2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第03章、世界認識に仕える思考

▲観察と思考01~07

■03-01:観察と思考の違いを際立たせる実例

ビリヤード球が突かれ、その運動が別の球に受け渡されるのを観察するとき、私はその観察経過に何の影響も与えていない。 第二の球が進む方向と速度は、第一の球のそれによって決まる。 また、単に観察するだけでは、衝突後に生じる第二の球の運動は予見できない。 しかし、観察内容に考察を加えると、事情は異なってくる。 私が考察する目的は、その経過についての概念形成である。 球の弾性という概念に特定の力学的諸概念を結びつけ、さらにここでの初期条件を加えて考察する。 私の作用が及ばない知覚領域での成り行きに、概念領域での第二の成り行きを付け加える。 この第二の経過は私の活動に依存している。 私がそうしたいと思わなければ、概念探求を放棄し、観察だけで満足しうることからも、そのように言える。 しかしそうしたいと思うなら、球、弾性、運動、衝突、速度等々の諸概念を、観察事象における特定の関係で結びつけるまで、私は落ち着かない。 観察される過程が私とは無関係に進行することが確かなように、概念的プロセスは私が関与しなければ成り立たないことも確かである。

■03-02:観察に触発される概念結合は私たち自身の行為に見える

この私の活動が、本当に私の自律的本性から流れ出るものなのか、それとも、私は自分が思うようには考えることはできず、そのときに意識内に存在する考えや考えの結合による規定にしたがってしか考えられないという近代生理学者の方が正しいのかは、後に検討する(注)。

(注:内容)ツィーエン著『生理的心理学教程』、イェーナ1893年171ページ参照

ここではとりあえず事実関係だけを確認しておく。つまり、私たちが関与せずともそこに存在する対象や出来事と向かい合うと、私たちは居ても立ってもいられず、そうした諸対象を結びつける適切な概念結合を探したくなる点である。 この行為が、本当に私たちの行為なのか、それとものっぴきならない必然性に従わざるをえないのか、その点についてはここでは問わない。 ただ、この行為が私たち自身の行為に思える点は、疑いがない。 対象に対する概念が即座に見つからないことも、私たちはよく知っている。 行為の主体が私自身であるというのは見せかけかもしれないが、観察そのものからすれば、事態はそう見える。 さて、ある出来事に対し対応概念を見出すことで何が得られるのかを問おう。

■03-03:出来事に対応する概念を見つけると事柄の関連が得られる

ある過程の各部分の相互関係は、対応する概念を見つける前と後とでは、深い意味で違っている。 単なる観察でも、そこに現われる出来事の各部分の成り行きをたどることはできる。 しかしそれらの関連は、概念の助けがなくては闇の中である。 ビリヤード球が特定の方向と速度とでもう一つの球に向かうのを私は見る。 そして、衝突後に起こることは、少し待って、出来事を実際に確認しなくてはわからない。 衝突の瞬間にビリヤード台が隠されてしまったら、単なる観察者としては、その後の出来事は知りえない。 しかし、隠される前に衝突の適切な概念を作っていたら、話は違ってくる。 観察できなくとも、そこで何が起こるのかを語りうる。 観察された経過や対象物それ自体だけから、他の経過や対象物との関連が現われ出ることはない。 観察と思考が結びつくと、こうした関連がはじめて明らかになる。

■03-04:観察と思考が二本柱

観察と思考、これらが正当に評価されるなら、これこそがあらゆる精神活動の出発点である。 通常の悟性的判断から高度な学問研究まで、この二つが私たちの精神を支えている。 哲学者たちはさまざまな対置関係を出発点にしてきた。観念と現実、主観と客観、現象と物自体、自己と非自己、理念と意志、概念と物質、力と素材、意識と無意識などである。 しかしこれらすべてより、人間にとって観察思考という対極が最も重要なことは容易に示すことができる。

■03-05:世界現象の解明は思考から出発する

ある種の原則を提示したいとしよう。その際には、それを私たちがどこかで観察したことを証明するか、あるいは誰もが理解しうる明確な考えとして語るかしかない。 基本原則を語ろうとするなら、どの哲学者も概念形式、言い換えると思考に頼る必要がある。 つまり哲学者は、哲学的に活動するに当たって、間接的に思考を前提にしている。 世界進化の要因が思考なのか、それとも他の何かであるかという点はこの場では問題にしない。 しかし、哲学者も思考がなくては智を得ることができないという点は最初から明らかである。 世界現象の成立に当たっては、思考は脇役にすぎないかもしれない。しかし世界現象について何らかの見解を作り出す際には、明らかに思考が主役である。

■03-06:観察には身体が必要

さて観察のためには身体を必要とするという身体上の都合がある。 馬についての思考と馬という対象物とは、別個に現われる二つの事柄である。 そして対象物としての馬は、観察を介してしか捉えられない。 単に馬に目を向けるだけでは、馬についての概念を形成できないのと同様、単に馬について思考するだけでは、馬という対象物は生み出せない。

■03-07:時間的には観察が先

時間的には、観察が先で思考はその後である。 つまり、思考すらも観察によって知る以外にはない。 本章の冒頭で取り上げたのは、ある出来事に沿って思考に火が着き思考以前の状態を越えていく様子、つまり本質的には観察の記述であった。 体験領域に入り込んでくるすべてを私たちは観察を介して知る。 感覚、知覚、直観の内容、感情、意志行為、夢や空想の像、表象、概念や理念、あらゆる幻想や幻覚、これらすべては観察を介して私たちに与えられる。

▲思考は一つの特殊な観察08~16

■03-08:思考の観察は特別な状態

観察対象にはいろいろあるが、思考は他のあらゆる対象と本質的に違う。 机や樹木では、対象物が私の体験という場に現われた瞬間に観察が始まる。 しかし、この対象物についての思考を私は同時には観察していない。 机を観察し、机について思考するが、その思考の観察は同時ではない。 机という対象とともに、机についての思考をも観察しようとする場合、まず私は、私自身の活動とは離れた地点に立たなくてはならない。 対象や成り行きについての観察や、それらについての思考は、日常生活でもごく当たり前に行っているのに対し、思考の観察は一種の例外的な状態と言える。 思考と思考以外の観察内容との関係を規定しようとするのだったら、この事実を相応に配慮する必要がある。 思考以外の世界内容を観察するときに、ごく普通に行っているやり方がある。思考の観察に際してもそのやり方を応用するが、結果としてこの正常なやり方にはならない点はきちんと踏まえていなくてはならない。

■03-09:「感情も思考と同列ではないか」の否定

ここで思考について言われていることは、感情など、他の精神活動についても当てはまるという反論もありうるだろう。 例えば快という感情では、ある対象物が快を生じさせるが、このとき私は、その対象物は観察するにしろ、快という感情は観察していない。 しかしこの反論の論拠は間違っている。 快と対象物との関係は、思考によって形成される概念と対象物との関係と同じではない。 事柄に対する概念を私の活動で作り出していることを、私は最も確実に意識しているのに対し、私の快の感情は対象物によって喚起され、さらにそのあり様を例えるなら、落石が対象に作用するのと同じである。 観察ということで言えば、快の感情の観察も、その原因となる出来事の観察も同じである。 しかし、概念においては、これは当てはまらない。 こう問うことはできる。「ある特定の成り行きが私において、快という感情を生じさせるのはなぜか」。 しかし、こう問うことはできない。「ある特定の成り行きが私において一連の概念を生じさせるのはなぜか」。 この問いには意味がない。 ある成り行きについて考える場合、そこでは私に対する作用などまったく問題ではない。 窓ガラスに投げられた石の及ぼす作用を観察し、それに対応する概念を得たとしても、それによって私は、私については何も経験していない。 しかし、ある成り行きによって喚起される感情の場合には、私は、私の人格についての経験をしている。 「これはバラです」と観察対象について述べるとき、私自身については何も言っていない。 しかし、同じ対象に対し「これは嬉しい」と言うとき、私は単にバラについて述べているだけでなく、バラに対する私の関係も性格づけている。

■03-10:思考活動には観察の目が向かない

このように観察の対象という位置づけで見るなら、思考と感情を同列に扱うことはできない。 他の精神的活動についても同様であることは、容易に示すことができる。 思考との対比で言えば、それらは、一連の観察される対象物や経過と同種である。 思考は、観察される対象物にだけ向けられ、思考する自身の側には向けられない活動である。 この点は思考のまさに特筆すべき性質である。 こうした特質は、事柄に対する考えの表現の仕方と感情や意志行為の表現の仕方の違いにも現われている。 対象を見て、それを机だと認める場合、普通は「私は机について考える」とは言わず、「これは机だ」と言う。 しかし、「机があって私は嬉しい」とは言うだろう。 前者では、私が机と関係を結ぶことを表明する点はまったく重要ではないが、後者ではまさにその関係が問題なのである。 「私は机について考える」と表現した場合、私は前述の例外的状態に入っている。 つまり精神的活動には必ず伴っているにしろ、それが観察の対象とされることはない何かを観察対象としているのである。

■03-11:思考では思考対象と取り組む

思考中、思考者は思考のことを忘れている点が、思考の特質なのである。 人は、思考そのものと取り組むのではなく、思考にとっての観察対象と取り組んでいる。

■03-12:思考は通常、観察されない

思考を観察することによる最初の成果は、それが通常の精神的営みでは観察されない対象であるという点である。

■03-13:思考が観察されない理由

思考は通常の精神的営みにおいて観察されないが、その根拠は思考が私たち自身の生産活動を土台にしている点にある。 自分自身が生み出したのではないものは、対象として観察領域に入って来る。 その対象を私の関与なしにできあがったものとして、目の前に見る。 それが私に近づく。 思考プロセスの前提条件として、私はその対象を受け入れなくてはならない。 その対象について思考しているとき、私はそれと取り組み、眼差しはその対象に向けている。 この取組みがまさに思考しつつの観察である。 私の活動にではなく、活動の対象に私の注意は向けられている。 別の言い方をしよう。 思考している最中、私は自分自身が生み出す思考ではなく、自分によって生み出されたのではない思考対象を見ている。

■03-14:現在進行形の思考は観察できない

例外的状況を作り出し、自分自身の思考そのものについて考えても、状況は同じである。 現在進行形の思考活動は決して観察できない。せいぜい思考過程において経験したことを、後に思考対象にできるだけである。 もし仮に現在進行形の思考を観察しようとするなら、私は自分の人格を二つに分けなくてはならないだろう。一人は考え、もう一人はその考えている自分を見る。 これは不可能である。 二幕に分けてしか行なえない。 思考を観察するとしたら、それは現在進行形の思考であることは決してなく、別の思考である。 この目的のための対象としては、私自身の以前の思考活動でも、他者の思考プロセスをたどることでも、前に例として述べたビリヤード球といった仮定的思考プロセスでもかまわない。

■03-15:創世記との対応:創ってから見る

活動的な生産、静観的な対置、この二つは両立しない。 このことは、モーセによる創世記に見ることができる。 神は、最初の六日間で世界を創造する。 そしてすべてが出来上がった後で、それらを静観する可能性が生まれる。 「そして神は、自らが創造したすべてを見られ、それが大変よいと思われた」。 これは私たちの思考も同じである。 それを観察しようとするなら、まずそれが存在しなくてはならない。

■03-16:思考を自らが作り出すことの二つの帰結

現在進行形の思考の成り行きを観察できない根拠と、思考プロセスを他のいかなるプロセスより直接かつ密接に認識する根拠は同じである。 私たち自身が思考を作り出すがゆえに、その経過の諸特徴、つまりそこで取り上げられている成り行きがどのように行われているかがわかるのである。 事柄としての対応関係、個々の対象物間の相互関係といったものは、思考以外の観察領域では間接的にしか見出しえない。それが思考では完全に直接的な仕方で知りうるのである。 観察だけでは、なぜ稲妻の後に雷鳴が続くのかはわからない。 雷鳴と稲妻という概念を思考によって結びつける根拠は、二つの概念内容そのものから直接に知る。 私が持つ稲妻や雷鳴の概念が正しいか否かは、ここでは問わない。 私が手にしている両者の関連は、私にとって明らかだし、その由来は両概念自体なのである。

▲思考の物質過程と思考そのもの17

■03-17:思考の生理学的背景はここでは無関係

思考プロセスが透明で明晰であることは、思考についての生理学的知見にはまったく左右されない。 私がここで取り上げている思考とは、精神活動の観察で現われるものだけである。 思考する際には脳内で物質の相互作用などの物質的過程が並行しているが、ここではそれは一切考慮しない。 思考において私が観察するのは、脳内のどのような過程が稲妻と雷鳴の両概念を結びつけるかではなく、何がきっかけでこの両概念が特定の関係にもたらされるのかである。 観察からは、私の思考結合は脳内での物質過程に沿って行なわれるのではなく、まさに考えの内容に沿って行なわれる点がわかる。 現代ほどには物質主義が趨勢を誇る時代でなければ、こうしたただし書きはまったく不要だったはずである。 「物質が何であるかを知れば、物質が思考する様子もわかる」と思い込む人間が居る現代では、大脳生理学に立ち入らずとも、思考を論じうることを明言しておく必要がある。 今日では、思考の概念を純粋な意味で捉えることが難しくなっている。 ここで私が論じてきた思考についての考え方に、即座にカバーニの「肝臓が胆汁を、唾液線が唾液を分泌するように、脳が思考内容を分泌する」という言葉を引き合いに反論する人は、ここでの話の本筋がまったく理解できていない。 そういう人は、他の森羅万象の対象物を見るときと同じ単なる観察で思考を探そうとする。 しかし、そのやり方では思考は決して見つからないし、その理由は、私がすでに証明したように、まさに思考が通常の観察には見えないからである。 唯物論を克服できない人にはある能力が欠けている。 つまり思考においては、思考以外の精神活動では意識化しえない何かを例外的に意識化するという能力である。 この視点をとろうとしない相手とは思考についての議論も成り立たないし、それは視覚が不自由な人と色については語れないのと同様である。 彼には、私たちが生理的過程を思考とみなしているなどと思わないでもらいたい。 思考をまったく見ていないので、彼は思考を説明していない。

▲世界認識の鍵は思考の観察18~21

■03-18:鍵は思考の観察

思考を観察する能力を備えた人にとっては、……正常な人ならその気になれば誰でも思考を観察できる……この観察は人が為しうる観察の中で最も重要である。 なぜなら、その産出者が自分自身である何かを観察しているからであり、自分の見知らぬ対象物ではなく、自分自身の活動と向き合っているからである。 観察している対象がどのようにして生じるのかもわかる。 人はそこでの諸状況や諸関連も見通すのである。 これで、他のあらゆる世界現象を解明しうる確実な足場が得られた。

■03-19:「我思う、故に我あり」との関係

足場が得られたという感情から、近代哲学者ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」を基礎に、人間のあらゆる智を体系付けようとした。 思考以外のあらゆるもの、あらゆる現象は私がいなくとも存在する。そして、それが真実か、幻影か、夢か、私にはわからない。 ただある一つだけは、無条件に確実だと私にはわかる。 なぜなら、私自身がそれを存在へと導くからである。私の思考である。 思考の源泉は、神など、私以外のところにあるかもしれない。 しかし、私自身が思考を現出させている点は、私にとって確実である。 この命題に対し、とりあえずデカルトは上述以外の解釈は退けた。 森羅万象を見渡して、思考を最も私自身たる行為と捉えるという点だけは彼も主張することができた。 命題の後半、「故に我あり」の意味については、論争が絶えなかった。 この部分は、ある一つの条件下においてのみ意味を持ちうる。 ものに対して述べうる最も単純な言明は、それは「ある」、存在するなのである。 こうした存在のより細かい規定がどのようなものであるかは、私が経験しうるあらゆるものにおいて、その出現の瞬間には語りえない。 いかなる対象においても、それがどのような意味で存在するかを規定しうるためには、まず他者との関連を探求する必要がある。 経験されたある成り行きとは、一連の知覚内容であるかもしれないし、夢あるいは幻覚などでもありうる。 要するに、いかなる意味でそれが存在するのかは、私には語れない。 成り行きそのものから意味を汲み取ることはできず、その成り行きを他者と関連づけることによってはじめて、その意味を経験できる。 しかしここでも、その成り行きとこれらの事柄との関係しか知り得ない。 存在の意味を、その存在自身から汲み取りうる対象が見つけ出せれば、探求のための確かな基礎が見つかる。 そしてそれは、思考する存在としての私自身である。 なぜなら、思考的活動による内容、それ自身で充足し規定を持った内容を、私という存在に付与するからである。 これを出発点に私は問うことができる。「他の事柄は、私自身と同じ意味で存在するのか、それとも違った意味なのか」と。

■03-20:思考の観察を加えても無問題:新たな要素は加わわらない

思考を観察対象とするとき、他の観察される森羅万象に、通常なら意識に上らない何かを付け加えることになる。 しかしだからといって、そうした他者に対する人間のかかわり方そのものは、変化しない。 観察対象の数は増えるものの、観察方法は変わらない。 他の事物を観察する場合、森羅万象の出来事に……これも観察の一つに数えるが……ある見逃されたプロセスを混ぜ込んでいる。 こうして他のあらゆる出来事には、配慮が届かない何かが常に混ざる。 思考の観察では、そうした配慮が届かない要素は存在しない。 なぜなら、その背景でうごめいているものも、思考だからである。 観察対象と、そこに向けられる活動とが、質的に同じなのである。 そしてこれも、思考の特徴の一つである。 思考を観察対象とする際には、性質の異なる何かの助けを借りる必要はない。 同一要素内に留まっている。

■03-21:思考の観察によって取り組む問い

その生成に私が関与せずとも存在する対象について思考内で考え始めるとき、私は単なる観察を越えるが、ここで問題になるのは、そこで何が私を正しく導いてくれるのかである。 対象を自分に作用させるだけではなぜいけないのか。 私の思考が対象に関連を持つことは、どのような様子で可能になっているのか。 自身の思考プロセスについて考察するに当たって、誰しもこう問わなくてはならない。 そしてこれらの問いは、思考そのものについて考察することで解消する。 私たちは、思考に異質なものを付け加えることはないし、それを越えて何かを付け加えることを正当化する必要もない。

▲思考の持つ特異な特徴と特異な役割22~27

■03-22:自然創造と自然認識の関係:シェリングの誤り

「自然認識とは、自然創造である」とシェリングは言う。 大胆な自然哲学者のこの言葉を文字どおり受け取るなら、生涯、自然の認識を諦めざるをえないだろう。 なぜなら、自然はすでに存在しているし、それを再度創造するためには、その成立の背景にあった諸原則を認識しなくてはならないからである。 自然の再創造にあたっては、すでに成立しているものから、その存在の諸条件を読取る必要がある。 創造に先行すべきこの読取りが、シェリングの言う自然認識であるし、それはその読取り後の創造が一切実行されないとしてもである。 創造できるとしたらいまだ存在しない自然であるが、それについての事前の認識なしにはそれは行えない。

■03-23:思考では自ら創造せずとも認識できる

認識する前の創造、これは自然では不可能であるが、思考では実際に私たちが行なっている。 思考を認識するまで、思考行為を控えたいなどと思っていたら、思考は始まらない。 後に自己行為の観察という方法によってそれを認識するために、決然と考え始めなくてはならない。 思考の観察にあたって、私たちはまず自身でその対象を創造する。 他の対象では、その存在は私たちの関与なしに与えられる。

■03-24:思考は思考できるが、消化は消化できない

「思考を観察する前に、思考する必要がある」という私の説に対しては、同等の正当性を持って「消化過程を観察するまでは消化を待つ、などと言うことはできない」という反論をぶつけてくるかもしれない。 これはデカルトに対するパスカルの反論、「我散歩する、ゆえに我あり」と似ている。 確かに、消化の生理プロセスを研究する前でも、私たちは決然と食べ物を消化しなくてはならない。 しかし、思考の観察と対比させるなら、消化作用を思考的に観察するのではなく、消化作用を食べ、消化作用を消化しようとしている、と考えなくてはならない。 消化が消化作用の対象にはなりえないのに対し、思考だけは思考の対象になりうるということは、決して無意味ではない。

■03-25:思考ではすべてを見通せるがゆえに宇宙把握の出発点となる

思考において私たちは宇宙的出来事の一端を掴んでいるし、何かが生じる際に、私たちはその一端に居合わせているはずだという点に疑いはない。 そして、まさにこの点が重要である。 私たちにとって思考以外の事柄は謎として現われるが、まさにその根拠は「その成立にかかわっていない」という点にある。 それらは何をせずとも目の前に存在するが、思考ではそれがどのように出来上がるかがわかっている。 それゆえ、宇宙的出来事を観察するに当たって、思考以上に根源的な出発点はない。

■03-26:「行われる思考と観察される思考は違う」という誤り

ここで、広範に見られる思考にまつわる誤りに触れておきたい。 「その本来のかたちでの思考は、人間には与えられていない」という誤りである。 経験という諸観察を相互に結びつけ、概念のネットでつないでいく際の思考と、私たちが対象物の観察の際に用いた思考、さらにはそこから引きはがされた思考、そして後に観察の対象にされた思考は決して同一ではないと言うのである。 私たちが意識せずに事物に組み入れているものと、私たちが後に意識的に引き出すものとは別だと言う。

■03-27:思考の観察でも思考内に留まっている

こう考える人は、このやり方で思考から抜け出すのはまったく不可能である点に気づいていない。 思考を観察しようとする場合、私は思考の外へは一切出られない。 事前に意識する思考と事後に意識する思考とを区別するにしても、こうした区別がまったく表面的で、事柄そのものとは完全に無関係であることを忘れてはいけない。 思考しつつ観察しても、そのことで事柄自体を変化させることはない。 まったく違う感覚器官や知性を持った生物が、馬を私とはまったく違ってイメージしていることは考えうるが、私自身の思考を観察すると、それが別なものになってしまうなどとは考えられない。 私は、自分が産出している事柄を観察している。 私の思考が、別知性から見てどのようになるかではなく、私から見てどうなのかが問題なのである。 いずれにしても、私の思考を別知性が見た像が、私自身による像よりも真実であることはない。 もし思考が私自身によるものではなく、未知な存在の活動によるものだとしたら、思考の像がある特定の仕方で現われるにしろ、その未知存在の思考それ自体については、私は知りえないと言えるだろう。

■03-28:思考は思考において完結する

私自身の思考を別な視点から見る必要性を、私はさしあたって感じない。 思考を助けに、私は思考以外の全宇宙を考察する。 私の思考だけを例外にする必要はあるのだろうか。

■03-29:思考は自らで自らを支える梃子の支点である

私は宇宙観察の際に思考を出発点にするが、以上でその根拠は十分に検証した。 アルキメデスは、梃子を発明したときに、梃子の支点さえ見つかれば、全宇宙さえも持ち上げられると考えた。 彼は、他者によって支えられるのではなく、自分自身によって支えられる何かを必要としていた。 私たちの思考内には、自分自身によって成り立つ一つの原理がある。 この原理から始めて、宇宙の把握を試みる。 思考は、思考自体によって把握されうる。 残された問題は、その思考によって思考以外も把握できるかである。

▲思考と意識の関係30~34

■03-30:思考と意識はどちらが先か

これまでは、思考の担い手である意識についてはまったく顧慮してこなかった。 現代の大多数の哲学者は、「思考より前に意識が存在しなければならない」と反論するだろう。 したがって、出発点は思考ではなく、意識であると主張する。 意識がなければ思考はないという意見である。 それに対しては、次のように反論せざるをえない。「思考と意識の関係を明確にしようとするとき、私はそれについて考えなくてはいけない」と。 つまり私は、思考を前提にしている。 これには以下の再反論がありうる。「哲学者が意識を捉えようとする場合には思考を用いるし、その意味では思考を前提にしている。しかし通常の生活では、思考は意識内に生じるのだから、意識が前提になっている」と。 これが、思考を創造する造物主に対する答えだとするなら、疑いの余地なく正しい。 事前に意識を作り出さなくては、思考を生じさせることができないのは当然である。 しかし、哲学者が問題にするのは、天地創造ではなく、世界の把握である。 それゆえ彼が求めるべきは、宇宙創造の出発点ではなく、宇宙理解のための出発点である。 人は、本書の哲学者が自分の原理(思考)の正当性を第一に問題にし、把握しようとする対象(意識)に頓着していないとして非難する。 しかし私はこの非難を奇妙に思う。 造物主ならば思考の担い手をどうすべきかを知っていなくてはならないが、哲学者は既存のものを理解するに当たっての確かな基盤を探さなくてはいけないからである。 意識を出発点にして思考をその意識よりも下位に置くなら、思考的な考察によって事柄を解明する可能性が事前に与えられていないことになり、この場合私たちは何を利用すればよいのだろうか。

■03-31:思考は主観・客観を超越している

第一に、思考する主観とか、思考される客観といった関連は想定せず、思考を中立的に捉えなくてはならない。 なぜなら、主観と客観、と見るとき、そこには思考によって作り上げられた概念が含まれるからである。 「他者が把握されうるためには、まず思考がなくてはならない」というのは否定されえない。 これを否定する場合、人間である自分が宇宙創造の出発点ではなく到達点にあることを見落としている。 したがって、世界を概念的に認識しようとする場合、出発点は、時間的に最初にある存在の要素ではなく、私たちに最も近く、最も密接な要素を取らなくてはならない。 宇宙生成の原初に跳び、そこから観察を始めるのではなく、まさに現在のこの瞬間から観察を始め、時間的に後のものから先のものへと遡れるかを検討しなくてはならない。 現在の地球の状態を説明するために、硬化に向かう過去の天変地異のことばかりを言っているかぎり、地質学に展望はひらけない。 現在の地球で何が起きているのかを研究することから始め、そこから過去に遡るなら、はじめて確かな基盤に立った地質学になる。 原子、運動、物質、意志、無意識などを手当たりしだいに原理と仮定しているかぎり、哲学は宙に浮いている。 絶対的な到達点から出発するとき、哲学者は目標を達成できる。 宇宙進化における絶対的な到達点とは、思考なのである。

■03-32:「思考そのものが正しいか」は不毛な問い

思考そのものが正しいか正しくないかを私たちは断定できないと言う人たちもいる。 そうであるなら、この出発点にも疑いが伴う。 これはまさに、「樹それ自体が正しいか否かは断定できない」というのと同じくらい理性的な発言である。 思考は一つの事実であり、事実そのものが正当か否かを論じることは無意味である。 ある樹木が特定の道具の素材に適するか否かを問うのと同様、せいぜいのところ、思考が適切に適用されているか否かを問うことはできる。 対象世界に対して思考をどう適用したときに正しく、どう適用したときに誤りなのか、それを示すことが本書の課題である。 思考によって世界について何か意味のあることを示せるのかについての疑問であったら私にも理解できるが、思考そのものの正当性に対する疑いは私には理解できない。

★1918年新版への補足

■03-33a:思考は対象と私を個的に関係づけない

ここまでの論述では、囚われのない観察から得られる事実として、思考とそれ以外の魂の営みの間に見られる重要な相違について述べられている。 この囚われのない観察をしようとしない人は、以下のような反論をしたがる。 「私がバラを考えるとき、これは私がバラの美しさを感じるときと同様に、バラと《私》との関係を表現している。 感情や知覚などにおいて《私》と対象との間に関係が成立しているのと同じように、思考においてもそうした関係が成立している」と。 この反論は、次の点をきちんと熟慮していないことで生じうる。 つまり、思考行為においてだけは、その活動の隅々まで、思考実行者と《私》が一体であるという点である。 思考以外の魂の営みでは、この隅々までという点は当てはまらない。 たとえば快を感じる場合を細かく観察すると、《私》がどこまで活動者と一体であり、どこからが受動的で、その結果、快が《私》に単に現われるだけであるかを明確にできる。 そしてこれは他の魂の営みでも同様である。 ただしその際、「思考像が見える」ことと、思考によって思考内容を練り上げることとを混同してはいけない。 思考像の方は、曖昧な思いつきと同様、夢のように魂内に現われうる。 しかし、思考はそうではない。

■03-33b:思考と意志との関係

……ところで、「そうした意味で思考を捉えると思考内に意志が入り込み、単純に思考を取り上げているのではなく、思考における意志も関係している」と言う人も出てくるだろう。 しかしさらに正しく表現すると、「実際の思考は、いつでも欲せられているはずである」となるだろう。 ただこのように言っても、ここで論考された思考の特質には何の影響も与えない。 それが欲せられるという点は思考の本性として必然かもしれない。 それでも次の点は重要である。 その遂行に当たって、《私》にその全容が見渡せ、《私》自身の活動として現われ出るもの以外は、欲せられることもない。 それどころか、ここで確認された思考の存在性のゆえに、観察者にとって思考とは徹底的に欲せられたものに見えるのである。 思考についての何らかの判断を下すために必要な事柄をすべて見通そうとする人なら、この思考という魂の活動には、上述の特殊性があることを認めざるをえないだろう。

■03-34a:「観察できるのは思考の仮象のみである」への反論

著者が思索家として高く評価している人物(エドゥアルト・フォン・ハルトマン)から、「活動する思考を観察しているというのは思い込みで、それは単に仮象にすぎない。したがって、ここでの思考についての論述は適切ではない」という反論を頂いた。 思考の根底には意識化されない活動が存在していて、実際に観察されるのはその活動による結果にすぎない。 この意識化されない活動は観察されえないというまさにその理由から、観察された思考がそれ自体で成り立つという錯覚が生まれる。これは並んだ電球が順に高速に点滅するのを見て、光点が動いていると思い込むのと同じであると言うのである。 この反論も、事柄を正確に見ていないことから生まれる。 思考内に居て、自我の活動を観察しているのは《私》自身であるという点を考慮しないことから生じる。 並んだ電球の点滅を光点の運動と錯覚するのと同様な錯覚が起きるとするなら、《私》は思考外に居るはずである。 付け加えてこうも言える。「こうした比較をする人は、光点の運動を見て、それぞれの場所で見えない手がその都度点灯しているというのと同じくらい、とんでもない錯覚に陥っている」と。

■03-34b:思考の内に見出されるものだけが出発点

……そうではない。 思考内には、《私》自体の内で見通せる活動によって作り出されたものしか存在せず、それ以外のものを思考内に探そうとしたり、仮説的活動を思考の基盤としてでっち上げようとする人は、簡単に観察しうる単純な事実関係から目を背けているはずである。 自分で目を閉じてしまわなければ、上述のように思考に《付加的に想定された》ものは、すべて思考の本質から外れていることを認識するはずである。 囚われのない観察からは、思考そのものの内にないものは思考の本質に数えることはできないことがわかる。 思考という領域から離れてしまったら、思考が作用するものには到達できない。

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