2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第10講、シュツットガルト、1919年9月1日


目次

参考リンク

■導入:話の流れ、復習と予習(01)

目次にもどる

▲問題点(01)


10-01
これまで、魂と霊の観点から人間の本質を述べてまいりました。 最低限、何条かの光を当て、霊的、魂的観点から人間を観察してきました。 これらの二つの観察に、さらに体的な観点を加え、人間をより完全に概観し、その後で身体を外的にも捉えようと思います。

■頭部、胸部、四肢の構造と形態(02~05)

目次にもどる

▲球形が形態の中心的モチーフ(02)


10-02
まず、いろいろな面でよく目に付く事柄を思い出してみましょう。人間本性の三部分がそれぞれ異なるフォルムを持つ点です。 頭部はおよそのところ球形で、この球形フォルムに頭部の体的本質があることはお話ししました。 さらに、胸部は球の一部であり、図式化するなら、頭部は球形に、胸部は三日月形になると申し上げました。 ですからこう言えるはずです。「胸部の三日月形は完全な球形に補いうる」、と。 人間の胸部、つまり中間部分のフォルムを大きな球形と捉え、三日月のようにその一部だけが見えていると考えるのが正しい捉え方です。 古い時代では後代よりフォルムを観通す能力が優れていて、頭部を太陽に、胸部を月になぞらえていましたし、それが誤りではないことを皆さんも納得なさるはずです。 満月以外では月は断片しか見えませんが、人間中間部の胸部フォルムも本来、断片なのです。 それゆえ、人間頭部が物質界におけるかなり完結したフォルムであると理解できるはずです。

▲頭部と太陽との関連(02)

頭部フォルムは物質的にかなり完成しています。 頭部は、いわばそこにすべてが現れているのです。 包み隠さずそこにあるのです。

▲胸部と月の関連(03)


10-03
胸部ではかなりの部分が隠れていて、その本性のかなりの部分を隠しています。 胸部のかなりの部分が隠れているという点は、人間の本質を認識するにあたって非常に重要です。 胸部の肉体として見えている部分は大きな球の後面で、前面は見えず、魂に移行している、と言えるでしょう。 頭部では全体が肉体であるのに対し、胸部では後方だけが肉体で、前方は魂なのです。 頭を静かに肩の上に乗せ、私たちは実際の肉体を運んでいます。 胸部を大きな全体から分離させ肉体的胸部にし、さらにそこに魂を浸透させることによって、私たちは体と魂を持つことになるのです。

▲四肢(04)


10-04
さて、この体と魂の部分、つまり外的に見ますと胸部ですが、そこに四肢がつながっています。 第三の要素とは、四肢としての人間です。 さて、この四肢人間は、どのように理解できるでしょうか? 四肢人間を理解するには、胸部球形の見えていなかった部分に着目する必要があります。 胸部では外周の一部が残りました。 しかし、四肢では球の内部、つまり半径の一部分が残り、それが四肢として人間に差し込まれているのです。

▲《頭部にも四肢がある》-比較(05)


10-05
繰り返し述べてきたことですが、模式的に分けても、物事を正しく理解することはできません。 常に、一つを他と織り合わせなくてはなりませんし、命とはそれによって成り立っているのです。 私たちは、四肢的人間は四肢から成る、と言っています。 しかし、四肢は頭部にもあります。 頭蓋骨をきちんと観察しますと、そこには上顎骨や下顎骨が組み込まれています(図)。 これらはまさしく四肢のように組み込まれています。 頭蓋骨にも四肢があるのです。上顎骨と下顎骨という四肢が頭蓋骨にはあるのです。 しかし、それらは頭蓋骨では萎縮しています。 四肢は他の身体部分では十分大きく形成されていますが、頭蓋骨では萎縮していて、ほとんど骨の構造体です。 もう一つ違いがあります。頭蓋骨の四肢である上顎骨や下顎骨を観察しますと、そこでは骨として働いています。 身体に差し込まれた、本来の意味での四肢では筋肉や血管に覆われている点が本質的であると言わざるをえません。 腕、脚、手、足では、いわば筋肉・血管系に骨が付随しています。 それに対し、頭部の四肢である上・下顎骨では筋肉・血管系は著しく退行しています。 これは何を意味するでしょうか? …前にも述べましたが、ご承知のように血液と筋肉は意志の器官です。 つまり、意志のために主に、腕、脚、手足が形成されたのです。 血液と筋肉は主に意志のために働きます。 それに対し、頭部は知的・思考的認識に向けて形成されるはずです。 それゆえ、頭部における四肢では血液と筋肉が退行しているのです。 ですから、宇宙意志が身体フォルムにどのように開示しているかを研究するには、腕、脚、手足を研究すればよいのです。 また宇宙叡智が身体フォルムにどのように開示しているかを研究するには、頭蓋骨、さらには上下顎骨、そして頭部の四肢に類似する部分の骨を探究すればよいのです。 外的フォルムのいたるところに内的なものの開示を見ることができます。 また、それを内的なものの開示と見なければ、外的フォルムは理解できません。

■フォルム諸原則の相互関係:メタモルフォーゼと裏返り(06~08)

目次にもどる

▲難しい章(06)


10-06
さて、腕や脚の管状骨と頭部の皿状の骨にどのような関係があるかは、多くの人にとって理解し難い、と私は常々感じていました。 しかし、通常の生活とはかけ離れたことを理解するのは、まさに教師にとってはよいことです。 しかし、これは非常に難しく、この教育講演の中でも一番の難所かもしれません。

▲背骨と頭蓋骨:メタモルフォーゼ(07)


10-07
ご存じのように、ゲーテが最初にいわゆる頭蓋骨脊椎骨説に着目しました。 この説は何を言っているのでしょうか? これは人間形姿へのメタモルフォーゼ論の応用です。 人間の脊柱では、脊椎骨が積み重なっています。 脊椎骨には棘突起があり、穴の部分には脊髄が通っていて、その一つはこのようになります(図)。 ゲーテはヴェネチアで羊の頭蓋骨を目にし、頭蓋骨の全てが脊椎骨の変形であることを観察しました。 つまり、椎骨のそれぞれの部分を大きくしたり小さくしたりすることで、頭蓋骨を構成する各部の骨を導き出せるのです。 ゲーテはこれに強い印象を受け、そこから彼にとって重要な「頭蓋骨とは、変形したより高度化した脊椎骨である」という結論が必然的に導き出されたのです。

▲四肢骨と脊椎骨、さらには頭蓋骨:裏返り(08)


10-08
脊椎骨がメタモルフォーゼして頭蓋骨になった点は、比較的容易に理解できます。 ゲーテは…外的なやり方ではありますが…頭部における四肢である上下の顎骨も椎骨、あるいは頭蓋骨の変形として捉えようとしましたが、このメタモルフォーゼを捉えるのは非常に困難です。 なぜ困難なのでしょうか? 身体の管状骨も実は頭蓋骨のメタモルフォーゼなのですが、その変形が非常に特殊だからです。 脊椎骨の一部を大きくしたり小さくしたりすると考えれば、比較的容易に頭骨に変形できるはずです。 しかし、腕や脚の管状骨を皿状の頭骨に変形するのは易しくはありません。 この変形を理解するには、ある手続きを踏まなくてはなりません。 靴下や手袋を着るときにそれを裏返すことがありますが、腕や脚の管状骨についてそれと同じ手続きを行なう必要があるのです。 裏返した手袋や靴下がどんな様子かは比較的容易に想像できるでしょう。 しかし、管状骨は全体が均一ではありません。 これはそんなに薄くもなく、内外が均一に作られてもいません。 内と外でつくりが違います。 表面に凹凸のある芸術的フォルムを施した弾力的な靴下を作り、それを裏返しますと、そのフォルムは同じにはなりません。 管状骨もこれと同様です。 管状骨の内外を裏返しますと頭骨のフォルムが生じます。ですから、四肢の骨とは、頭骨の変形であるだけでなく、裏返しでもあるのです。

■《球》と身体の系(08~12)

目次にもどる

▲中心と周囲(08~10)


10-08
(本来、ここでは段落分けなし)それは何から由来するのでしょうか? それは、頭部の中心が内部にあり、中心内包的だからです。 胸部の球の中心点は胸の中にはありません。これは非常に遠くにあります。 この図では胸部を単に断片として描いていますが、もし全体を描いたら非常に大きなものになります。 つまり、胸部の中心点は非常に遠くにあります。
10-09
それでは四肢系の中心点はいったいどこにあるのでしょうか? これが第二の難所です。 四肢系の中心点は、私たちを取り巻く辺縁全体にあります。 四肢系の中心点は一つの球全体、つまり点の対極なのです。 正確には球面全体なのです。 球面のあらゆる部分が中心点ですので、どのようにでも旋回できますし、半径はどの方向からでも射し込むことができるのです。 そして、これらの半径が皆さんと一体になるのです。




10-10
頭部内のものは頭部から発しています。四肢を通って来るものは、皆さんと一体になるのです。 それゆえ私は以前の講演で、「四肢は差し込まれたものと考えなくてはならない」と言う必要があったのです。 私たちは実際、一つの世界全体です。そして、外から入り込もうとするものの最終端だけが密になり、四肢として見えるようになっているのです。 私たちの本来の存在から、その極わずかな部分だけが四肢として見えていますから、肉体的な四肢とは、本来の四肢系の微々たる部分に過ぎません。 霊、魂、体の霊は、人間の四肢系です。 四肢系では体的要素はわずかな暗示に過ぎませんが、そこには魂的要素や霊性もあり、この霊性が全宇宙を包括しているのです(挿絵参照)。

▲三つの《球》(11)


10-11
さて、人間を違った風に描くこともできます。 「まず人間は宇宙全体を包括する非常に大きな球であり、次にやや小さな球であり、さらに一番小さな球でもある」と言えます。 最小の球では全体が見え、中位の球はその一部だけが見え、最も大きな球ではその放射線の終端が見えるだけで他の部分は見えません。 人間フォルムはこのように大宇宙から形成されたのです。

▲頭部系と四肢系が胸部において合一する(12)





10-12
そして中間に位置する胸部系では、頭部系と四肢系が一つにまとまっています。 脊椎骨と肋骨をセットにして観察しますと、前面で閉じようとする試みがあるとわかります。 背面では完全に閉じていますが、前方の肋骨では閉じる試みはあるにしろ、完全に閉じてはいません。 頭部に近い肋骨は閉じているにしろ、下に行くほど閉じ方が不完全になります。 最下部の肋骨は両端が離れ、開いています。なぜなら、そこで四肢に流れ込んでくる外側の力が、閉じる力を打ち消しているからです。

■人間の身体と《宇宙の動き》(13~17)

目次にもどる

▲エジプトとギリシャの彫刻芸術(13)


10-13
人間とマクロコスモスのこのような関連を、古代ギリシャ人はまだ非常に強く意識していました。 古代エジプト人もこのことをよく知っていましたが、いくらか抽象的に知っていました。 古代エジプトを含めた古代彫刻を観ますと、そこにはこのコスモスという考えが表現されています。 古代人は、「頭部は小さな球であり、小型の宇宙体である。四肢は、大宇宙の半径が辺縁全体から人間形姿に射し込んだものである」という彼らの信仰に対応したかたちでいろいろなことを行っていましたが、この信仰を考慮しませんと、古代人の行為を理解することはできません。 古代ギリシャ人は、この事柄に対する調和的なイメージを持っていましたので、よき造形家、よき彫刻家でありえたのです。 現代でも、この人間と宇宙との関係を意識しませんと、真に人間を芸術的に造形することはできません。 それがないと、表面的な自然形態を真似てこねくり回すだけです。

▲人間に向かう傾向と宇宙に向かう傾向(14)


10-14
これまでの私の話からお分かりかと思いますが、四肢は宇宙の側に寄っていて、頭部は個々の人間の側に寄っています。 それでは、四肢はどの相手に特に強く引かれるのでしょうか? 四肢とは、宇宙に引きつけられています。その宇宙の中で人間は動き、自らの位置を絶えず変えます。 四肢は宇宙の動きと関連しています。 四肢は宇宙の動きと関連している、という点をきちんと理解していてください。

▲鉄道の乗客(15)


10-15
宇宙の中で行動し、歩きまわっているのは、私たちの四肢としての人間です。 この宇宙における運動に対し、頭部はどのような役割を担っているでしょうか? 以前も別な観点から申し上げましたが、頭部は肩の上に静止しています。 頭部の課題は、運動する宇宙を絶えず静止させることなのです。 皆さんが霊性と共に頭部に入り込むときのイメージは、まるで走る列車に乗り静かに座っている感じでしょう。 そのように、四肢によって前進する頭部に魂が座し、その中で動かず、運動を内的に静止へと導くのです。 列車の座席にゆとりがあれば、車中で横になることもできますが、この静止は真の意味の静止ではありません。この寝台列車は走っているからです。 それでも皆さんは、静止しているという感情を抱くでしょう。 …同様に、頭部は、宇宙における四肢の運動を静止へともたらすのです。 胸部はこの中間にあります。 そして、宇宙における運動から頭部での静止への移行を仲介しています。

▲ダンスと音楽:宇宙の動きの模倣(16~17)


10-16
私たち人間とは、宇宙の運動を四肢で模倣しそれを受け入れるよう意図された存在だ、と考えてみてください。 私たちはその際に何をするでしょうか? 踊るのです。 皆さんは現実の中で踊っています。他の舞踊は、単なる断片的舞踊です。 あらゆる舞踊は、地球を含む惑星などの諸天体の運動を四肢で模倣することから始まっています。
10-17
では、人間が宇宙的運動を踊りつつ模倣するとき、頭部や胸部は何をしているのでしょうか? お分かりのように、頭部や胸部では、私たちが宇宙で行う運動が堰き止められています。 運動が胸部を経て頭部まで続くことはありません。頭部は肩の上に静止していて、運動を魂まで伝えることはないからです。 頭部は肩の上で静止していますので、魂は静止状態で運動に参加しているはずです。 それでは、魂は何をしているのでしょうか? 四肢の踊りを自分の方から反射し始めます。 四肢の運動が不規則ですと魂は文句を言い始め、法則的な運動ですと魂はつぶやき始め、宇宙的、調和的な運動ですと歌い始めるのです。 このように、外での舞踊的運動は、内での歌、あるいは音楽的なものに変容するのです。

■動きから静止へ、感覚知覚の根源と諸芸術の根源(18~19)

目次にもどる

▲感覚知覚と芸術の根源(18~19)


10-18
人間を宇宙的存在と捉えなければ、感覚生理学は人間の感受が何であるかを決して理解できないでしょう。 そして、「外界の空気の振動を音として内的に感受する」と言い続けるでしょう。 しかし、空気の振動と音の関係は決して分からないのです。 …これが生理学や心理学の現状で、生理学ではそれを最後に、心理学では冒頭に言っているだけの違いです。
10-19
この原因はどこにあるのでしょうか? 外界での運動が魂内で静止することで音へ移行し始める、という事実を心理学者や生理学者が知らないために、このようになるのです。 そしてこれは、他のあらゆる感覚的感受についても当てはまります。 頭部諸器官は外的な運動を行うことはなく、これらの運動を胸部へ照らし返し、それを音などの感覚的感受に転化するのです。 これが諸々の感受の起源です。 これはまた、諸々の芸術とも関係しています。 ミューズ的芸術、つまり音楽芸術は造形的建築的芸術から生じます。 造形的建築的芸術が外に向けて表現するものを内に向けることによって生じるのです。 内から外への宇宙の反射が音楽的芸術なのです。 …このように人間は、宇宙の真只中に居ます。 色彩を静止した運動と感じ取ってください。 列車内で横になっていると自分が静止していると錯覚するように、この運動も外的には感じ取られません。 皆さんは外側で列車を走り続けさせています。 皆さんはその外界の動きを、自覚できないくらいの繊細な四肢運動で一緒に行い、それによって色や音を知覚しているのです。 四肢器官から静止した頭部という形があることに、皆さんは助けられているのです。

■人間の霊的本性の喪失。《霊の否定》の結果としての自然科学的物質主義(20~22)

目次にもどる

▲時代の中でおろそかにされたこと(20)


10-20
この話はある難しさを伴うと申し上げました。 現代では、こうした事柄を理解する基盤が何もないので、特に難解なのです。 今日のあらゆる現代的教養は、私が今述べたような事柄について無知に留まるよう、準備されているのです。 今日の教養形成によって何が生じているのでしょうか? 靴下や手袋は実際に裏返してみなければ、皮膚に触れる部分はわかりませんから、その現実を知ることはありません。ただ、外側がわかるだけです。 それと同様に、今日の教養形成では外面しかわからないのです。 人間の半分の面しか理解していません。 四肢すらも理解し得ないのです。 なぜなら、これは霊性によって裏返されているからです。

▲《全体的》人間の喪失-宇宙とのつながりの喪失(21)


10-21
今日の内容を、次のように言い換えてみましょう。宇宙に立つ総体としての人間を四肢的人間として観るなら、そこには霊、魂、体があります。 それを胸部人間として観るなら、そこには魂、体があります。 大きな球(図)は霊、魂、体であり、やや小さい球は体と魂、最小の球は体だけです。 西暦869年のカトリック公教会議で、この大きな球についての智が人類に禁止されました。 そこで宣言されたカトリックの教義では、人間にはやや小さい球と最小の球しか存在せず、つまり人間には体と魂しかなく、霊はわずかに魂に含まれ、やや霊的な一面を示す、というのです。 869年以降、カトリックを起源とするヨーロッパ文化には霊は存在しなくなりました。 …ところが、霊とのこうした関係によって、人間と宇宙の関係も断ち切られたのです。 人間は、ますます自らのエゴ性の中に追い込まれました。 それゆえ宗教自体もますます利己的になってしまい、私たちが今生きる時代とは、こう申し上げたいのですが、霊を観察することで、人間と霊、つまり人間と宇宙との関係を再度学び取らなければならない時代なのです。

▲それぞれの身体系での発達の相違。物質主義的進化論(22)


10-22
私たちが自然科学的物質主義を持つに至った咎は誰にあるのでしょうか? 自然科学的物質主義を得たことの大本は主にカトリック教会です。 それは、869年にカトリック教会がコンスタンチノープル公教会議で霊性を否定したところから始まったのです。 そのとき、いったい何が起きたのでしょうか? 人間頭部を観察してみてください。 宇宙的出来事の事実として、頭部は人体で最も古い器官です。 頭部は高等動物、さらに辿れば下等動物で現れました。 頭部とは、動物界に由来します。 これは、頭部がより発達した動物にすぎないという意味ではありません。 頭部の予兆を探していくと下等動物界にまで遡行することになるのです。 胸部は後に頭部につけ加えられましたし、頭部ほど動物的ではありません。 胸部は、さらに時代を下ってから初めて手に入れたのです。 そして四肢は、私たち人間が最後に手に入れたものですし、それゆえ最も人間的な器官なのです。 四肢は動物器官の変形ではなく、後になって付け加えられたものです。 動物の四肢は宇宙から動物のために独自に作り出され、人間の四肢は後にそれとは別につくられ、胸部に付け加えられました。 ところが、カトリック教会が人間の意識から宇宙と人間との関係、つまり人間の四肢の本性を忘れさせてしまったために、それ以降、伝えられたのは主に頭部についてだけで、それに胸部についてのわずかな知見が付け加えられただけなのです。 そして後世の物質主義は、頭蓋は動物に由来する、という地点まで達しました。 そして、胸部や四肢は後に人間につけ加えられたものであるにもかかわらず、人間全体が動物から生じたと言うようにすらなったのです。 カトリック教会が人間四肢の本性、つまり四肢と宇宙との関係を隠してしまったがために、後になって物質主義が、本来は頭部にだけ有効な理念を人間全体に拡張してしまったのです。 実際、カトリック教会が進化論の分野における物質主義の生みの親なのです。 今日、中高生を教える教師にとっては、こうした事実を知っていることは特に大切です。 なぜなら教師は、世界で生起したことに関心を持つべきだからです。 教師は、世界で生じるさまざまな事柄を根底から知るべきです。

■授業の《神聖化》(23)

目次にもどる

▲授業の《神聖化》(23)


10-23
今日は、どのようにしてこの時代が物質主義的になったか、を明らかにしようとしました。そしてその出発点は、球形、月形、半径状の四肢というまったく別な観点でした。 つまり、文化史上の深刻なある大事実を明らかにするべく、見かけ上は正反対にある事柄から出発しました。 特に教師は文化的諸事実を根底から把握しようとする姿勢を絶対に持つ必要があります。教師がそうでなかったら、育ちゆく人間に何も為すことができません。 教師が、自分の内面の心底から、子どもとの無意識的な関係を介して正しく教育をしようとするなら、このとき教師はある不可欠なものを身につけるでしょう。 なぜならこのとき教師は、人間形姿に真の敬意を払うことになるからです。 人間形姿のあらゆるところに大宇宙との関連を見るでしょう。 単に人間の中により発達した家畜や動物を見るのとは違った風に、人間身体と向き合うでしょう。 今日教師は、上から目線の幻想に取り付かれ、ある明確な意識を持って他人に向かいます。つまり、成長途上の人間とは小さな家畜であり、この家畜を発達させなくてはいけない、…自然状態よりもいくらか先に発達させなくてはいけない、という意識を持っているのです。 しかし、こう考えたらまったく違った感情が湧いて来るでしょう。 「ここに一人の人間が居る。彼は全宇宙につながっている。そしてもし私が育ち行く子ども一人一人に働きかけるなら、私は全宇宙に対して意味あることを為している」、と。 私たちは教室に居ます。そして個々一人一人の子どもに宇宙の中心、マクロコスモスの中心があるのです。 教室とは大宇宙の中心、そう、多くの中心なのです。 …この意味を、生き生きと感じつつ考えてみてください! 宇宙の理念、宇宙と人間の関連という理念がある感情に変わって行く様子を考えてみてください。 そして、その感情が授業で行われる一つ一つを神聖化していくのです。 人間や宇宙に対するこのような感情がなくては、正しく真摯な授業はできません。 そして私たちがこうした感情を持った瞬間、これは地下のつながりを介して子どもに伝わります。 別な所でお話ししましたが、銅板でアースを取ると導線がなくともアース経由で電気が伝わる事実を知りますと、素晴らしい作用を受けるはずです。 皆さんが利己的な感情だけを持って学校に行きますと、生徒の理解を得るために、ありとあらゆる導線が…つまり言葉が…必要になります。 しかし、今ここでお話しした偉大な宇宙的感情を持つなら、地中の回路が子どもとの間に通じるのです。 すると皆さんは子どもと一体となります。 この根底には、生徒全員と皆さんの間に秘密に満ちた関係があるのです。 教育と呼ばれるものは、こうした感情から組み上げられなければなりません。 教育は単なる学問であってはならず、芸術でなければなりません。 感情内での絶えざる営み抜きに学びうる芸術など、どこにあるでしょうか? しかし、人が生き生きと持つべきこの感情、教育という偉大な命の芸術を実践するために持つべき感情、教育のために持たなければならない感情、これは大宇宙や、大宇宙と人間との関連を考察することによってのみ、初めて点火されるのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿