2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第11講、シュツットガルト、1919年9月2日


目次

参考リンク

■序論:話の進め方について(01~02)

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▲序論:話の進め方について(01~02)


11-01
前講でお話しした観点から、人間身体の本性を霊的魂的に見渡すことができますし、身体づくりや発達に必要な事柄をすぐにでも整理できます。 ですから、残りの数日は、霊的魂的観点からの知見を元に、人間身体の様子を見ていこうと思います。
11-02
昨日は、人間が頭部人間、胸部人間、四肢人間という三層からなることを見ました。 さらにはこの三層が、魂界や霊界とそれぞれ違ったかかわり方をしている点を認識できたはずです。

■個々の器官系における体魂霊の相互関係(03~09)

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▲人間の頭部形成(03)


11-03
昨日はまず、人間の頭部形成を考察しました。 そして、頭部は主として体である、と述べました。 胸部人間は《体的》であると同時に魂的と見なせました。 そして四肢人間は《体的》、魂的、霊的でした。 しかし、頭部が主として体であると言っても、それだけで頭部の本性を言い尽くしてはいません。 現実には、事物間に明確な境界線などありませんから、頭部は霊的であるにしろ、胸部や四肢とは様子が異なっている、と言った方が適切かもしれません。 ただ、誕生時にすでに頭部は主として体的なのです。つまり、頭部に集まった種々の要素が、完全に肉体的フォルムに表現されています。 それゆえまず頭部に、…これは胎発生でも最初に形成されますが…人間一般の霊的・魂的なものが現れるように見えるのです。 それでは、体である頭部と魂や霊はどのような関係にあるのでしょうか? 頭部とは、可能な限り完全な形成を経た体です。 頭部とは、発生初期に動物から人間への全過程を経ていて、形成されるべきものすべてが形成され、体的な観点では最も完成されているのです。 そして、頭部では魂的なものは次のように結びついています。誕生し、そしてさらに数年間の成長では、子どもの頭部の魂は、完全に夢見状態です。 またこの時期、頭部の霊は眠っています。

▲頭部人間における体魂霊(04)


11-04
頭部では体、魂、霊が奇妙な結びつき方をしているのがわかります。 頭部は体としては非常に高度に発達しています。 その中に、幼児期では夢想的な魂と熟睡的な霊があります。 そこで、この事実を人間総体の発達と調和させることが重要なのです。 交歯期までの発達段階では、人間はまず模倣する存在です。 この時期の人間は、周囲で見たことすべてを真似します。 これができるのは、まさに頭部の霊性が眠っているおかげです。 そのおかげで、頭部霊性を肉体的頭部の外にまで連れ出すことができるのです。 頭部霊性が周囲の世界に留まりうるのです。 なぜなら、眠っている時、人間の魂や霊は身体の外にいるからです。 子どもでは、その眠った霊や夢見る魂は頭部の外に居ます。 子どもとは、周りの人々の傍らに居つつ、周囲の人々と共に生きているのです。 それゆえ子どもは模倣する存在です。 それゆえ、夢見る魂から発して、周囲に対する、とりわけ両親に対する愛が育つのです。 交歯を終え永久歯が生えますと、それは頭部形成の最後の仕上げを意味します。 頭部は、誕生時に体としては完成していますが、発達が最後まで完成するのは生後七年間です。 これまでやって来たことがここで終わり、その終点を示すのが交歯なのです。

▲交歯(05)


11-05
さて、この時に何が終わっているのでしょうか? ご承知のように、フォルム形成が終わっています。 人間を固化させ、フォルムを与えるものを、人間は自分の身体の中に流し込んだのです。 ですから永久歯をもって、世界との第一番目のかかわりが完了した、と言えるでしょう。 …この時人間は、フォルム形成、形態形成にかかわる事柄を終えます。 この時期の人間では、頭部から発してフォルムや形態が細かくできあがってくる一方で、胸部人間としては別なことが起きています。

▲胸部形成(06)


11-06
胸部では、頭部の場合とすべてが根本的に違います。 胸部有機体は、誕生時から体的・魂的です。 頭部はもっぱら体的ですが、胸部はそうではなく体的かつ魂的です。しかし霊性は夢見る存在としてまだ体外にあります。 生後数年の子どもを見ますと、胸部が頭部に比べるとはるかに目覚め、生き生きとしていることがはっきりと見て取れるはずです。 人間を、混乱した一様なものとして捉えるのは、まったくの誤りです。

▲四肢形成(07)


11-07
四肢では、状況はさらに違います。 四肢では、誕生の瞬間から霊、魂、体が密接に結びつき、相互に入り込み合っています。 子どもでも、この部位は最も早くから完全に目覚めています。 手足をばたつかせている子どもを、誕生後の数年間、育てたことのある人なら、このことに気づくはずです。 この時点で、子どもの四肢は完全に目覚めていますが、ただ未完成なのです。 これはまさに人間における神秘です。 頭部の霊性は誕生時にすでに高度に完成していますが、眠っています。 頭部の魂的なものは誕生時に非常に完成していますが、ただ夢見ています。 これらは次第に目覚めていく必要があります。 四肢人間は、誕生時にすでに目覚めていますが、しかし未完成で未発達なのです。

▲教育にとっての帰結(08~09)


11-08
ですから、本来育成すべきは、四肢人間と一部の胸部人間だけなのです。 それは、四肢と胸部の課題は頭部を目覚めさせることだからです。そしてこれは、教育にまつわる最初の現実的な性格づけです。 皆さんは四肢と一部の胸部を育成し、その四肢と胸部によって頭部や残りの胸部を目覚めさせるようにするのです。 こうしたことからお分かりでしょうが、子どもはかなりの資質を持って生まれてきています。 誕生時には、すでに完成した霊性とかなり完成した魂を持って来ているのです。 ですから、育成すべき部分とは、子どもの未熟な霊性と未熟な魂の部分だけです。
11-09
もしそうでなかったら、本当の意味での教育は全く不可能なはずです。 考えてみてください。人間が生まれたときに素地として持っている霊性に相当するものすべてを、もし教育によって与えなくてはならないとしますと、私たち教育者は、人間としてほとんど完全に成長している必要があります。 そうだとしたら、皆さんは直ちに教育を諦めなくてはなりません。皆さんと同程度に賢く、同程度の才能の人間しか教育できないからです。 当然ながら、何らかの領域において皆さんよりはるかに賢く、天才的な人間を教育しなくてはならなくなるでしょう。 これが可能なのは、教育が人間のある特定の部分にだけ関係するからです。 私たちがそこまで賢くもなく天才的でなくても、もしかしたら子どもが持っている天才性、賢さ、善良さといったものにまったく及ばないにしても、人間のあの部分については私たちでも教育できるのです。 私たちが教育によって最も上手く作用しうる部分とは、意志の教育であり、感性の教育の一部分です。 なぜなら、意志、つまり四肢を介して行う教育、さらには感性、つまり胸部の一部を介して行う教育では、私たち自身が到達している完成度まで教育することができるからです。 召使いだけでなく目覚し時計ですら、自分より賢い人間を目覚めさせられるのと同じように、はるかに才能が劣り、はるかに善良でもない人間ですら、より才能を持つ子どもを教育することができるのです。 ただし、次のことはしっかり分かっていなくてはなりません。 知的なものに関しましては、すべてに渡って子どもに優っている必要はありませんが、…今、見てきましたように…意志の発達にかかわるものである善良さ、についてはできうる限りの努力をしなくてはなりません。 腕白小僧でも私たち以上に優れた人間になりえますが、もし私たちが行う教育に対し、他の世界や他の人間からの助力がなかったら、それはほとんど不可能でしょう。

■言語を介した魂的な教育(10)

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▲言語を介した魂的な教育(10)


11-10
この連続講演で、言語にはある種の天才が息づいていることに触れてきました。 (【訳注】天才という語は、日本語では「才能を持った人物」を意味します。しかし、欧米言語では、「彼には天才が宿る」といった用法になります。ですから、ここでは「言語には天才が宿る」というニュアンスになります。) この言語の天才(Genius)は天才的(genial)で、私たちよりずっと賢明です。 言語がつながる様子、言語の有する霊性については、多くを学ぶことができます。

■自然から与えられた教育手段…母乳(11~13)

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▲問題(11)


11-11
しかし、私たちの周りには言語以外にも天才があります。 これまでの知見をまとめてみましょう。誕生時の人間の頭部では、その霊性は眠っていて、魂は夢見ています。ですから、人生の最初期、つまり誕生時から、意志を介して教育する必要があります。なぜなら、もし意志を介して人間に働きかけられないとすれば、頭部の眠れる霊性に働きかける術がないからです。 何らかのかたちで頭部霊性に働きかけることができなければ、成長過程に大きな空白ができてしまいます。 ここで、眠った頭部霊性を持つ人間が誕生したとします。 足をばたつかせている子どもに、体操やオイリュトミーをさせることはできません。 それは無理です。 足をばたつかせ、何かをブツブツ言っている赤ん坊に、音楽教育を行なってもよい影響はありません。 この時期の子どもには、芸術的なもので近づくことはできません。 この段階では、眠れる霊性に意志から働きかけるための有効な架け橋がありません。 子どもがもう少し成長し、意志に働きかけられるようになれば、眠れる霊性に働きかけることができます。 単語を手本のように語ることができるようになれば、意志への手がかりが得られます。 なぜなら、子どもが初めて単語を発声するとき、発声器官から意志活動を内包するものが解放され、それが眠れる霊性にまで入り込み、目覚めさせるからです。 しかし生れたばかりの時期には、何の架け橋もありません。 四肢では意志や霊性が目覚めていますが、四肢から眠れる頭部霊性に向かう流れがないのです。 この時期には、まだ別の仲介者が必要です。 誕生後の間もない時期には、私たち人間である教育者には、ほとんど為す術がないのです。

▲母乳(12)


11-12
ここでも別な天才、つまり私たち以外の霊性が現れます。 言語にも天才が宿りますが、乳児期には子どもの言語霊に働きかけることはできません。 しかし、自然自身が天才、霊性を有しています。 自然にそうした霊性がなかったなら、成長の最初期に教育的空白ができてしまい、発達が阻害されてしまうはずです。 自然の霊性が、この空白の架け橋になるものを作り出してくれています。 つまり、自然霊性は四肢的なものをさらに発展させ、四肢人間にある素材を作り出させます。この素材は、その生成過程から四肢人間と深く関係していますから、四肢人間的なものを内に含んでいます。それが母乳なのです。 母乳は、女性の腕と関連して生じます。 母乳を作り出す器官は、上肢がいわば内に向かって伸びたものです。 動物界および人間界において、乳は四肢的本性と内的つながりを持つ唯一の素材で、いわば四肢的本性から生じ、四肢的本性の力を内包する唯一の素材です。 子どもに乳を与えますと、唯一無二なる本質的作用を有するこの素材は、少なくとも眠れる霊性を目覚めさせるのです。 これこそが、皆さん、完全に物質化しつつも、現れるべき所では姿を現す霊性なのです。 母乳は霊性を宿していて、その霊性が子どもの眠れる霊性を目覚めさせる役割を担っているのです。 これは単なるイメージではなく、深い根拠を持つ自然科学的な事実です。つまり、自然界に存する天才が、神秘に満ちた自然という地中から、母乳という素材、子どもの眠れる人間霊性を目覚めさせる素材を作り出しているのです。 私たちは、宇宙存在におけるこうした神秘に満ちた深い関連を見通さなくてはなりません。 そうしたときに、宇宙がいかに素晴らしい法則性を内包しているかを理解するようになります。 そうしますと、物質素材に対し理論を構築することで私たちがますます無知になっていくことが、少しずつ分かってきます。 つまり、物質素材をまず原子や分子にばらばらにし、それらが何の意図もなしにまとまったものと捉える理論です。 この物質はそんなものではありません。 こうした物質の一つである母乳は、眠れる人間霊性を目覚めさせる、という切なる欲求を持って作り出されたものなのです。 人間や動物では《欲求》という言い方をしますし、これは根底に意志が存する力です。同様に、物質についても、より一般的な意味で《欲求》と言えるのです。 そして「乳が生み出されるとき、乳は子どもの人間霊性を目覚めさせんと欲求している」と言うとき、私たちははじめて乳を包括的に捉えているのです。 私たちの周囲にある物はすべて、私たちがそれを真に観れば生命を持ちます。 外界に存する物すべては人間と関係していますし、私たちがそれらから離れてしまうことは決してないのです。

▲魂的、そして自然的教育。まとめ(13)


11-13
成長の最初期には、自然界の天才そのものが人間の成長に配慮していることがお分かりだと思います。 その後は、私たちが子どもを教育し、さらに発達させることで、自然界の天才の仕事を減らしていくのです。 私たちは、言葉や行動を模倣させることで子どもの意志に働きかけ始め、それによって自然界の天才の仕事を引き継いでいます。 自然の天才が子どもの栄養として母乳を作り出し、それを栄養とすることで行ってきた仕事を引き継ぐのです。 このことからも、「自然は自然な仕方で教育する」ことがお分かりでしょう。 なぜなら、母乳という自然からの栄養は、最初の教育手段だからです。 自然は自然的に教育します。 言語や行為を介して子どもに教育的に働きかけるとき、魂的な教育が始まります。 それゆえ教師は、「初めのうちは、頭部そのものにはそんなに働きかけられない」と、しっかりと自覚していることが大切です。 頭部は、誕生の際にすでに、この世界であるべき姿として生まれてきています。 私たちは、頭部にあるものを目覚めさせることはできますが、そこに何かを押し込むことはまったくできません。

■文明諸技術(14~15)

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▲霊的世界と地上的世界(14)


11-14
しかしここではっきりさせておかなくてはならないことがあります。 つまり、誕生前の世界からこの物質的地上存在へと持ち込めるのは、ある特定のものだけである点です。 文化の発達過程で生じた外的慣習上の事柄は、霊界からは与えられません。 つまり、慣習的な事柄である読み書き…これについては別なところで触れましたが…、これを子どもは霊界から持ってきてはいません。 霊たちは書きません。 読みもしません。 本も読みませんし、ペンで文字を書きもしません。 霊たちが人間の言葉を操り、さらにはそれを書きつけるというのは、心霊主義者のでっち上げです。 言語や文字は文化的慣習でしかありません。 これはこの地上だけのものです。 この読み書きという文化的慣習を、単に頭を介して教え込むのではなく、胸部や四肢をも介して教えるときにはじめて、それは子どもにとって望ましいものになります。

▲芸術の要素からの読み書きの授業(15)


11-15
七歳で子どもは小学校に入学します。…それ以前も、子どもは単にベビーベッドに横になっていただけではなく、年長者を模倣して自分自身で成長してきましたし、ある意味では自分で自分の頭部霊性を目覚めさせてきました。このように子ども自身が自分の頭部霊性を目覚めさせますと、それを通常の仕方での読み書きに利用することができるようになります。しかしこのとき、私たちの影響で子どもの頭部霊性を傷つける可能性があります。 それゆえ、読み書きを教えるには、芸術的授業の他によいものはない、と申し上げたのです。 …線描や絵画、あるいは音楽の初歩的要素から始めて、読み書きを教えなくてはならないのです。 これらは人間の四肢や胸部に働きかけ、頭部へは間接的に働きかけるからです。 そして、これらが人間の頭部を目覚めさせます。 すでに当たり前になっている、読み書きを知的に教えるやり方は、子どもの頭部を苦しめます。しかし、私たちはそれを避けることができるのです。 子どもにまず線描をさせ、その後で文字の形へと移っていけば、四肢から頭部に向けて教育していることになります。 たとえば、F のお手本を書きます。 そして子どもにこの Fの文字を書き写させます。すると、まず「見る」ことで子どもの知的な部分に働きかけ、その知的なものを意志にまで調教することになります。 これでは方向が逆です。 できる限り、意志の側から知を目覚めさせるのが正しいのです。 これは、芸術的なものから知的なものへと移行することによって、初めて可能です。 このように、子どもを受け持った最初の瞬間から、読み書きを芸術的に教えなくてはなりません。

■《子どもは成長しなくてはいけない》(16~20)

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▲魂的手段による成長の助長と抑制(16)


11-16
子どもは、皆さんの授業を受けながらも、並行して別なこともしなければなりません。 教育に際しては、その点にも配慮しなくてはならないのです。 皆さんの活動に間接的に付随することを、子どもはいろいろな意味で行わなくてはなりません。 子どもは成長しなくてはならないのです。 皆さんの教育の元で、子どもは正しく成長しなければならない、という点を肝に銘じておく必要があります。 しかし、これはいったいどういう意味でしょうか? つまり、教育活動によって子どもの成長を妨げてはいけないのです。 成長を阻害するような働きかけをしてはいけません。 成長への要求が満たされる授業だけが許されるのです。 私の今の話は、特に小学生で重要です。 フォルム形成は、頭部から始まり身体全体におよび、それが交歯期まで続きます。それと同じように、成長及びそれに付随することが、性的成熟までの間の小学生時代に生じます。 胸部から始まる生命的発達が性的成熟で終ります。 ですから、小学生期の発達では特に胸部人間と密接にかかわります。 皆さんの授業中にも、子どもは自分の胸部器官を介して発達成長していることを知っていませんと、正しい道からはずれてしまいます。 自然は、呼吸、栄養、運動といった胸部機構の作用を通して子どもを発達させていますから、皆さんもある意味で自然の仲間にならなくてはいけないのです。 実際、自然な発達の仲間にならなくてはいけません。 しかしこの自然的な発達を知らなかったら、自然的発達のよき仲間となることなどできるでしょうか。 たとえば、どのような授業活動が、魂的な意味で成長を遅らせ、どのようなものが促進するのかを知らなかったら、良い教育ができるでしょうか。 成長途上の子どもで、成長的諸力をある程度までなら抑えることができ、背丈ばかりを伸ばすことも可能なのです。もちろんこれは有害な場合もありますが。 子どもの成長を不健康に抑制し、小柄に止めてしまうこともある程度までは可能なのです。 つまり皆さんは、人間の成長状況をきちんと洞察していなくてはなりません。 魂的なもの、体的なものについて、こうした洞察をしている必要があるのです。

▲ファンタジーと記憶が成長に及ぼす影響(17~20)


11-17
成長に対する魂的なものからの影響を、どうしたら洞察できるでしょうか。 そのためには、通常より優れた心理学を応用しなくてはなりません。 このより優れた心理学によれば、成長力を加速し、偏った徒長へと向かわせるものとは、記憶形成やそれに関連する事柄です。 記憶に過度に負担をかけますと、もちろんある限度内ですが、子どもを細長く上に伸ばします。 またファンタジーに負担をかけすぎますと、成長を抑制します。 記憶とファンタジーは人間の生命展開力と秘密に満ちた関係にあります。 この諸関係をいくらかでも見抜く目を育てなくてはなりません。
11-18
前にも述べましたように、9歳や12歳では成長エポックが始まりますので特に重要な時期ですが、それぞれの学年の始めに、教師は受け持った生徒を総合的に見ることができなくてはなりません。 この時、子どもたちの肉体的な発達を評価しておく必要があり、子どもたちの外観を覚えておかなくてはなりません。 そして学年末、ないしは何かの区切り毎に再度評価し、その間の変化を観るのです。 この二回の評価によって、「この間、ある子はしかるべき発達をしていないが、別な子は少し背が伸びた」などと分からなくてはなりません。 その結果から教師は自分にこう問います。「次の学期ないしは学年では、記憶とファンタジーのバランスをどうとって、こうしたアンバランスを調整しようか」、と。
11-19
それゆえ、全学年を一人の担任が受け持つことが非常に重要ですし、毎学年担任を替えるという制度が、正気の沙汰ではないことがおわかりになると思います。 事情は全く逆なのです。 年度始めや成長エポックの始め(七歳・九歳・十二歳)で、担任は子どもを少しずつよりよく知っていくのです。 担任は典型的なファンタジー型の子どもと知り合うでしょう。 そういう子は、すべての形を変えていきます。 また、何でも覚えてしまう典型的な記憶型の子どもとも知り合うでしょう。 教師はこうしたことも事前に知っていなくてはいけません。 先ほど紹介した評価を2回行えば、こういったことも分かってきます。 しかし、評価によって単に外的な成長を知るだけでは十分ではありません。 身長が早く伸びすぎる危険(記憶力が良すぎる場合)や、身体の発達が遅れる危険(ファンタジーが豊かすぎる場合)といった、ファンタジーや記憶そのものからわかる事柄まで観ていく必要があります。 身体と魂の関係を言葉面だけで知るのではなく、それを成長しつつある人間において体、魂、霊の共同作用として観察できなくてはなりません。 ファンタジーが豊かな子どもと、記憶力のすぐれた子どもでは成長が違うのです。
11-20
今日、心理学者たちはすべてお見通しです。 記憶とはこう、またファンタジーとはこう、と心理学者は書き記します。 しかし、現実にはすべてが相互に関係し合っています。 私たちがほんの少し努力すれば、こうした相互関係も理解できるのです。 つまり、私たちの理解能力を正しい定義のために用いるのではなく、理解能力自体を柔軟に保ち、この理解力で理解したことを内的、概念的にさらに流動的に保つようにするのです。

■まとめ(21)

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▲まとめ(21)


11-21
霊的・魂的なものが、自然な流れで身体的・肉体的なものに入り込んでいくことが、お分かりになったと思います。 その程度はさらに高度になり、こう言えるのです。 乳児期には、身体からの作用、つまり母乳を介して自然という天才が人間を教育する、と。 その後、交歯を終えましたら、芸術をふさわしいやり方で子どもの中に滴のように注ぎ入れることで教育を行なうのです。 小学校の終盤では、霊的・魂的なものがさらに変化してきます。 もう少し成長しますと、自立した判断力、個人としての感情、自立した意志が確立されますが、この頃から少しずつそれらの予兆が微かな光として入り込んでくるのです。 それを考慮し、これからやって来るものを実際に活用するようなかたちで、私たちはカリキュラムを組むのです。

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