2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第13講、シュツットガルト、1919年9月4日


目次

参考リンク

■導入:洞察を活動に応用する(01)

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▲導入:洞察を活動に応用する(01)

13-01 この連続講演で手にした諸々の洞察を基礎にしますと、人間が外界に対してどのように振る舞っているかを理解できますし、子どものそうした振る舞いに対し、私たちがどのように振る舞えばよいのかが分かります。 そこで重要になるのは、こうした洞察をふさわしい形で生活に応用することです。 頭部と四肢はその形態も対極的ですが、そこからさらに、外界に対する人間の振る舞いが二通りある点に注意を向けてください。

■人間の中の霊的・魂的な流れ(02)

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▲人間の中の霊的・魂的な流れ(02)


13-02 四肢の形があたかも手袋か靴下を裏返すように、頭部フォルムを裏返したものである、という難しい考え方を、私たちは自分のものにしなくてはなりません。 それは、人間のあらゆる営みにとって非常に重要な意味のあることです。 図式化しますとこうなりますし、次のように言えるでしょう。頭部フォルムは、いわば内から外に押されて、つまり内から外に向けて膨らまされています。 四肢の場合、頭部での額の所で裏返り、外から内に押し込まれていると考えることができます。…この裏返りは、人間の営みに多くの意味があります。… 額に向かって、内的人間が内側から向かって行くと想像してください。 手のひらや足の裏をよく見ますと、そこには絶えず圧力がかかっていますし、その圧力は額を内側から押しているものと同じです。ただ、その向きは逆です。 つまり、手のひらを外界に向け、足の裏を大地につけますと、これらの面を通って外から何かが流れ込んで来ます。そしてそれは、額に向かって内側から流れるものと全く同じです。 これは非常に重要な事実です。 これがなぜ重要かと申しますと、これによって人間内の魂的・霊的なものの様子を見て取ることができるからです。 これからもお分かりのように、この霊的・魂的なものとは一つの流れなのです。 この霊的・魂的なものは、流れとして人間内を通って行きます。

■霊的・魂的なもの:内側でせき止められ-外から吸われる(03~09)

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▲せき止め装置としての身体と霊的・魂的なものに吸い取られること(03)

13-03 さて、この霊的・魂的な流れに対し、人間とはいったい何でしょうか。 ここに水が流れ、堰き止められ、それが打ち返されていると思ってください。 霊的・魂的なものもこれと同じように人間内で溢れ返っています。 人間とは、霊的・魂的なものの堰き止め装置なのです。 本来、霊的・魂的なものは何の妨げもなく人間内を流れ抜けたいのですが、人間がそれを押し止どめ、ゆっくりにします。 人間は、霊的・魂的なものを内部で堰き止めるのです。 さて、私がここで流れとしたものの作用は、非常に目を惹きます。 私がここで言う流れ、人間内を貫くこの霊的・魂的なものは肉体にどう作用するのでしょうか。 これは、絶えず人間を吸い取るものなのです。

▲破壊と構築。胸部・腹部系の持つバランスを取る役割(04)

▲過剰な物質としての脂肪(04~05)

13-04 人間が外界と対置しています。 霊的・魂的なものは人間を絶えず吸い込もうとしています。 それゆえ私たちは、身体表面で絶えず皮膚をはぎ落とし、垢を脱ぎ落としています。 そして霊性の力が十分に強くない所、たとえば爪などでは、身体の一部を切らなくてはなりません。なぜなら、外から来る霊性がこれを吸い上げ、壊そうとするからです。 霊性は全てを破壊しようとし、肉体はこの霊性の破壊作用を止めます。 霊的・魂的なものによる破壊、体的なものによる構築、それらの間で人間は絶えずバランスを保たなくてはなりません。 この流れの中に胸・胴部系が挟み込まれています。 この胸部・胴部系は、霊的・魂的なものの進入、破壊作用に対抗し、また人間を物質的なもので満たす源でもあります。 こうしたことから、胸・胴部組織をつき抜けているこの四肢系が、真の意味で、人間における最も霊的な部分であると分かるでしょう。この四肢部は最も物質を作らないからです。 胸・胴部組織が物質代謝的なものを四肢部に送り込むがゆえに、四肢部は物質的でありうるのです。 四肢部は高度に霊的で、それが運動するときには肉体を食い尽くします。 そして身体とは、誕生時から備わっているものを発展させるように、設えられています。 もし四肢を十分に動かさなかったら、あるいは動きが適切でなかったら、四肢は肉体を十分に食い尽くすことができません。 すると胸・胴部にとっては幸福な状態…自分にとって気持ちのよい状態…になり、四肢からの除去が充分ではなくなります。 胸胴部系は、その残りから体内に過剰物質をつくります。 人間はまず魂的・霊的存在として生まれ、体もそれにふさわしく用意されていますが、この過剰な物質が体に入り込みます。 人間が持つべきでないもの、地上的人間だけが物質的に持ちうるもの、言葉の真の意味において霊的・魂的素地のないもの、それが、本来人間が必要とするものの中に入り込んで行きます。人間に脂肪がますます浸透していくのです。 もしこの脂肪が異常な仕方で人体内に蓄積しますと、吸引プロセスとして、消耗プロセスとして体内に入り込む霊的・魂的プロセスに対し、大きな抵抗となり、頭部に向かう霊的・魂的プロセスの道筋を邪魔します。 それゆえ、脂肪の元となる食物を子どもに与え過ぎるのは正しくありません。 そうなると、子どもの頭部が、霊的・魂的なものから隔離されてしまいます。 脂肪が霊的・魂的道筋の邪魔をし、頭が空になるのです。 子どもの太り過ぎを予防する社会的環境全般を整えていく協力体制を、実際に整える必要があります。 大人になってから太るのには別な要素が関係します。 しかし年少期には、健全な成長の子どもはもちろん問題ありませんが、生育異常ではないにしろ形成が不十分な子ども、つまり虚弱なために肥満しやすい子どもでは、適切な食事によって肥り過ぎから守ってやる必要があります。 13-05 しかし、こうした事柄の重大な意味を正当に認めませんと、責任もきちんと取れません。つまりここでの例では、子どもに過剰な脂肪をため込むことを許してしまいますと、人間に対し何らかの計画を持ち、人間内に霊的・魂的なものを通り抜けさせることで何かを表現しようとしている宇宙プロセスを封じてしまうことになるのです。 子どもを太らせ過ぎますと、現実に宇宙プロセスを封じてしまうのです。

▲神経の発生と血液の運搬機能(06)

13-06 というのも、人間の頭部では非常に注目すべきことが起きているからです。 人間内では霊的・魂的なものはすべて堰き止められ、堰にぶつかる水のようにはね返されています。 つまりミシシッピーの砂と同様に、霊的・魂的なものが共に持ち込む物質的なものが、脳内で打ち返され、霊的・魂的なものの堰である脳内で砕け落ちる流れとなります。 物質的なものが砕け落ちつつ、脳内では絶えず物質的なものが沈殿します。 命に満たされた物質素材がそれ自体として沈殿しますと、つまり今述べたように打ち返されますと、神経が生じます。 命を通り抜けた物質素材が、霊性によってそれ自体として沈殿し、生体内で死んでいくと神経が発生するのです。 それゆえ神経とは、生体内における死んだ物質素材であり、命を押し出していて、自ら堰き止め、物質素材を塊として沈殿し、分離したものなのです。 こうして人間内に死にゆく物質素材で満たされた経路、つまり神経が、至る所に生じます。そしてそこで霊的・魂的なものが打ち返され泡立つのです。 霊的・魂的なものは崩壊する物質を必要とし、それゆえ神経に沿ってほとばしり流れるのです。 霊的・魂的なものは、人間の体表部では物質を崩壊させ、剥落させます。 この霊的・魂的なものが人間を満たすことができるのは、人間内で物質が死滅する時なのです。 物質的に死滅していく神経経路に沿って、人間の霊的・魂的なものが体内を動きまわります。

▲霊的・魂的なものが人間内でどのように働くか。三通りの霊概念(07~09)

13-07 このように見て初めて、霊的・魂的なものが人間内で活動する様子がわかります。 まず、霊的・魂的なものは外から迫り、吸い上げ、破壊する活動があります。 次に、入り込み、堰き止められ、泡立ちつつ打ち返され、物質を死滅させます。 さらに、物質素材が神経内で崩壊し、霊的・魂的なものが自分の通る道を作り出し、内から皮膚に向かって行かれるようになります。 なぜなら、霊的・魂的なものは、生体の生きている部分を通ることができないからです。 13-08 では生命を持つものとは、どう考えればよいのでしょうか? 生きたものとは、霊的・魂的なものを入れ込み、それを通過させない、と考えることができます。 死んだもの、物質的なもの、鉱物的なものは霊的・魂的なものを通過させる、と考えられます。 ですから、ここで一種の定義が得られます。つまり、命あるものの定義、また鉱物的・物質的なものが生じる骨・神経的なものの定義がです。 有機的・生命的なものは霊的に不透明で、物質的・物体的なものは霊的に透明なのです。 …「血液は非常に特別な液体だ」と言いますのも、それが、光に対する不透明な物質と同様に、霊性を透過させず、それをため込むからなのです。 その意味では、神経物質も非常に特殊な物質です。 これは光に対する透明ガラスのようなものです。 透明ガラスが光を透過させるのと同じように、物質的・物体的素材、つまり神経素材は霊性を透過させます。 13-09 ご覧のように、これが人間の二つの構成部分の違いです。 つまり、体内の鉱物、霊性を透過させる部分と、体内のより動物的、より有機的・生命体的で霊性をそこに留め、生体を形づくりフォルムを現出させる部分です。

■身体的労働と霊的労働(10~17)

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▲外からの霊、内からの霊-ある矛盾(10)

13-10 さてここに、人間の扱いに関するあらゆることがつながります。 肉体労働では四肢を動かしますが、これは霊性の中でどっぷりと泳ぎまわっている状態です。 ここで言う霊性とは、人間内で堰き止められた霊性ではなく、外界の霊性です。 薪割りや歩行、あるいはそれが役に立つ立たないは別にして、仕事で四肢を動かす際には、皆さんは霊性に浸り、そこで泳ぎ、絶えず霊性とかかわっています。 これは大変に重要な点です。 もう一つ重要なのが、思索や読書などの精神労働では事情はどうなっているのだろうか、という問いです。 …そう、この時に私たちは、内にある霊性と関係しています。 この場合は、四肢によって霊性の中で泳ぎまわるのではなく、私たちの内にある霊的・魂的なものが活動し、体的なものがそれに奉仕しています。つまり私たちの体内では、霊性は完全に肉体的身体的プロセスとして現われます。 この堰き止めによって絶えず内側で物質が打ち返されます。 精神労働では、肉体が過剰な活動を強いられ、肉体労働では逆に霊性が過剰な負担を強いられます。 内部で絶えず肉体と協力していなければ、霊的・魂的に仕事をすることはできません。 歩くときには考えによって方向を決めますから、そこでは霊的・魂的なものが内側から関与してはいます。しかし、肉体労働では内側の霊性はせいぜいその程度しか関与せず、霊的・魂的なものは外側からかかわります。 働く際には絶えず霊の世界の方に入り込んでいきます。 肉体労働では、私たちは絶えず宇宙の霊性と結びつきます。 肉体労働は人間の周囲で霊的であり、精神作業は人間内で体的なのです。 この逆説を自分のものとし、肉体労働は人間の周囲で霊的であり、精神作業は人間内で体的であることを理解する必要があります。 肉体労働では、霊性が私たちのまわりに打ち寄せます。 精神作業では、私たちと並行して物質が活動し、活性化するのです。

▲肉体的労働、疲労と眠り(11)

13-11 肉体労働であれ精神作業であれ、仕事やそこでの疲労やその回復について考え、理解しようとするなら、こうした事柄を知っている必要があります。 ここでの話を理解していませんと、仕事やそこでの疲労やその回復についてきちんと理解することはできません。 人が四肢を働かせ過ぎたら、つまり過度な肉体労働をしたなら、どのような結果になるかを考えてみてください。 するとその人は、霊性に対して過度な親和性を持つことになります。 肉体労働では、霊性が絶えずその人に打ち寄せます。 その結果として、外側からの霊性が人間に過度に影響することになります。 過度な肉体労働によって、私たちは霊的になり過ぎるのです。 外側から霊的になり過ぎます。 その結果、私たちは長時間、霊の方に行かなければなりません。つまり、長く眠る必要があるのです。 過度な肉体労働では、より以上に眠る必要が生じます。 そして長すぎる睡眠は、頭部からではない、胸・胴部系に由来する肉体的活動を過度に促します。 こうした肉体的活動は生命作用を過度に刺激し、体温が上昇し、熱っぽくなります。 睡眠が過剰ですと、血液が体内でほとばしり過ぎ、それが体内で活動しても十分に変容されません。 それゆえ、肉体労働が過剰ですと、過剰な眠りを心地よく感じます。

▲意味のない行為と意味のある行為。体操とオイリュトミー(12~13)

13-12 しかし、怠け者は眠るのが好きですし、長く眠ります。これはどうしてなのでしょうか。 その理由は、人間は本来、働かずにはいられないからです。 仕事をせずにはいられないのです。 怠け者が眠るのはあまりに働かないからではありません。 なぜなら怠け者でも、一日中脚を動かしたり、腕を振りまわしたりしているからです。 怠け者も何かをしています。表面的に見れば、働き者と遜色なく動いています。ただ、していることに意味がないのです。 勤勉家はしっかりと外界と向かい合います。自分の活動に意味を持たせるのです。 これが両者の違いです。 そして怠け者が行う無意味な活動は、有意義な活動より多くの睡眠を引き起こすのです。 なぜなら、有意義な活動では私たちは霊性内で泳ぎまわるだけでなく、しだいに霊性を私たちの内に引き込むからです。 有意義な仕事のために手を伸ばしますと、私たちは霊性と結びつき、霊性と意識的にかかわりますので、霊性も睡眠内での無意識的な活動をあまり多くは必要としなくなります。 つまり人間が活動するか否かが問題なのではありません。なぜなら怠け者も活動しているのですから。そうではなく、有意義な活動がどれくらいなのか、が重要なのです。 有意義な活動…子どもを教える教師たらんとするなら、この言葉は肝に銘じておかなくてはなりません。 それでは、人間はどのようなときに無意味な活動をしているのでしょうか。 それは肉体の要求に従って行為するときであり、その時の行為は無意味です。 自分の肉体の要求に従うのではなく、周囲の要求に従って活動するとき、行為は有意義なのです。 子どもと接するに当たって、私たちはこの点に留意しなければいけません。 一方の側には、子どもの身体活動を、単に肉体的なものだけに向かせる方向があります。これには肉体だけを問題にし、「どのような動きを子どもに行わせるべきか」、という生理学的体操などがあります。 …または子どもの外的な運動を、意味に満たされたものに導くこともできます。それによって単に霊性の中を泳ぎまわるだけではなく、霊性の方向に沿って動くことができます。 すると身体運動をオイリュトミーへと発展的につなげることができます。 単なる肉体的な体操ばかりを行わせますと、子どもに過度な睡眠を要求することになり、過剰な脂肪化への傾向を助長してしまいます。 人間はリズムの中で生きていますから、当然ながら、肉体的な動きもまったくないがしろにすることは許されません。それでも、この肉体へ振れた運動と、オイリュトミーといった有意義なものに満たされた動きを、交互に行うようにしていきます。オイリュトミーではそれぞれの動きが母音や子音を表現していますし、どの動きにも意味があります。つまり体操とオイリュトミーを交互に行うようにすればするほど、睡眠と覚醒に対する欲求に調和をもたらすことができるようになり、意志の側からも、つまり外側からも、子どもの営みを調和させることができるのです。 私たちが体操ですら単なる無意味なもの、単に肉体の要求に従う活動にしてしまったのは、物質主義の時代における副次的な現象です。 単に無意味な動き、何の意義もなく単に身体の要求に従う運動を行うに留まらず、無意味を通り越して反意味、否意味なもの、つまりスポーツにまで至っていますが、これは現代人が求める傾向と対応しています。つまり、人間の考え方を物質的にするに留まらず、感じ方を家畜的にまで引き下ろそうとする傾向です。 行き過ぎたスポーツ活動とは実践的ダーウィン主義です。 ダーウィン主義の理論では、人間は動物から生じたと主張します。 ダーウィン主義を実践しているのが競技スポーツであり、人間を再び動物に引き戻すことがその主たる規範です。 13-13 今日ではこうした事柄をここまで過激に言っておかなくてはなりません。 なぜなら教師は、自分たちを信じてくれる生徒たちの教師となるだけではなく、社会的にも活動しなくてはならないことを理解している必要があるからです。 人類を家畜化していくような事柄を台頭させないためにも、教師は人類全体に働きかける必要があるのです。 これは誤った禁欲主義ではありません。現実洞察からの客観的帰結ですし、何らかの自然科学的認識と同様に真理なのです。

▲霊(精神)的活動と眠り(14)

13-14 それでは精神的作業はどうでしょうか? 思索、読書などなどの精神作業では、絶えずそこに肉体的活動、つまり生命的物質の絶えざる崩壊、生命物質の死滅化が伴います。 ですから霊的・魂的な活動が多過ぎますと、体内に崩壊した生命物質が生じます。 一日中、学問的な仕事ばかりして夜になりますと、体内に崩壊物質、崩壊した生命物質が過剰になります。 これが私たちの中で作用します。 安眠を妨げるのです。 過激な肉体労働は人を泥眠させるように、過激な霊的・魂的作業は睡眠を妨げるのです。 ところが、一歩一歩思考を重ねていく読書…現代人には好まれませんが…、そうしたものによって霊的・魂的に過度に緊張しますと、つまり、過度な思考を伴う読書では、私たちは眠り込んでしまいます。 あるいは、能弁家の毒にも薬にもならない話や、内容の知れたありきたりの話を聞くのではなく、未知の事柄を一語一語考えながら聞くような場合には、人はやがてぼんやりし、眠りに落ちてしまいます。 そこでの内容を真に考え、真に感じつつ受け止めることに慣れていない人が、単に《おつきあい》で講演会やコンサートに行きますと、第一音、あるいは第一声で眠り込んでしまいますし、これはよく聞く話です。 義理や立場上の理由で参加せざるを得ない人は、講演会やコンサートを通して眠っていることがあります。

▲《すべてを関連の中で考えなくてはならない》(15~17)

13-15 ここでもまた二通りのことがあります。 有意義な外的行為と無意味な外的行動が違うように、機械的に推移する思考・観照活動と、必ず感情を伴う思考・観照活動にも違いがあります。 霊的・魂的に活動するに当たって、絶えずそこに興味があれば、その興味関心が胸部活動を活性化し、神経の過度な死滅を防ぎます。 内容を深い興味と共に受け入れようとせず、単に通読するだけでは、体内物質をより死滅化させてしまいます。 興味と温かさをもって全体をたどるなら、血液活動を活発化し、さらには物質の命を保つことができ、精神作業による睡眠妨害を予防できます。 試験のための猛勉強…ガリ勉と言う地方もあります…をしなくてはならない場合、興味もなく多量のことを覚え込みます。 そうせず、自分の興味に沿って覚えるだけですと…少なくとも現代の時代状況では…試験に落ちてしまうでしょう。 帰結として、試験に向けての猛勉強で睡眠が妨げられ、人間の正常なあり様が乱されます。 これは、特に子どもの場合に注意する必要があります。 それゆえ、試験前に行われがちな詰め込み勉強を完全にやめるなら、つまり試験を完全に廃止するなら、そして学年が始まったときと同じように終わるとするなら、子どもにとって最良であり、教育の理想に最も合致したものになるでしょう。 私たちが教師の義務として次のように言えるなら、それが実現します。 「何のために子どもを試験しなくてはならないのか。 私は子どもを常に見てきたし、子どもがそれを分かっているか否かもよく知っている」と。 …当然ながら、とりあえず今日の状況では、これは単に理想にすぎませんし、皆さんの改革精神をあまり強く外に向けないよう、私から皆さんにお願いしておきます。 現代文化にぶつけなくてはならない矛先を、ちょうど棘を内に向けるように、まず皆さんの内に向けてください。そうすることで、現代文化に対しゆっくりと働きかけられるようにです。…こうした領域にはゆっくりにしか働きかけられないのです…。そうすると、人間が違った仕方で考えることを学び、さらには外的な社会状況が現状とは違ったかたちになるでしょう。 13-16 しかし、すべてを関連付けて考えなくてはなりません。 オイリュトミー、これは意味に浸された外的活動、肉体的作業の霊化であること。 月並みなやり方ではなく授業を興味深くすること、これは命を与える…文字通り…知的な作業に命を与え、血を通わせること。 これらを知っていなくてはなりません。 13-17 外に向けての作業を霊化しなくてはならず、内に向けての作業、知的作業に血を通わせなくてはなりません。 この二つの言葉をよく考えてください。すると最初の言葉は、教育的に、そして社会的に重要な意味を持つことが、そして二番目の言葉は、教育的に、そして衛生学的に重要な意味を持つことがお分かりになると思います。

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