念でまとまる。 このように、個々の概念は完結した概念体系にまとまり、その中でそれぞれがふさわしい位置を占める。 理念と概念は質的には同じである。 理念は概念より内容豊かで、より満たされ、より包括的であるが、それでも概念である。 ここで特に強調しておきたいのは、私が出発点にしたのは、思考であり、思考を働かせてはじめて得られる概念理念ではない点である。 概念と理念は、思考が前提になる。 自分自身で完結し、他者には規定されないという本質を持つ思考について述べていることを、そのまま単純に概念に当てはめることはできない。 (ここでは、その点を特に強調しておく。それはこの点が私とヘーゲルの違いだからである。 ヘーゲルは概念を一義的、根源的なものとしている)。

■04-02:概念は観察では得られない

概念は、外界の観察からは得られない。 これは、子どもが成長するにしたがって周囲の諸対象物に対応する概念をしだいに身に付けていくという事情からもわかる。 諸概念はこのように観察に付け加わっていく。

■04-03:観察についてのスペンサーの見解

多くの読者を獲得している現代哲学者ハーバート・スペンサーは、観察の際に人間が行なっている精神的プロセスを以下のように述べている。

■04-04:概念によって知覚同士のつながりが得られる

「ある秋の一日、畑を散歩していると、数歩先で物音が聞こえ、その音が聞こえる溝の横で草が揺れているのを見かける。するとおそらく、私たちはその場所へ行って、物音と草の動きをもたらしたものが何かを調べるだろう。 近づくと、一羽のウズラが溝の中で羽ばたいているのを見つけ、私たちの好奇心も満たされる。 現象が解明されたのである。 注意深く見ると、この説明の成り行きは次のとおりである。 小さな物体が何かのきっかけで静止状態から動かされると、近くにある別な物体も動かされるが、私たちはそれを人生の中で数限りなく経験しているので、そうしたきっかけと動きの関係を一般化する。 そして、きっかけによって何かが動くというこの場合も、一般化された関係の特殊としての一例と見なすのである」。 しかしより詳しく見ると、この状況に対するこの説明は間違っていることがわかる。 物音を聞くと、私はまずこの観察に対応する概念を探す。 この概念はまず私を物音を越えた次元へと連れ出す。 それ以上追求しない人は、物音を聞いてそれで満足する。 しかし、よく考えてみると、私は物音を何らかの事柄による結果と捉えていることがわかる。 つまり、まず物音という知覚を結果という概念に結びつけると、私は個別の観察の次元を超え、原因という概念を探すように促される。 結果という概念が原因という概念を呼び、私はその原因となる対象を探し、ウズラを見つける。 この原因と結果という概念は、観察からは、あるいは、そうした観察の何万回もの積み重ねからも、決して得られない。 観察が思考を呼び起こし、その思考によってはじめて、何らかの個別な体験を他の体験と結びつける道が示されるのである。

■04-05:観察のみを客観科学とすると思考は否定することになる

《厳密な客観的科学》を標榜し、その内容を観察のみに限定するなら、すなわちそれは、あらゆる思考の放棄も要求していることになる。 その本性からして、思考は観察を超えるからである。

▲思考によって意識が生じる06~08

■04-06:思考と意識の関係

さてここで、思考そのものから、思考する存在の考察に移ろう。 なぜなら、この思考存在によって思考と観察が結びつけられるからである。 この概念と観察が出会い、互いに結びつけられる舞台とは、人間の意識である。 これで、(人間の)意識が性格づけられた。 意識は、思考と観察を仲立ちする。 観察では対象は外から所与のものとして与えられるが、思考において、人間は能動的である。 人間は、対象物を客観、自分自身を思考する主観とみなす。 人間は、思考を観察(対象)へと向けるので、それを客観として意識する。また、思考を自分自身に向けるので、自分への意識、言い換えると自己意識を持つ。 人間の意識とは、それが思考する意識であるがゆえに、必然的に自己意識である。 思考の眼差しを自分自身の活動に向けるとき、人間は自分の最も根源的な構成要素、つまり自身の主観を、客観として対象にしている。

■04-07:主観・客観は思考によって現われる

思考の助けを借りることで、自分を、客観と向かい合う主観と規定している点は見逃してはいけない。 したがって、思考を単に主観的な活動と捉えることは許されない。 思考は、主観と客観を超えている。 主観と客観という二つの概念も、他の概念と同様、思考によって作り上げられている。 私たち自身を思考する主観として客観(対象)に概念を関連づけるとき、この関係を単なる主観的なものと捉えてしまってはいけない。 この関係を取り結ぶのは、主観ではなく、思考である。 主観は、自らが主観であるから思考するのではない。 そうではなく、思考する能力を持つがゆえに、主観として現われるのである。 思考する存在としての人間が行なう活動とは、単に主観的とは言えない。主観でも客観でもなく、この両概念を超えた活動なのである。 したがって、私の個的な主観が思考する、などとは決して言えない。 むしろ主観は思考のおかげで命を持つと言えるのである。 このように思考とは、私を私自身を超えたところに導き、客観と結びつけてくれる要素である。 それと同時に、主観としての私を客観と向かい合わせることで、私と客観を分離する。

■04-08:包括と対置という人間の二重性の根拠は思考である

人間の二重性の根拠はここにある。 第一に、人間は思考することで自分と世界を包括する。 第二に、これも思考によって、自らを事物と対置する人間的な個とする。

▲観察が思考に結びつく過程09~12

■04-09:観察対象はどのように意識に入り込むか

さて次の問いは以下のとおりである。「意識内で思考と出会うことになる、これまでは単に観察対象と呼んできた要素がある。これはどのような状態で意識内に入り込むのだろうか」。

■04-10:思考由来のものをすべて除くと

その答えを探すに当たっては、観察領域から思考に由来するものをより分けて、すべて取り除かなくてはならない。 なぜなら、その時々の意識内容には常にはじめから諸概念がさまざまな仕方で知らず知らずのうちに絡み付いているからである。

■04-11:純粋な観察に思考が働きかける

完全なる人間知性を持つ存在が無から生じ、初めて外界と出会ったと仮定してみよう。 この存在の意識にのぼり、思考を始動する以前のものは、純粋な観察内容であるはずだろう。 このとき世界はこの存在に対し、色彩、音、圧力、熱、味、匂い等の相互に関連を持たない感受客体の集合体、さらには快不快の感情しか示さない。 この集合体が、思考を含まない純粋な観察である。 この観察に思考が対置していて、これはきっかけさえあれば常に観察に働きかける準備ができている。 経験的には、そうしたきっかけはすぐ見つかる。 思考には、ある観察要素を別な観察要素と関連させる準備が常に整っている。 こうした観察諸要素に諸概念を対応させ、それらをある関連の下にまとめる。 前述のとおり、このようにして物音の観察を別な観察と結びつけた。物音を後者による結果と考えたのである。

■04-12:思考が作る関連は主観的ではない

思考活動を主観的と捉えることはできないとしてきたことを思い起こすと、「思考によって作り上げられるそうした諸関連は、単に主観的にしか成り立たない」と信じ込む誘惑に陥ることはないだろう。

▲知覚と主観の関係13~18

■04-13:観察内容と意識的主観の関係を問題にする

さて、今述べた直接に得られる観察内容と私たちの意識的主観との関連を、熟慮によって探求することが次の問題である。

■04-14:観察では対象を知覚する

単語の用法にはばらつきがあるので、私の今後の用語について、読者との共通理解を図る必要があるように思われる。 上述の直接的な感受対象から意識的主観が観察を介して知見を受け取る場合に、その感受対象を知覚と呼ぶ。 つまり、観察の経過ではなく、観察の対象を知覚としている。

■04-15:知覚は感受、感情、思考も含む

感受という表現を採らなかったのは、それが生理学においては、私の言う知覚の概念より意味が狭いからである。 私の内面での感情は知覚とすることができるが、生理学的な意味での感受ではない。 感情についての知見も、それが私にとっての知覚になることで得られる。 思考が意識にはじめて現われる際の様子も知覚と呼ぶことができるし、思考についての知見が観察によって得られる様子は、感情におけるそれと似ている。

■04-16:外界観察に対応するイメージは絶えず修正される

素朴な人は、自分の知覚内容を、現われたそのままにそこに在り、自分はその存在には影響しないと見なしている。 その人が樹を見ると、その樹が、姿も色も細部も場所も、見えるままにそこに在ると思っている。 彼は、朝、地平線から昇る丸い太陽を見て、さらにその円盤を追う。そして、その円盤が見えるとおりの姿で存在していると考える。 彼は、それまでの観察と矛盾する観察と出会うまで、そう思い続ける。 距離のことがまだわかっていない幼児は月を掴もうとし、現実だと思い込んだ視覚だけによる経験が、第二の知覚(触覚)と矛盾するときには誤りであることを理解する。 知覚範囲が拡がるたびに、私の世界像は訂正を迫られる。 このことは、日常生活でも、人類の精神的進化でも見られる。 昔の人は、太陽と地球や惑星をあるイメージで関係づけていたが、そのイメージが新たに見出された知覚と適合しなかったために、コペルニクスによる別なイメージに置き換わらざるをえなかった。 フランツ医師が、生まれつき眼が不自由な患者を手術した際に、その患者は次のように語った。「手術前に触覚を介して作ったイメージとは大きさなどがまったく違っていた」と。 触覚による知見を、視覚によって訂正する必要があったのである。

■04-17:修正される理由は何か

このように、観察に対し絶えず訂正が迫られるのは、どうしてなのだろうか。

■04-18:知覚像は人間の状態に依存する

少しでもしっかり考えれば、この疑問は解決する。 並木の一方の端から前方に続く並木を見ると、遠くにいくにしたがって木々が小さく、また相互により近接して見える。 見る場所を変えると、知覚像も変化する。 眼前に見える姿を規定する要素は、対象には存在せず、私、つまり知覚者の方に存在する。 並木にしてみれば、私の立ち位置などどうでもよい。 しかし、私から見た並木の知覚像は、私の立ち位置に依存している。 同様に、太陽や太陽系惑星にとっては、人間が地球のどこから見ているかなどはどうでもよい。 人間が見る知覚像は、その人がどこから見るかで変わってくる。 知覚像が私たちの視点に依存することは、非常に簡単に見通せる。 しかし、知覚像が人間の肉体的、精神的な器官に依存するということになると話は複雑になる。 私たちが音を聞くとき、その音が鳴る空間内では空気の振動が生じていて、さらには、音の原因とされる物体ではその一部分が振動していると物理学者は解明している。 正常な耳があるときにだけ、この振動を音として知覚することができる。 そうした知覚器官がなければ、世界はすべて永遠に静寂に包まれるだろう。 生理学によれば、外界の壮麗な色彩世界をまったく知覚できない人がいると言う。 彼らの知覚像は明暗のニュアンスだけであるか、あるいは赤といった特定の色の知覚がない。 彼らの知覚像には、赤の色調が欠け、通常の人とは異なっている。 ここで、知覚像が観察場所に依存して異なる場合を《幾何学的》、私の器官に依存する場合を《質的》と呼びたい。 幾何学依存性では、知覚対象の大きさや相互の距離が規定され、質的依存性では、知覚対象の質が規定される。 質的依存性、つまり赤い面を赤と見られるかは、私の眼という生体に規定される。

▲バークレー説とその論破19~22

■04-19:知覚像は主観的で客観的には存在しないという説

したがって知覚像は、とりあえずは主観的である。 知覚が主観的であると認識すると、知覚の基盤に何らかの客観的なものがありうるのかという点が疑わしくなりうる。 たとえば、赤色や音を知覚するためには特定の身体器官が不可欠であるので、私たちの主観的な身体器官を除外して考えるなら、知覚には何の構成要素もなく、その知覚を対象とした知覚活動がなければ知覚にはいかなる仕方でも存在しないと思い込むこともありうる。 この観点を取る古典的な代表者はジョージ・バークレーである。 彼は、知覚における主観の役割を意識した瞬間から、精神による意識が向いていない世界が存在することなど、信じられなくなるはずであると考えていた。 「真理の中には非常に明白なものがあり、それらは目を開きさえすれば理解できる。 次の重要な命題はそうしたものの一つである。 天界の合唱から地上界のすべて、一言でいえば全宇宙をなすあらゆる構造体は、精神なくしては存在しえない。 またそれらは、知覚、あるいは認識されることで存在となるので、私が知覚しないかぎり、あるいは私の意識か他の被造物の意識内に存在しないかぎり、まったく存在しないか、あるいは永遠なる精神の内に存在するだけである」。 この見解では、まさに知覚されている対象を除けば、知覚としては何も残らない。 見られていなければ色は存在せず、聞かれていなければ音も存在しない。 色や音が存在しないだけでなく、知覚行為がなければ、(物体として重要な性質である)空間占有性や形態、運動も存在しない。 空間占有性や形態を知覚する際には、常に色など、その主観性には議論の余地がないとされる諸性質が結びついていて、空間占有性や形態が単独で存在することはない。 したがって、知覚される主観的諸性質がなくなれば、それに結びついた空間占有性や形態も必然的に消えるはずである。

■04-20:「知覚に似た物体が客観的に存在する」は否定される

形態、色、音などが知覚内においてしか存在しないとしても、意識された知覚像に似た物体は、意識を前提にしなくても存在するはずだという反論も見当たる。しかしそれに対して、上述の見解からは、色は色に、形態は形態にしか似ることができないと述べる。 さらに、私たちの知覚は私たちの知覚にしか似ておらず、他のいかなる物とも似ていない。 そして、対象物と言われる物も、特定の結びつき方をした一連の知覚にすぎない。 したがって、《机》から、形態、空間占有性、色など、すべての知覚を除いてしまうと、何も残らない。 この見解からの帰結は、「私の知覚対象は私によってのみ存在し、しかも私がそれを知覚しているそのときだけであり、知覚が消えればともに消え、知覚がなければ意味を持たない」となる。 諸知覚以外にはいかなる対象物も存在せず、それについて知ることもないのである。

■04-21:知覚の成立を吟味すると上述の説は破綻する

一般的に知覚は、私の主観である生体機構もそこに含めたものとして捉えられている。 この状況を取り上げているかぎり、この主張には反論の余地はない。 しかし、知覚の成立において、私たちを知覚することが果たす役割を提示できれば、事情は違ってくる。 すると、知覚行為の際に知覚対象に何が起きているのか、さらには知覚される以前の知覚対象に何が存在していなくてはならないかも決定できるはずである。

■04-22:知覚には「自己の知覚」も含まれる

こうして知覚対象という客体の観察から、知覚の主体の観察へと移行する。 物体を知覚するだけではなく、自分自身も知覚するのである。 自分自身の知覚における最初の内容は、知覚像が現われては消えるのに対し、私が存在し続ける点である。 何か別な物を知覚している時でも、私は意識内でいつでも私を知覚できる。 眼前の対象の知覚に没頭すると、とりあえず私はその対象だけを意識する。 そこに、私自身の知覚も現われうる。 すると、単に対象物を意識するだけでなく、その対象に向かい合い、それを観察している私の人格をも意識する。 単に樹を見るだけでなく、その樹を見ているのが自分であることもわかっているのである。 さらに、樹を観察しつつ私の中で何かが起きていることも認識する。 樹が私の視界から消えても、意識内にはそこでの経過の名残が残る。樹の像である。 この像は、観察中、私自身と結びついていた。 私自身の内に新たな要素を取り込み、豊かになった。 この要素を、樹についての私の表象と呼ぶ。 自分自身を知覚することでこの表象を体験していなかったら、表象について語れる状態にはなりえない。 知覚は現われたり消えたりするだろうし、私はそれを成り行きに任せる。 私が私自身を知覚し、知覚の度に私自身の内容が変化することに気づくことによって、嫌が応にも、対象物が観察される様子と私自身の状態変化を関連させ、それを自分の表象とするのである。

▲唯表象論とその論破23~27

■04-23:カントは認識を表象内に限った23~28

私は表象を私自身において知覚する。これは色や音といった他の対象の知覚と同じ意味で知覚している。 また同時に、私が向かい合う他の対象を外界と呼び、自分自身の知覚による内容を内界として、区別することができる。 この対象物と表象の関係をきちんと認識しなかったがために、近代哲学に最大の誤解が生じてしまった。 私たちの内での変化が知覚されること、私自身が経験する変化ばかりが強調され、変化のきっかけとなった対象を見失ってしまったのである。 「私たちが知覚するのは対象物ではなく、私たち自身の表象にすぎない」と言ったのである。 観察対象である机そのものについては何も知ることはできず、机を知覚する際の私自身内の変化しか知ることができないと言うのである。 この見解を前述のバークレーの見解と混同してはいけない。 バークレーは、知覚内容が主観的である点を主張しているだけで、表象についてしか知りえないとは言っていない。 彼は、知を自分の表象に限定するが、その理由は、表象を出たところには対象は存在しないという考えだからである。 バークレーの見解では、私が机として見ているものも、私が視線を移してしまえば存在しなくなる。 それゆえバークレーは、知覚は神の力によって直接生じるとしている。 神が知覚を私の内に呼び起こすがゆえに、私は机を見るのである。 バークレーにとっては、神と人間精神の他にはリアルな存在はない。 世界と呼ばれるものは、虚構の内にのみ存在する。 素朴な人間が、外界とか自然物とか言っているものは、バークレーにとっては存在しない。 このバークレーとは別に、カントの見解がある。 カントも私たちの世界に対する認識を私たち自身の表象に限定する。しかしその理由は、表象以外には物体が存在しえないと確信しているからではなく、私たち自身の生体が、私たち自身に起きる変化しか体験できず、物体における変化を体験できるようには作られていないと考えるからである。 表象とは別個の存在などはないと考えるからではなく、「主観的な考えという媒体を介さなくては、想像したり、仮定したり、考えたり、認識したり、あるいは認識できなかったりする」(オットー・リープマン『現実の分析』28ページ)と考えるがゆえに、表象しか知りえないという結論に達する。 この見解では、これは無条件に正しく、証明なしに直接理解できると信じている。 「哲学者が明確に認識していなければならない第一の基本命題は、私たちの智がとりあえずは表象の及ぶ範囲に限られるという認識である。 私たちが直接経験しうるものは、ただ一つ、表象だけである。またそれは直接に体験されるがゆえに、どんなに疑っても、表象からの智を疑うことはできない。 それに対し、表象の域を越えた智に対しては、疑いを持たざるをえない。 ところでここでの表象という用語は、いかなる場合も非常に広い意味で用いていて、あらゆる心理学的出来事を含んでいる。 それゆえ、哲学を始めるに当たっては、表象の域を越えた智のすべてを疑わなくてはいけない」とフォルケルトは『イマヌエル・カントの認識論』の冒頭で述べている。 ここでは、この主張が直接的で自明の真理のように述べられているが、実際には以下のような思考操作の結果として作られたものである。 まず素朴な人は、対象物が自分が知覚しているとおりに外界に存在すると信じている。 しかし物理学、生理学、心理学によれば、知覚のためには身体器官が不可欠で、物について知りうるのは、そうした身体器官に伝達されるものに限られると学ぶ。 つまり知覚とは、事物そのものではなく、身体器官における変化にすぎない。 エドゥアルト・フォン・ハルトマンは、ここで概略を示した思考の流れをそのまま取り入れ、直接的な智は表象からしか得られないという命題が必然的に確信されるとしている(『認識論の基本問題』16~40ページ)。 私たちにとっての音とは、私たちの生体外での物体や空気の振動であるので、その音なるものは、外界におけるそうした運動によって喚起される生体の主観的な反応にすぎないと結論される。 色や熱についても、同様に私たちの生体における変化にすぎないと言う。 何らかのまったく同じ外的経過が、色彩体験あるいは熱体験をひき起こすことがある。 実際、こうした外的経過によって、この二種のまったく別な知覚がひき起こされることはよく知られている。 そうした経過が皮膚の神経を刺激すると、主観的に熱を知覚し、そうした経過が視神経に作用すると、光や色を知覚するのである。 したがって、光、色、熱などは、外からの刺激に対する知覚神経における反応ということになる。 触覚においても、外界の対象物について知らされるのではなく、私自身の状態を知るだけである。 近代物理学を元にすると、およそ次のように考えられる。物体は非常に小さい分子からなり、この分子同士は、お互いに直には接しておらず、ある程度離れている。 つまり、その間には隙間がある。 この隙間を介して、相互に引力や反発力を作用し合っている。 物体に手を近づけるにしろ、手の分子と物体の分子は直接に触れ合うことはなく、両者には一定の距離が保たれる。 そして、私が物体の抵抗として感じるものは、その物体分子が私の手に及ぼす反発力の結果にすぎない。 つまり私は、物体の外側に留まり、物体からの生体への作用を知覚しているだけである。

■04-24:ミュラーの説:刺激の種類によらず眼は視覚を提供

上記の考察をさらに補完するものとして、J. ミュラー(1801~1858)の、いわゆる特異的感覚エネルギー論がある。 その理論では、それぞれの感覚では、外からどのような刺激が来ても、反応の仕方は一定であるとする。 その原因が光と呼ばれるものであっても、力学的圧力であっても、電流であっても、視神経に作用すると、光の知覚が生じる。 また逆に、同じ外的な刺激があっても、感覚器官によって異なった知覚が呼び起こされる。 したがって、感覚によって伝えられるものは、外界の経過ではなく、感覚器官における経過であると言えるだろう。 それぞれの感覚器官は、その器官の本性にしたがった知覚を規定している。

■04-25:「知覚は主観的にすぎない」の生理学的考察

生理学の知見でも、対象物による感覚器官への作用を直接に知ることはできないとされる。 生体内の様子を生理学的に辿っていくと、外界での運動は、感覚器官の段階ですでに変更されていることがわかる。 これは、眼や耳で特に明らかである。 両者とも非常に複雑な器官で、外からの刺激を神経に伝達する前に根本から変化させる。 変更された結果としての刺激が神経末端から脳にまで伝えられる。 ここではじめて中枢器官が刺激されるはずである。 これからもわかるように、外界の経過は、意識に伝わるまでに一連の変容を経ている。 そして、脳内で生起することと外界の経過の間には多くの中間過程が介在し、両者には何の類似性も考えられない。 そして、最後に脳が魂に伝えるものは、外界の経過でも、感覚器官内での経過でもなく、脳内での経過だけである。 ところが魂は、その脳内の経過をも直接に知覚するのではない。 最終的に意識化されるものとは、脳内の経過ではなく、感受である。 私が赤を感じ取るときに生じる脳内の経過は、そのの感受とは似ても似つかない。 赤の感受は、脳内過程を原因として、魂内で結果として現われる。 それゆえハルトマンは次のように述べている(『認識論の基本問題』37ページ)。 「主観が知覚するものとは、常に自分自身の心理状態の変化であり、それ以外ではない」。 何らかを感受するにしても、それを知覚される側の物体という範疇に類別することはできない。 脳を介しては、単に個々の感受が伝えられるだけである。 硬さ軟かさという感受は触覚を介して、色や光の感受は視覚を介して与えられる。 それでも、これらの異なる感受は一つの同じ対象物に結びつく。 したがって、この結合は魂そのものによって為されているはずである。 つまり、脳によって提供される個々の感受を、魂が物体としてまとめている。 脳が視覚、触覚、聴覚などの個々の感受を仲介するが、その道筋はそれぞれ個別である。そして、個々の感受が魂内でトランペットの表象にまとめられる。 この経過の終点(トランペットの表象)は、私の意識にしてみれば真っ先に与えられていたものである。 私の外に存在し、私の諸感覚に印象を及ぼした原初のものは、私の意識内のどこにも見つからないのである。 外界の対象物は、脳までの道筋、さらには脳から魂への道筋で完全に失われている。

■04-26:「知覚は主観的表象にすぎない」の精査

偉大なる叡智によって構築されていながらも、精密に吟味すると無に帰してしまうこのような思想は、人類の精神史でも類を見ない。 これがどのように出来上がってきたかを詳しく見てみよう。 出発点は、知覚された物体、つまり素朴な意識に与えられるものである。 次に、もし感覚がなければ、この物体にまつわるすべてが存在しないことを示す。 眼もなく、色もない。 つまり、眼に働きを及ぼすものにはまだ色は存在していない。 色は、眼と対象物との相互作用ではじめて生じる。 つまり、外界の物体には色はない。 しかし、眼の中にも色は存在しない。なぜなら、眼の中には化学的あるいは物理的な過程が存在し、それはさらに神経を経て脳に伝わり、そこでさらに別な過程へと解消するからである。 しかしこの別な経過もまだ色ではない。 色は、脳のプロセスを介し、魂内ではじめて喚起される。 その色はまだ意識にまでは上っていない。色は、魂を介して外界の物体に移される。 この物体において、私は色を知覚していると思うのである。 こうして一つの円環が完結する。 私たちは、私たちの内に色のついた物体を意識するに到った。 これがまず第一点である。 ここで思考過程を精査する。 眼がなければ、私にしてみれば、物体は色を持たない。 つまり、色が物体にあるとは言えない。 そこで私は色を探し始める。 眼に探しても見つからず、神経においても見つからず、脳にもない。 魂内に色が見つかるが、それは物体と結びついていない。 色のついた物体が見つかるのは、元の出発点である。 円環が完結する。 素朴な人が外界の空間に存在すると考えるものを、私は、魂が作り上げたものとして認識していると考える。

■04-27:「知覚は主観的表象にすぎない」を論駁

この段階に留まれば、すべてがみごとに収まっている。 しかし、この事柄は、一から振り返ってみる必要がある。 私はここまで、たった一つの対象と取り組んできた。 つまり外界の知覚である。これについて私は以前、素朴な人間であり、完全に間違った見解をとっていた。 私に見えるそのままに客観的にそこに存在していると考えていたのである。 しかし、そうした知覚は私の魂的状態の変化に過ぎず、表象活動とともに消えることに気づく。 こうした状態で、考察を知覚から始める正当性はあるのだろうか。 知覚が私の魂に作用するなどと言えるのだろうか。 これまで私は、テーブルというものを、私に働きかけ、私の内に表象を作り出させるものと思ってきたが、この瞬間から、それ自体を表象として扱わなくてはならない。 しかしこの考え方を一貫して押し進めていくと、私自身の感覚器官やそこでの諸経過も主観に過ぎなくなってしまう。 眼が実際に存在するなどとは言えず、眼についての私の表象があるとだけしか言えない。 神経伝達や脳のプロセス、さらには、多種多様で混乱した複数の感受から物体を構築するとされる魂内での経過すらも表象に過ぎなくなる。 第一の思考サイクルが正しいという前提で、私の認識活動の各部分をもう一度たどると、そうした認識活動の諸部分も表象という実体を持たない、お互い同士で作用し合うことのできないものであることがわかる。 対象物について私の表象が、眼についての私の表象に作用し、その相互作用から色についての表象が生じるなどとは言えない。 また、そう言う必要もない。 私の感覚器官やそこでの活動、神経や魂での諸過程、それらはすべて知覚を介して与えられるということが明らかであるので、上述の考えの筋道はありえないことがわかるからである。 対応する感覚器官がなければ、知覚内容は存在しないというのは正しい。 しかし、知覚がなければ感覚器官は存在しないというのも同等に正しい。 私は、テーブルの知覚から、それを見る眼の知覚、それに触れる皮膚神経の知覚に移行しうる。しかし、その眼や皮膚神経の知覚で行なわれていることも、知覚からしか経験しえない。 すると、眼の中でのプロセスと、色彩として知覚されるものがまったく似つかないことにすぐに気づく。 色彩知覚の際に行なわれている眼内プロセスが色彩とは違うと指摘しても、それで色彩知覚を否定できるわけではない。 神経や脳の諸プロセス内にも同様に色は見つからない。つまり私は、(表象ではなく実在する)自分の生体器官における知覚を、第一の知覚、つまり素朴な人間が自分の生体外にあるとした知覚に結びつけているだけである。 私はある知覚から別な知覚に移行しているだけなのである。

▲批判的観念論の問題点28~33

■04-28:生理プロセスと魂的体験がつながらない

これ以外にも、ここには一つの論理的飛躍がある。 生体内の諸過程を辿っていくと、脳という中心の過程に近づけば近づくほど、前提が仮説的にはなって行くにしろ、脳内のプロセスまでは遡ることができる。 外的観察による道は、脳内の諸過程までで終わる。 仮に物理的、化学的な補助手段などを用いれば、脳内で何かを知覚できるが、その知覚が終点なのである。 感受からは内的観察の道が始まり、複数の感受を素材に、事物を組み上げるところまでたどり着く。 脳内プロセスと感受を橋渡しする部分で、観察の連続性が失われている。

■04-29:批判的観念論は自己存在を素朴実在論的に仮定

ここで紹介してきた考え方は自らを批判的観念論とし、素朴実在論と呼ぶ素朴な意識の立場を否定している。 そしてこの批判的観念論は、ある知覚を表象としていながら、別な知覚は、見かけ上は自らが論破した素朴実在論が行なっているのと同じ意味で実在と認めるという過誤を犯している。 批判的観念論は、自分自身の生体の知覚だけは素朴なやり方で客観的に有効な事実とみなすことで、知覚が表象であることを証明しようとし、さらにはお互いに橋を架けられない二つの観察領域を無批判につなげている。

■04-30:批判的観念論では自己身体を無批判に前提としている

批判的観念論は、自身の身体器官を素朴実在論的に客観的存在であると仮定しなければ、素朴実在論を否定できない。 生体の知覚と、素朴実在論が客観的実在とする知覚が同種であると気づいた瞬間、批判的観念論は、生体を確実な土台とすることができなくなる。 自らの主観的生体組織を単なる表象複合体と見なさなくてはならないはずである。 しかしそうなると、精神的機構の作用によって知覚世界の内容が生じていると考える可能性も失われる。 《色彩》という表象は《眼》という表象の変容したものと仮定せざるをえない。 いわゆる批判的観念論は、素朴実在論を借用しなくては成り立たないのである。 素朴実在論を否定するには、素朴実在論が前提としているものを、自らの身体という別の領域で無批判に成り立つとする必要がある。

■04-31:知覚の客観性は観念論では否定できない

知覚領域内を精査することで確実となったことは、それによっては批判的観念論が証明されえない点、さらには知覚の持つ客観的性格を否定することはできない点である。

■04-32:ショーペンハウアーは「世界は表象」と無批判に前提

「知覚世界は私の表象である」という命題を、自明で証明不要なものとしてうち立てることはそれ以上に許されない。 ショーペンハウアーは彼の主著『意志と表象としての世界』を次の言葉で始めている。「世界は私の表象である…… これは、生きて、認識をいとなむすべてに関して当てはまる一つの真理である。ところがこの真理を、反省的に、ならびに抽象的に真理として意識することのできるのはもっぱら人間だけである。人間がこれをほんとうに意識するとして、そのときに人間には、哲学的思慮が芽生えはじめているのである。哲学的思慮が芽生えたあかつきには、人間にとって明らかになり、確かになってくるのは、人間は太陽も知らないし大地も知らないこと、人間が知っているのはいつもただ太陽を見る目にすぎず、大地を感じる手にすぎないこと、人間を取り巻いている世界はただ表象として存在するにすぎないこと、すなわち世界は、世界とは別のもの、人間自身であるところの表象する当のもの、ひとえにそれとの関係において存在するにすぎないことである。……

なんらかの\kana{先天的}{ア・プリオリ}な真理ということが言えるとすれば、上に述べた真理がそれに当たる。というのは、上の真理は、およそありとあらゆる経験、考えられるかぎりの経験の形式を言い表わしているのであって、それとは別の形式、時間と空間とか因果性とかいう形式よりもはるかに普遍的な形式を言い表しているからである」。 ……(中央公論社、世界の名著『ショーペンハウアー』西尾幹二訳、111ページ) この文のすべては、前述の「太陽や大地が知覚されるとするなら、眼や手も同様に知覚である」という点を考慮すれば、否定される。 ショーペンハウアーの論法や表現を真似て、反対見解を述べてみよう。 自分が太陽も大地も知ってはおらず、また太陽を見る眼、大地に触れ大地を感じる手も表象にすぎないと気づく。 このように言い換えると、論理の破綻は明らかである。 なぜなら現実の眼や手であれば、そこにおける変化を太陽や地球の表象とみなすこともできるが、表象としての眼や手は表象を生むことはできないからである。 それを許しているのは、批判的観念論だけである。

■04-33:知覚時に起きることと前提条件の区別

知覚と表象の関係を検討するに当たって、批判的観念論は完全に不適切である。 知覚行為の際に知覚に並行して起きていることと、知覚が成り立つ前にすでに存在していなければならないものとの区別については段落04-20以降にその概略を述べたが、批判的観念論ではそうした区別をつけることができない。 したがってそのためには、別な道を採らなくてはならない。

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