2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第02章、学問への基本衝動

私の胸には二つの魂が宿る、
 それらは互いから離れようとする;
 一方は堕ちた愛欲の中で、
 生身によって現世にしがみつく;
 一方は塵から自らを力づくでもたげ
 高き予感の地へと向かう
 『ファウスト』第一部(1112-1117)

▲人間における分離と統一のせめぎ合い01~03


■02-01:人は与えられるものでは満足せず認識を求める


ゲーテのこの言葉は、人間本性に深く根ざした一連の性格を表現している。 人間は、一元的に組み上げられた存在ではない。 人は常に、外界が与えてくれるもの以上を求める。 欲しがる思いを自然は人間に与えたが、その中には、私たち自身が活動しなければ満足させられない欲求も含まれる。 与えられた贈り物は豊かだが、私たちの欲求はさらに大きい。 私たちは、満足には達しえないように生まれついているようだ。 その満たされえぬものの特別な一つが、認識への渇望である。 一本の樹を二度眺める。 一回目では、枝は静止し、次には揺れている。 私たちはこうした観察だけでは満足しない。 樹はなぜ、ある時は静止し、ある時に揺れ動くのか。 私たちはそう問う。 自然を見るたびに、私たちの内に多くの問いが生じる。 私たちが出会うあらゆる現象は、私たちへの問いである。 私たちにとって、一つひとつの体験が謎になる。 卵から、親に似た姿の動物が現われる。 すると、この類似の根拠を問う。 何らかの生物で、ある段階までの成長や発展を観察する。 するとこの体験の条件を探究する。 自然が見せてくれるものだけでは、私たちは決して満足しない。 どのような場面でも、事実の解明と言われるものを求める。

■02-02:認識を求めるとき外界とは別存在である自分を自覚する


事物によって直接に与えられるものを超えた何かを求めることによって、私たちの存在全体が二つの部分に分かれる。 一つは外界で、もう一つは外界に対峙する自分であることを意識化する。 私たちは、自立した存在として外界と向かい合っている。 全宇宙は私たちにとって、対極をなす二つとして現われる。 つまり、そして世界である。

■02-03:意識によって自分と世界を分離する


意識が輝き出すと、私たちは外界との間に隔壁を作ってしまう。 しかしそれでも、私たちが世界に属し、世界と絆で結ばれ、宇宙ではなく宇宙内の存在であるという感情が失われることはない。

▲分離を統一へと導こうとする諸見解04


■02-04:人は分離を一体化しようと努力する


この感情が元になって、対置に橋を架ける努力が始まる。 結局のところ、人間の精神的努力は、すべてこの対置の橋渡しなのである。 精神史とは、世界と私たちとを一体として結びつける、絶えることのない探究の歩みである。 宗教、芸術、学問、すべてがこれを目標にしている。 自我は現象世界だけでは満足せずそこに謎を見出すが、信心深い宗教家はその謎の解明を神からの啓示に求める。 芸術家は、自らの内に生きるものと外界とを宥和させるべく、素材に自らの自我の理念を込める。 芸術家も現象世界だけでは満足できないと感じ、現象界を越えたもの、つまり自我の内に隠れたものを形にしようとする。 学者は、諸現象の法則を探り、観察によって経験したものに、思考をもって入り込もうとする。 世界内容を私たちの思考内容としたときにはじめて、私たちは、見失った関連を、再度発見する。 詳細は後述するが、学者が学問研究の持つ課題を通常以上に深く捉えたなら、この目標は達成される。 ここで述べた事柄は、すべて世界史的な現象でもある。 つまり一元論二元論の対立である。 二元論では意識によって生じる自我と世界の対立だけに注目している。 そして、精神物質主観客観思考現象という対立を宥和させるべく、徒労に帰す努力をしている。 二元論は両世界には橋が存在すると感じてはいるものの、それを見出せる状態にはない。 人間は自己を《自我》として体験するし、この《自我》は精神の側にあるとしか考えられない。 さらに、この自我と向かい合う世界の方は、感覚によって捉えられる知覚世界、つまり物質界と考えざるをえない。 こうして人間は、自らを精神と物質という対置の中に置くことになる。 身体が物質界に属するので、その対立はさらに強調される。 《自我》は精神界の一部に属し、感覚知覚される物質的物体や事象は《世界》に属する。 物質と精神にまつわるあらゆる謎は、根本的な謎として、必然的に人間としての固有存在の内に再発見される。 一元論では一体性だけを見て、事実上存在する対置関係を否定、もしくは消去しようとする。 この二つの見方のどちらも、事実関係を正確に捉えていないので、満足な解答を与えることはできない。 二元論では、精神(自我)と物質(世界)を本質的に異なる構成存在と考えていて、両者を関連づける道筋を見つけられない。 精神は、自分とは本性がまったく違う物質界に生起する事柄を、どうしたら知りうるのだろうか。 あるいは、精神が自らの意図を行為に移すにあたって、このような状況下で、どうしたら物質に作用しうるのだろうか。 この問いに向けて、才知に満ちたものから無意味なものまで、あらゆる仮説が立てられた。 現在のところ、一元論の事情も大差ない。 一元論は、三通りの解決策をとった。 精神を否定して唯物論になるか、物質を否定して観念論に救いを求めるかした。 あるいは、最も単純な宇宙存在においても、物質と精神が不可分に結びついていると主張する。 したがって人間においてこの二つの存在様式がいささかも分離せずに見られるのも驚くに当たらないと言う。

▲分離を克服し統一を目指すいくつかの試み05~09


■02-05:唯物論による分離克服の試み


唯物論からは、満足のいく世界説明は得られない。 なぜなら、何かを説明しようとする際には、現象についての考えを作り上げることから出発せざるをえないからである。 唯物論においても考えが出発点で、それを向けるのは物質や物質的経過についてである。 しかしそれを行なった段階で、《物質界についての考え》と《物質界》という二つの異なる事実領域を相手にすることになる。 唯物論では、考えすらも純粋な物質的経過と捉えようとする。 消化器官で消化が行なわれるのと同様に、脳内で思考活動が行なわれると考える。 唯物論では、物質が物理的作用や生命的作用を有するとするし、物質が特定の条件下では思考能力も持つとしている。 しかし、こうすることで問題の所在を変更したにすぎないということに気づいていない。 唯物論者では、思考能力を自分自身にではなく、物質に帰した。 こうして唯物論は振り出しに戻ってしまう。 物質は、どのようにして自らについて考えうるのか。 物質はなぜ自らに満足し、自らの存在を受け入れないのか。 物質主義は、確実なる主観、つまり私たち自身の自我から目を背け、曖昧な対象に行き着いている。 ここで物質主義は、同じ謎に直面する。 唯物論的見方では、問題解決には到らず、問題の配置換えしかできない。

■02-06:観念論による分離克服の試み


それでは、観念論はどうだろうか。 純粋な観念論者は、物質を自立的存在と認めず、精神の産物にすぎないと捉えている。 しかし、この世界観を人間本性の謎の解明に応用すると、袋小路に入ってしまう。 自我は精神の側にあり、それに対置する感覚世界からまずは何も受け取っていない。 さて、感覚世界に近づくにあたって精神的な道筋は閉ざされているように見えるし、そうなると感覚世界は、物質的な道筋を経由して自我に知覚され体験されなくてはならない。 《自我》が精神的存在でしかないとするのであれば、《自我》内にそうした物質的プロセスは存在しない。 自我の精神的作用内には、感覚界は決して入り込めない。 自我が世界と非精神的様式で関係を付けなければ、自我は世界の存在に気づきすらしない。 《自我》はそれを認めざるをえないだろう。 行為の場合にも、意図を物質的素材や物質的諸力の助けを借りて実現せざるをえない。 つまり、外界を必要とする。 極端な観念論者、別な言い方をするなら、絶対的観念論によって極端な観念論者とされる思索家とは、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテである。 彼は宇宙構造体全体を自我から演繹しようとした。 そこで彼は、経験内容を一切含まない、宇宙についての一つの偉大な思考像を作り上げた。 唯物論者は精神を否定することはできず、同様に、観念論者も外的物質界を否定することはできない。

■02-07:より狭い観念論


《自我》を認識しようと目を向けると、まずこの《自我》が理念世界を思考的に形成するのを知覚する。それゆえ精神性に傾倒した世界観では、自らの人間的構成要素に着目しつつ、精神という全体からその一部でしかない自分の観念世界だけを認知するという誘惑に駆られる。 こうして精神主義からは一面的な観念論が生じる。 精神界を観念世界を介して見出そうとするのではなく、観念世界そのものを精神界と見なすのである。 それゆえ観念論は、《自我》の作用範囲内に留まらざるをえないという呪縛を受けたかのようになってしまう。

■02-08:ラング説:世界を物質的に説明しようとして物質を思考の産物とした


奇妙な観念論の一亜種が、多くの読者を獲得した『唯物論の歴史』を著したフリードリヒ・アルベルト・ラングの立場である。 彼は、思考も含むあらゆる宇宙現象が純粋に物質的経過の産物として説明されるとき、唯物論は完全に正しいと言えると仮定している。 たださらに逆に、物質や物質的過程そのものは、思考の産物であるともしている。
「感覚によって私たちに与えられるのは事物の作用だけであり、事物の忠実な像でも、まして事物そのものでもない。 感覚そのもの、脳、そして脳内の分子運動、これらすべてがこの作用である」。
こうして、思考は物質的経過が生み出し、その物質的経過は思考する《自我》が生み出すとしている。 つまりラングの哲学は、自分の髪を引っぱり上げることで自らを宙に浮かばせたミュンヒハウゼンの話を概念に置き換えたにすぎない。

■02-09:単純な存在に物質と精神の両者が融合しているという説


第三の一元論は、最も単純な存在(原子)がすでに物質と精神の結合存在であると考える。 しかしこう考えても、意識内で生起する問いを、別な舞台へ移しているだけである。 つまり、その最も単純な存在自体が不可分な統一体であるとき、どうしたらそれは自分を二通りに表現できるのだろうか。

▲分離を統一へと克服する鍵は人間内にある10~13


■02-10:出発点の確認:対置は意識内で始まる


上述の諸見解に対し、第一にはっきりさせるべき点がある。 それは、根本対置、原初的対置が、まず意識内に現われるという点である。 私たちを母体である自然から引き離して《自我》とし、さらに《自我》を《世界》に対置したのは、私たち自身である。 古典的にはこのことは、とりあえず非学問的な体裁ではあるにしろ、ゲーテの『自然』に書かれている。 「私たちは彼女(自然)の中に生き、同時に異物である。 自然は常に私たちと語り合うが、自らの秘密は明かさない」。 しかしゲーテは、その裏側も語る。 「人間はすべて自然の内にあり、すべての内に自然はある」。

■02-11:私たちは自然と乖離しつつ自然の中に居る


確かに私たちは自然と乖離しているが、私たちが自然の内にあり、自然に属していると感じるのも真実である。 私たちの内に息づくものは、自然そのものの働きでありうる。

■02-12:分離を克服する手段は私たちの内にあるはず


私たちは自然に回帰する道を見つけ出さなくてはならない。 単純な考察が、この道を教えてくれる。 確かに私たちは自分で自分を自然から切り離したが、自然からの何かが私たちの本性内に持ち込まれているはずである。 この内なる自然存在を、私たちは自らの内に見つけ出さなくてはならず、それができればあの関連を再発見するだろう。 二元論はそれを怠っている。 二元論では、人間内面を自然とはまったく異質な精神存在と見なし、この異質存在と自然を無理矢理結びつけようとしている。 これでは当然ながら、接点は見つからない。 まず自分のにある自然を認識すれば、外の世界にも自然を見出しうる。 私たちの内にある自然と同質なるものが、導き手となるだろう。 これで採るべき道筋が示された。 自然と精神との相互作用に思索を弄ぼうとは思わない。 そうではなく、私たちが自然から離れる際に持ち出したあの要素を見出すべく、私たち自身の存在の深みへ降りていこうと思う。

■02-13:自分自身を研究することが指針となる


私たち自身を研究することで、問いの解答が得られるはずである。 私たちは、単なる《自我》ではない、ここにおいては《自我》以上の何かがあると言える地点に到達しなければならない。

▲学問的であることは目指さない14


■02-14:学問的に論述しようとはしていない


ここまで読み進んできた多くの読者が、ここでの論述が《現代の学問レベル》に達していないと考えることは、私の想定内である。 これに対しては次のように述べておきたい。つまり、ここまでの記述では、学問的成果を問題にする意図は一切なく、誰もが意識内で体験できることを述べたにすぎない。 その中で、意識と世界の融和について述べた文が幾つかあるが、それは事実そのものを明確にするためであった。 したがって、《自我》、《精神》、《世界》、《自然》等々の個々の表現を、心理学や哲学における厳密な用法に則して用いてはいない。 日常的な意識には、明確に区分された学問的概念はないし、ここまでは単に日常的な事実関係を問題にしてきた。 意識に対するこれまでの学問的解釈ではなく、日々、意識がどのような営みをしているかを問題にしたのである。

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