2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第01章、意識的な人間の行為

▲人間の自由を考える上での諸要素01~06

■01-01:重要な問い:人間は自由か否か

「思考と行為において、人間は自由であるのか、それとも既定の自然法則的必然の配下にあるのか」。 この問いには幾多の鋭い考察が加えられた。 人間意志の自由という理念には、熱き信奉者も、頑固な反対論者も数多い。 自由という自明な事実を否定できる人間は偏狭な精神の持ち主だと倫理的情熱をかけて語る者がいる。 もう一方では、自然の法則性が行為や思考という人間の領域に入ると成り立たないなどとするのは非学問性の最たるものであると言う人もいる。 まったく同一の事柄が、一方では人類の至宝とみなされ、もう一方では最悪の幻想とされている。 人間の自由と、人間もそこに含まれている自然というものの作用とを、どのように折り合いをつけるか、鋭い感性が無限に費やされてきた。 また、どうしてそうした馬鹿げた考えが生じえたのかを理解すべく払われた努力も決して少なくはない。 首尾一貫性を自らの信条とする者なら、ここに提出されているのは、人生にとって、宗教にとって、実践にとって、また学問にとって最も重要な問いの一つであると感じている。 最新の自然研究から《新たな信仰》を確立しようとする文献(ダーヴィッド・フリードリヒ・シュトラウス『古い信仰と新しい信仰』)が、この問いに次のようにしか言っていないのは、現代の思考が悲惨なまでに表面的になっていることの兆候だろう。 「人間意志の自由について、ここでは深入りはしない。 名に値する哲学では、何物にも依存しない選択の自由などは、いつも空疎な幻影でしかなかった。 また人間の行為や思慮の倫理的価値規定では、選択の自由は取り上げられない」。 私がこの一節を引用したのは、そこに特別な意味を見出したからではなく、この問題に対する現代の大多数の考えが集約されていると思ったからである。 可能な二つの行為から任意に一つを選択できるというだけでは自由とは言えないのは、子どもじみた学問を卒業した人なら誰でも知っているように思われる。 複数の可能な行為からまさにある一つを遂行するに当たっては、常に一つの特定の根拠が存在するというのが一般の主張である。

■01-02:行為の選択の自由は本来の自由とは無関係

これは明解であるように思える。 とは言うものの、反自由論者は常にこの選択の自由を攻撃してきた。 現在、日増しに賛同者を増やしている見解の立場をとるハーバート・スペンサーは、それでも次のように述べている(『心理学の諸原理』、ハーバート・スペンサー著、B.フェッター博士による独訳版シュトゥットガルト1882年)。 「誰でもが任意に欲したり、欲さなかったりしうるというのは本来自由意志というドグマに由来する定理であり、これは当然、意識の分析によっても、これまでの論述(心理学)の内容からも否定される」。 意志の自由に対する他の否定論者たちも、同様な出発点をとっている。 こうした反対論の萌芽はスピノザに見られる。 彼の自由の理念に対抗する単純で明快な論法は、その後、数限りなくくり返されたが、その多くは非常に巧みに理論武装されており、本筋である単純な理路を見つけることが困難である。 1674年の10月か11月、スピノザは次のような書簡を書いている。
「ある事柄が、その本性からの必然によってのみ成り立ち、また行為されるとき、私はそれを自由と呼ぶ。 また、何らかの他者によって厳密かつ固定的に規定されている事柄を、強制されたと呼ぶ。 したがって、例えば神は、必然的であるにもかかわらず、自由である。 なぜなら神は、自らの本性からの必然性だけで成り立っているからである。 同様に神は、自分や他の一切を自由に認識する。 なぜなら神は、自らの本性からの必然性によって、神が認識することのみに従うからである。 私が、自由な決断ではなく、自由な必然性を自由としていることがわかるはずである」。

■01-03:スピノザ:外的動因での行為は自由ではない

「次に、神による被造物に降りて行こうと思う。これらは、完全に外的原因によって、その存在や作用が厳密かつ固定的に規定されている。 これを明瞭に洞察するために、非常に単純な事例を挙げよう。 例えば石が外からの衝突という原因によって、いくぶん運動し始める。 その後、外的原因である衝突が終わっても、石は必然的に運動し続ける。 この慣性によって運動する石は、衝突という外的原因に決定されざるをえないので、強制されたものであり、必然的ではない。 ここで石について言えることは、他のあらゆる事物にも当てはまる。 それらは多くの場合でそうであるように、個々の事柄が外的原因によって厳密かつ固定的な仕方で成り立ち、作用するように規定された複合的なものであるかもしれない。

■01-04:スピノザ:行為の動因を洞察しないと自由ではない

石自身が、運動しつつも、運動継続に可能なかぎり努力していると自覚的に考えていると仮定してみよう。 この石は、自らの努力を自覚し、それに無頓着ではないので、自分は完全に自由であり、運動を続けるのは自らが望むからに他ならないと思い込むだろう。 ところがこれこそが、自分が持つと皆が主張する人間の自由なのである。 つまり、自分の欲求は意識しているものの、その欲求を規定している原因については無知である。 この意味で、ミルクを欲しがる幼児、復讐をたくらむ怒りに囚われた少年、逃げ出そうとする臆病者は、それぞれ自らを自由だと思っている。 さらには、しらふに戻れば言わない言葉を口にする酔っ払いも、それを自由な決意で行なっていると思っている。 経験が教えるところによれば、人間は、欲求をほとんど統御できず、善いことがわかっていても、激情に駆られれば悪いことをしてしまうのであるから、人間が自分を自由だとするにしても、それは単に欲求があまり強くなかったか、しっかり熟慮したことを覚えていたおかげでその欲求を抑えることができたにすぎない」。

■01-05:人間は行為の動因を自覚する場合があるのではないのか

上の見解は、明確で規定もしっかりしているので、そこに隠れた根本的誤謬を見つけ出すのも容易である。まず、その見解をまとめておこう。 石にとっては、衝突にしたがって特定方向に運動することが必然であるように、人間にとっても、何らかの理由に駆り立てられて行動するのは必然である。 自らの行為を意識しているというだけの理由で、人は自分がその行為の自由なる発動者であるとしている。 しかし人間は、従わざるを得ない原因に駆り立てられて行動していることを見逃していると言うのである。 この論考の誤りはすぐにわかる。 スピノザのように考える人たちは、人間が、彼の行為に対して意識を持てるだけでなく、その行為に到る原因に対しても意識を持てることを忘れている。 ミルクを欲しがる幼児や、後悔するようなことを口にする酔っ払いが自由でないことは当然である。 どちらも、身体深部に宿り、そこから抗い難い強制力を発揮する原因については、わかっていない。 しかし、行為だけでなくその原因も意識化している場合と、上述のものとを同一視してもよいのだろうか。 人間の行為とは、一種類なのだろうか。 戦場の兵士、実験室の科学者、錯綜する外交問題に取り組む政治家、これらをミルクを欲しがる幼児と学問的に同じ段階に置いてもよいのだろうか。 問題解決の際に最も単純な事例で考えるのは、確かに最良の方法である。 しかし、事の区別がきちんとできなければ、混乱の原因になるだけである。 行為するにあたって、その根拠を知っているか否かは、そうした根本にかかわる差異なのである。 とりあえずこれは、まったく自明な真実のように思える。 にもかかわらず自由の否定派たちは、本人によって認識され、洞察されている行為の動機と、ミルクを欲しがる幼児における身体的要求に由来する強制的動機とが同じ意味を持つのかを吟味することすらしない。

■01-06:ハルトマン:意志の規定要素の個的性格は未知にとどまる

エドゥアルト・フォン・ハルトマンは『倫理意識の現象学』(451ページ)で、二つの主要要因が人間の意志を規定しているとしている。 動因と(その人の)個的性格である。 人間は皆同じ、あるいは大差はないと考える場合、意志は彼らを取り巻く外的諸事情に左右される。 表象から行為の動因を導く際に、それぞれがその人なりの個的性格に沿って欲求を生み出すとしたら、そこでの規定は外側からではなく内側からということになる。 このとき人間は、外からの表象を、内なる個的性格に沿って動因にせざるをえない、言い換えると、外的動因が主要ではないので、自分を自由であると思い込む。 しかしハルトマンによれば真実は次のようになる。 「私たち自身が表象を元に動機を作り出すにしろ、これは随意的ではなく、個的性格上の資質に沿った必然性に従っている。つまり、自由とは言えない」。 このハルトマンの論でも、私によって完全に意識化された動機と、きちんと把握されずにいる動機との違いに対し、何の配慮もされていない。

▲自由を考える上での中心課題07~11

■01-07:意志の自由に密接にかかわる事柄がある

こう考えると、ここでのテーマを適切に見るための視点につながる。 意志の自由を、意志の側だけから一方的に偏って考えることは許されるのだろうか。 もしそうでないとするなら、どのような問いを関連させなくてはならないだろうか。

■01-08:動機が意志される場合とされない場合を区別

行為の意識化された動機と意識されない衝動とを区別するなら、前者による行為は、盲目的衝動からの行為とは評価が違ってくるだろう。 この差をまず問題にしよう。 そしてこの問いの結果が、自由に関する問いをどのように問うたらよいかに影響する。

■01-09:行為者と認識者を分けてしまうと

行為の根拠を知るということにはどのような意味があるのだろうか。 ある不可分な全体を二分してしまったがために、この問いに目が向けられずにいた。 その全体とは、人間である。 行為する人間と認識する人間とを分けてしまい、最も重要な、認識から行為する人間という部分が空白になってしまったのである。

■01-10:動物的動機と理性的動機では違うのか

動物的欲望に支配されるのではなく、理性が支配するときのみ人間は自由である、 と言われる。 あるいは、目的や決意にしたがって生活し、行為するとき自由であるとも言われる。

■01-11:動機が動物的か理性的かは本質問題ではない

しかし、こう主張しても何も進展しない。 理性、あるいは目的や決意が、動物的欲望と同様に強制的に作用するか否かが問題だからである。 飢えや渇きが私の内で必然的に生じるのと同じように、私の関与なしに理性的決意が生じるなら、私はそれに従わざるをえず、自由は幻想にすぎないことになる。

▲いくつかの自由否定論を論破12~16

■01-12:動機から意志への部分が人を自由にさせない

自由とは、欲することを意志しうる点にではなく、意志を行為できる点にあると言われることもある。 この考えを、詩人であり哲学者であるロベルト・ハマーリンクは『意志の原子論』で、鋭い輪郭を持つ表現で述べている。
「人間はもちろん、意志することを行為できる。しかし、欲したいことを欲することはできない。 なぜなら、意志は動機に規定されるからである。 しかし 欲することを意志できないのだろうか。 この言葉を詳しく見てみよう。 これは理性的な意味を持つだろうか。 根拠や動機なしに意志できるとするなら、それが意志の自由ということになりはしないだろうか。 しかし、根拠を持って他の何物でもないこれを行なおうとすることこそが意志だろう。 根拠も動機もなしに何かを意志するとは、欲することなしに何かを意志するということになってしまう。 つまり、意志と動機は概念的に不可分である。 規定を与える動機がなければ、意志とは、満たされていない潜在的可能性にすぎない。 動機があって初めて意志は活性化し、現実のものとなる。 最も強力に作用する動機に規定されているかぎり、人間の意志は《自由》ではないというのはまったく正しい。 もう一方で、 《不自由》の対極として考えうる《自由》なる意志、つまり、欲しないことを意志しうる、などというのも、馬鹿げていると言わざるをえない」(『意志の原子論』第2巻213ページ以降)。

■01-13:動機が意識化されるか否かが自由の本質

このハマーリンクの論でも、動機が一般論で述べられているに過ぎず、無意識的動機と意識的動機の違いが考慮されていない。 《最強》の動機が私に作用し、それに従うように私を強制するのだとすれば、自由について考えても無意味である。 ある動機が行為を強制するとしたら、行為できるかできないかには何の意味もない。 動機が働いたときに、ある行為をするか否かが問題なのではなく、強制的必然性を持って動機が働きかけているか否かが問題なのである。 もし何かを欲せざるをえないとすれば、それを行使できてもできなくても、不自由であることに変わりはない。 もし私の性格や周囲の状況によって、どう考えても不条理であるような動機が迫ってくるとしたら、意志することを行為できないことに喜びすら感じるはずである。

■01-14:決意が自分の内で生じる様子が本質

固めた決意を行為に移せるか否かではなく、どのように決意が私の内で生じるかが問題なのである。

■01-15:動物を引き合いに出しても人間の意識しうる動機は語れない

人間を他のいかなる生物とも違ったものにするのは、理性的思考である。 活動できるという点は、他の生物と共通である。 人間の行為における自由概念を明確にするために、動物とのアナロジーを持ちだしても何も得られない。 現代自然科学はそうしたアナロジーを好む。 そして動物において人間に似た行動を見つけると、人間学上の重要な問いに肉薄していると思い込む。 こう考えることで理解を誤ってしまう例は、パウル・レーの『意志の自由の幻想』(1885年、5ページ)に見ることができる。
「石の運動は必然的に思え、ロバの欲求は必然的に思えない理由は簡単である。 石を動かす原因は外部にあり、目で見えるが、ロバの欲求に関する原因はロバの内部にあり、見えない。 その原因の働く場と私たちの間には、ロバの脳が存在する。 ……因果関係を見通せないので、そうした因果関係は存在しないとしている。 意志とは、(ロバの)方向転換の原因であり、それ自体は何ものにも左右されず、絶対的な発端である」としている。
ここでも、その根拠が意識化された行為については、「その原因の働く場と私たちの間には、ロバの脳が存在する」とされるだけで、素通りされている。 以上の言葉から、ロバの行為ではありえないにしろ、人間では、私たちと行為の間に、意識化された動機が存在しうることを、レーは想像だにしていないことがわかる。 彼はそのことを数ページ後に証明している。
「意志を規定する原因を私たちは知覚しないので、意志が原因から特定されることはありえないと私たちは考えるのである」。

■01-16:反自由論者は自由が何かを理解していない

反自由論者が何が自由かも知らずに主張をしていることを証明する例は、これくらいで十分だろう。

▲行為の根拠を知るための認識的活動17~19

■01-17:行為の根拠を知るのは認識の問題である

行為者がなぜ行為するのかを自覚していないならば、その行為が自由ではありえないという点は明らかである。 根拠を自覚している行為は、それとどのような関係にあるのだろうか。 そこからはまさに次の問いに導かれる。 思考の根源と意味とは何か。 魂内の思考的活動についての認識なくしては、何かについての智という概念、この場合は行為についての智であるが、それはありえない。 思考全般の持つ意味を認識すれば、行為における思考の役割を明確にすることも容易になるだろう。 「魂は動物にも備わるが、それを精神にまで高めるのは思考である」と、ヘーゲルも正しく述べている。

■01-18:行為の根拠を認識しても”冷たく”はならない

行為のすべてが、冷たい悟性的思考から生じる、などと主張してはいない。 抽象的な判断からの行為だけが最高次の意味で人間的行為であるという立場とはまったく無縁である。 それでも、動物的欲望の充足という領域から一歩でも抜け出た行為では、その動機は考えに満たされている。 愛、同情、愛国心などは、冷たき悟性では語りきれない行為である。 そこには、ハートあるいは心情が正しく宿っていると言われる。 これに疑問の余地はない。 しかし、ハートあるいは心情が行為の動機を作り出すのではない。 確かに行為の動機は、心情を前提としていてそれを自分の領域に取り込む。 しかし私の心の中に同情が現われるのは、意識内に同情すべき人物の表象が現われたときである。 道は、頭を経由してハートにつながっているのである。 これについては、愛も例外ではない。 単なる性欲の表出でない愛であれば、愛とは、愛する存在についての表象の上に成り立っている。 そして、表象が理想主義的であればあるほど、愛はより祝福されたものとなる。 ここでも、思考内容が感情の父なのである。 愛では、あばたもえくぼと言われる。 しかし、これを逆に見ることもできる。 愛は、愛する対象の長所を見せてくれる。 そうした長所に、多くの人が気づきもせず、素通りしている。 一人がその長所に目を止め、それがゆえに心に愛を目覚めさせる。 彼が他の人と違ったのは何であろうか。それは他の何百人もが持ち得なかった表象をその人だけが作り上げた点である。 他の人は表象がないので、愛さないのである。

■01-19:行為の起源の前に思考の起源を吟味する

事柄を私たちが望むやり方で取り上げてもかまわないだろう。 すると以下の点がしだいに明らかになるはずである。 「行為の本質を問うに当たっては思考の起源を問うことが前提になっている」。 それゆえ私は、まずこの問いに向かう。

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