2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第09講、シュツットガルト、1919年8月30日


目次

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■よい教育のための条件:事実世界の認識(01-03)

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▲《教育的本能》(01)


09-01
未来に向かって成長する人間(der werdende Mensch)の本質について、皆さんご自身が、その意志と情感を浸しきるほどに深く理解しますと、必ず良い教育や授業ができます。 皆さんの内に目覚めるであろう教育的本能から、成長する子どもについて皆さんの意志に貫かれた智を、個々の分野でも適用するでしょう。 しかし、この智は真にリアルな智でなくてはなりません。つまり、具体的な事実世界の認識が基礎でなくてはならないのです。

▲話の進め方(02)


09-02
人間の真の智のために、まず魂、次に霊の観点から人間を観察してきました。 まず人間の霊的な様子は、意識状態の違いに反映されていました。 そして、霊的には私たちの営みが覚醒、夢想、熟睡にあること、つまりそれぞれの活動の特徴は、完全な覚醒、夢想、熟睡といったかたちで現れます。 ここで人間を全体として捉えるべく、霊、魂からさらに肉体へと降りて行き、最後には成長しつつある子どもの健康の問題の考察にまで広げていきます。

▲二十歳までの三層性(03)


09-03
ご承知のように、教育対象となるのは二十歳までです。 そして、この二十年間はさらに三期に分けられます。 交歯期までの子どもは「模倣(まね)したがる存在」です。周りで見るもの全てを、模倣(まね)しようとします。 七歳から性的成熟までの子どもは、知るべきこと、感じるべきこと、意志すべきことを権威から受け取りたがっています。そして、性的成熟を経て初めて人は、自分自身の判断で周囲の世界と繋がろうとする憧れを持ちます。 ですから小学生は、いわば最も深い本性から権威を求めていますし、それを片時も忘れてはなりません。 この年代の子どもたちには権威を保って接しなければ、良い教育はできません。

■認識的思考と論理(04~06)

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▲論理的思考の発達(04)


09-04
さて人間活動全体の特徴も、霊的に見通せなくてはなりません。 これまでもさまざまな観点から見てきました通り、人間活動全体では、認識的な思考作用と意志作用が対極をなし、その中間に感情作用があります。 地上に生まれた人間では、やがて認識的思考が現れますが、そこには論理が、さらには論理思考の糧となるあらゆるものが浸み込んでいきます。 教育者は、当然この論理が何であるかを知っていなくてはなりませんが、それは舞台裏に隠しておくべきものです。 なぜなら、論理とは学問的ですが、教師は自らの振る舞いにそれを滲み出させ、子どもに伝えるべきなのです。 ですから教師としては、論理のエッセンスを自分のものにしていなくてはなりません。

▲結論(結び)、判断、概念の三ステップ(05)


09-05
論理的な活動、つまり思考的認識的な活動は、常に三段階に分かれます。 思考的認識における第一段階はいわゆる《結論》です。 通常、思考は言語で表現されます。 話のつながりを概観しますと、会話では次々に《結論》が作られていることがおわかりでしょう。 《結論》の活動とは、人間の中で最も意識的です。 話に《結論》がなければ、話しても何も表現できないでしょうし、《結論》を理解しなければ、他人の話はまったく理解できません。 教科書的論理学では《結論》を分解してしまいました。それゆえ、日常的な意味においてすら、《結論》を誤って捉えています。 教科書的論理学では、個々の物を見たときにすでに《結論》が作り出されていることが分かっていません。 動物園に行って、ライオンを見たと思ってください。 ライオンを見て、皆さんは最初に何をしているでしょうか? ライオンにおいて見えることをまず意識に取り込みます。そしてこの《意識に取り込む》ことによって、ライオンの知覚を正しく位置付けられるのです。 皆さんは、動物園に来る以前に生活の中でライオンのような姿をしているものが《動物》であることを知っています。 これまでの生活で学んだことを動物園に持ち込んでいるのです。 そうしてライオンを見て、すでに知っている動物的なことを、このライオンもやっていることがわかります。 ライオンに見られることを、以前の生活での知識と結びつけ、「ライオンは動物だ」と判断します。 …この判断を下してはじめて、《ライオン》という個別概念を理解します。 第一に《結論》を行い、次に《判断》をし、通常は最後に《概念》に行き着きます。 私たちは常にこうした活動を行なっていますが、もちろんそれには気づきません。しかし、そうしていなかったら、言語を介した他者との相互理解、という意識的な営みは行えないはずです。 通常は、はじめに得られるのは概念である、と信じられています。 しかし、これは誤りです。 営みの第一番目は《結論》です。
(訳注…《結論》という語は通常の意味とは異なり、文脈から判断すると「事柄と結びつくこと」になります。)
次のように言えるでしょう。 動物園でのライオンの知覚を、他の人生経験から切離すのではなく、そこに位置付けるとき、動物園での最初の行為は《結論》の形成です。 …動物園でライオンを見るという行為は、全体生活に属するある一つの個別な行為である点を、はっきりとさせておかなくてはなりません。 動物園でライオンを見た瞬間に人生が始まったわけではありません。 その行為はそれ以前の営みと結びつき、それが行為に入り込み、動物園での体験も他の営みに組み込まれ、持ち帰られます。 …この成り行き全体を見渡しますと、ライオンはまず何でしょうか? これはまず《結論》です。 「ライオンはひとつの《結論》である」と言い切れるのです。 その少し後、ライオンは判断です。 そしてさらに少し後、ライオンは概念です。

▲《つまり、カーユスは死すべき存在である》(06)


09-06
論理学などの古い本では、論理の項に有名な「人間は皆、いずれ死ぬ、カーユスは人間だ、ゆえにカーユスは死ぬ」という論理が載っています。 …カーユス氏は論理学における一番の有名人です。 さてこの三分解、つまり「人間は皆、いずれ死ぬ」「カーユスは人間だ」「すなわちカーユスは死ぬ」は、論理学の授業だけでしか通用しません。 絶えず思考認識しつつ実生活は進みますから、これら三つの判断は相互に入り込み合い一つになっています。 一人の人間である《カーユス》を前にして、常にこの三つの判断が同時に行なわれます。 彼について考えるとき、そこにはすでにこの三つの判断が内在しているのです。 最初に《結論》があり、次にここでは結論(Conclusio)とされる「それゆえカーユスは死ぬ」という判断を下し、最後に「死すべきカーユス」という個別化された概念が得られます。

■人間の魂と霊における論理の段階(07~14)

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▲結論(結び)(07~09)


09-07
このように《結論》、《判断》、《概念》という三者が認識内、つまり人間の生きた霊性内に存在しているのです。 ではこの三者は、生きた霊性内でどのように振る舞うでしょうか?
09-08
《結論》が健全に活動できるのは人間の生きた霊性内だけです。つまり、《結論》が健全でありうるのは、それが完全に目覚めた営みの中で行われるときだけなのです。 これは極めて重要ですが、その点はまた後に見てみましょう。
09-09
それゆえ、もしできあがってしまった《結論》を覚え込ませようとしますと、子どもの魂を荒廃させてしまいます。 今、ここでの私の授業の話は、細部はまた取り上げるにしろ、根本的に非常に重要です。 ヴァルドルフ学校では、どの学年でも、それまでの授業成果を身につけた子どもたちを受け持つことになります。 子どもたちは、すでにさまざまな働きかけを受けているはずです。 …彼らの《結論》、《判断》、《概念》にその結果が現れているのに気づくでしょう。 一人一人の子どもに対し、一から始めるわけにはいきませんから、子どもの知識を引き出さなくてはならないでしょう。 私たちには特殊な事情があって、一年生から積み上げて学校にしていくことはできず、八学年を同時に始めなければなりません。 標本化されたような子どもの魂とも出会うでしょうし、最初期のしばらくの間は、できあがった《結論》を記憶から引き出すことを避け、子どもの魂をできるだけ苦しめない方法を採るように配慮する必要があります。 あまりに強くできあがった《結論》が魂に植えつけられているようでしたら、できればそこはいじらず、新たな《結論》を行う中で子どもの新しい営みが活気づくよう努めた方がよいでしょう。

▲判断(10~11)


09-10
当然ながら、判断も完全に目覚めた営みの中で作り上げられます。 しかし判断は、魂の深層、魂が夢見ている領域へ沈んで行くこともあり得ます。 《結論》は絶対に魂の夢想的なところへは沈み込まない方が望ましく、そこに入り込んでよいのは、判断だけです。 つまり、世界について判断を作り上げますと、そのすべてが夢想的魂に沈み込んでいくのです。
09-11
さて、この夢想的魂とは何でしょうか? これは、すでに学んだように感情にかかわるものです。 つまり、日常で判断を下し、その後にこの判断を下す行為は忘れ、さらに日常を続けているとき、私たちはこの判断を持ち続けながらあちこち行っていることになります。そしてそれを感情に持ち続けてあちこちに行っているのです。 つまり、「判断を下す行為は、一種の習慣として身につく」のです。 つまり、皆さんの判断の教え方が、子どもの魂的習慣を形成します。 このことはよく肝に銘じておかなくてはいけません。 日常では判断は文章のかたちで表現されますから、皆さんが語る一つ一つの文章が子どもの魂的習慣をつくる原子なのです。 ですから子どもにとっての権威である教師は、自分の語る言葉が子どもの魂的習慣に染みついていくことを常に意識していた方がよいでしょう。

▲概念の形成(12)


09-12
さて判断から次の概念になりますと、こう言わざるをえません。 つまり概念として形成されるものは人間存在の最も深い部分へ、霊的観点から言えば魂の熟睡状態へと降りていきます。 概念は魂の熟睡部分にまで降りていきますが、魂のこの部分は絶えず肉体に作用しています。 まず、魂の覚醒部分は肉体にまでは働きかけません。 魂の夢想的部分は肉体に少しだけ働きかけ、習慣的な仕草の基盤を作り出します。 しかし、魂の熟睡的部分は肉体的フォルムにまで作用します。 概念形成、つまり判断の成果が人間に定着する場合には熟睡的な魂まで、言い換えますと肉体にまで作用します。 人間の肉体は誕生時にすでにかなり原形ができあがっていて、そこへの魂の働きかけは、ほぼできあがった遺伝的な形を元に細部を形作るだけでしょう。 そして実際、魂は身体の細部を作り上げます。 街中に出て行って人々を見てみましょう。 人々にはそれぞれ特有の人相があります。 この人相には何が入り込んでいるのでしょうか? この人相に入り込んでいるものの一つは、子どもの頃に教師によって導入された諸概念です。 子どもの魂に注ぎ込まれた概念が、その大人の顔から放射されるのです。 なぜなら、熟睡状態の魂が人相を作り上げる際に、固定的概念もその一つの要因として働きかけるからです。 教育や授業が人間に対して大きな影響力を持つことがここにも現れています。 概念形成を介して、教育の影響は肉体にまで刻印されるのです。

▲時代現象としての画一性(13~14)


09-13
今日、巷でしばしば見かける現象ですが、しっかりとした人相を持たない人が多いのです。 ヘルマン・バールはかつてベルリンでの講演で、非常に意味深い彼の人生体験を語りました。 「ライン川沿岸、あるいはエッセン地方では、すでに1890年代からこんな現象が見られた。工場から出て来た人々に会うと、内心、こんな感情が湧くのだ。 焼き増しされた写真を見るようで、誰一人、他人と区別できない。実は、彼らは一人だけなのではないか。人間同士をまったく区別できない。」と。 …この観察は非常に重要です。 ヘルマン・バールはもう一つ重要な観察をつけ加えています。 「1890年代、ベルリンのどこかの晩餐会に招かれたときに、両側の席にいるご婦人方を区別できなかった。最低限の違いと言えば、一人が右側でもう一人が左側だった、という点だ。 また別の所に招かれると、今度は昨日会った婦人なのか一昨日会った婦人なのかわからない、ということも起こり得た」と。
09-14
簡単に言えば、人類において、ある意味で画一化が起きています。 これは、若い頃の教育が何にもなっていないことの証明です。 このような事実から、教育改革に何が必要かを学ばなければなりません。 なぜなら、教育は文化的営みに深く影響するからです。 人間が個別の事象と向き合っている場合は別ですが、普通に生活している場合には、無意識の中においてはその人が持つ諸概念が活動している、と言えます。

■生きた概念(15~19)

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▲生きた概念(15~19)


09-15
つまり、概念は無意識の中でも活動しえます。 それに対し、判断は判断習慣という形で半意識的、夢想的な中で活動できるだけで、結論(結び)は目覚めた完全な意識状態に置かれるべきなのです。 つまり、結論(結び)にかかわる事柄は、子どもたちと話し合い、できあがった結論(結び)を押しつけ、保持させるべきではありません。そうではなく、概念に向かって成熟して行くものだけを保持させるのです。 では、そのためには何が必要でしょうか?
09-16
皆さんが概念を形成し、その概念は死んでいる、とお考えください。 そして、この概念の死骸を人間に注入します。 人間に死んだ概念を注入すると、これは肉体にまで注入していることになります。 人間に組み入れる概念はどのようなものでなければならないでしょうか? 人間がその概念と共に生き続けうるためには、その概念は生きていなくてはなりません。 人間は生きなければなりませんから、当然、概念も共に生きていなければなりません。 九歳、十歳の子どもに三十歳、四十歳となってもそのままの形で残るような概念を注入しますと、概念の死骸を注入していることになります。なぜならそうした概念は、人間の成長に沿うことができないからです。 子どもの成長と共に変化しうる概念を与えなくてはいけないはずです。 受け取られたままの形で留まり続ける概念ではなく、それ自身が変容しうる概念を子どもに伝えるよう、教育者は注意を払わなくてはなりません。 そうしますと、子どもに生命ある概念を注入していることになります。 それでは、どんなときに死んだ概念を注入することになるのでしょうか? それは、子どもに定義ばかりを教え込むときです。皆さんの「ライオンとは……」などといった言葉を子どもに暗記させるなら、これは死んだ概念の注入です。 すると、子どもが三十歳になっても注入されたときとまったく同じ概念を保ち続ける、と考えられます。 定義付けばかりですと授業が死にます。 では、どうすればよいのでしょうか? 定義付けは避け、性格付けを行うのがよいのです。 物事をできるだけ多くの視点から見ることで性格付けを行います。 たとえば、子どもに動物を教えるにしても、安易に現在の自然史(理科)的やり方ですと、動物の定義付けだけになってしまいます。 授業のすべての局面で、たとえば、その動物と人がどんな風に仲良くなり、さらには家畜化するようになったのかなど、さまざまな角度から性格付けをしようとしなければなりません。 けれども、授業を合理的に準備すれば、その授業そのものが性格付け的になります。自然史でのやり方、…話題にした授業で出てきた順では…まずイカについて話し、次にネズミ、そして人間について話すというやり方ではなく、イカ、ネズミ、人間を並行して扱い、相互に関係付けるのです。 そうしますと、この相互関係は多層的で、そこからは定義ではなく、性格付けが生じてきます。 正しい授業は、最初から定義付けではなく性格付けを目指します。
09-17
成長しつつある人間の内にあるものを何一つ殺さないこと、生き生きと保ち、決して硬化乾燥に向かわせないように授業を行なうこと、これらを常に意識し続ける点が非常に重要です。 そのためには、次の二つの概念を注意深く区別する必要があります。一つは子どもに与えるべき動きのある概念で、もう一つは基本的に変化する必要がない概念です。 後者のような概念は、子どもの魂に骨格的なものを育てます。 ですから、生涯変化しないものも子どもに与えなければなりませんし、その点も配慮する必要があります。 …生きた生活にまつわる個々の事柄については、子どもに変化しない死んだ概念を与えてはいけません。 人生や世界の事柄についての概念は、子どもと共に生き、発展可能でなくてはならないのです。 そして、すべてを人間に関係付ける必要があります。 子どもが理解した事柄すべては、最終的には人間という理念に合流しなければなりません。 この人間という理念は残ってよいものです。 寓話を語り聞かせそれを人間の問題と関係付け、また自然史でイカやネズミを人間と関係付け、あるいはモールス通信において大地が電線の役割をなすことに驚くとき、世界に存するあらゆる個別な事柄がこのように人間につながります。 これは留まりうるものです。 しかし、人間という概念は徐々に形成されるもので、子どもに人間という概念をできあがったかたちで与えることはできません。 しかし、この概念を築き上げましたら、これは残ってよいのです。 それどころか、子どもが卒業後に持って出られるものの中で最も美しいものとは、可能な限り多面的で、可能な限り内容豊かな人間という概念なのです。
09-18
人間内で生きているものは、命の営みの中で実際に生きたものに変容する傾向があります。 子どもに畏敬、尊敬など広い意味で祈り的雰囲気という概念で呼べるものを渡しますと、そうした祈り的雰囲気に満たされた考えは生きていて、年月を経て人を祝福する能力へと変容していきます。そしてさらに、その祝福は別な人間を祈り的雰囲気に導くのです。 前に私は、子どもの頃に真に祈らなかった者は、老人になって他者に祝福を与えることはできない、という言い方をしました。 子どもの頃に真の祈りを行っていますと、歳を重ねてから真に祝福すること、つまり力強く祝福することができるのです。
09-19
人間に最も深くかかわる諸概念を植えられますと、人は生きた諸概念で満たされることになります。生きたものとはメタモルフォーゼし、人間の生涯に伴って変化していきます。

■誕生から成人までの三つの年代(20~24)

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09-20
ここでもう一度、少年期から青年期の成長三段階を別な角度から見てみようと思います。 交歯期までは模倣したがり、思春期までは権威の下に居たがり、その後は世界に対し自らの判断を下したがります。

▲第一七年期と父なる世界:世界は善きもの(21)


09-21
これを別な表現で言うこともできます。 霊的・魂的世界から出て肉体を身に付けるとき、人はいったい何を欲しているのでしょうか? 人間は、霊界で生き尽くしたその過去を、物質界で実現せんとしているのです。 交歯期以前の人間は、いわば過去の世界に身を置いています。 霊界で培ってきた世界への帰依の姿勢にまだ満たされています。 それゆえ、周囲の人間を模倣しつつ、周囲の世界に帰依するのです。 この時期の基本衝動、つまり交歯期までの子どもが持つ完全に無意識な基本的雰囲気とは何でしょうか? この基本的雰囲気とは、本来非常に美しく、守り育てるべきものです。 それは「すべての世界は善きものだ」という無意識の前提から発しています。 現代人の魂すべてがそうではありませんが、人が物質的存在となってこの世界に足を踏み入れる時には、「世界は善きものだ」という前提が組み込まれているのです。 それゆえ、交歯期までの子ども、さらにはそれを超えた子どもの教育においては、この「世界は善きものだ」という無意識の前提を念頭に置いておくのがよいのです。 ゼミナールの時間に私が二つの作品を朗読しましたが、その時には次のようなことに配慮いたしました。まずその準備をお見せし、その準備の前提に善きものと性格付けられるものが生きているようにしたのです。 羊飼いの犬と肉屋の犬と愛玩犬の話では、人間にとっての善きものをどのように動物世界に反映させうるか、を性格付けしようとしました。 またホフマン・フォン・ファラースレーベンのスミレに寄せる詩では、同じことを、どのように七歳以上の子どもの営みに説教臭くなく植えることができ、さらには「世界は善きものだ」という子どもの前提に応えられるかを示そうとしました。 子どもに高貴さと偉大さが現れているのは、子どもが世界のモラルを信じ、それゆえ世界は模倣に値する、と信じている人種だからなのです。 …このように子どもとは、過去に生きるものであり、物質界ではなく、霊的・魂的世界、つまり誕生前の過去が顕現した存在なのです。

▲第二七年期:世界は美しい(22)


09-22
交歯期から思春期までの子どもは、本来、現在に生き、現在の世界に興味を持ちます。 ですから小学生の授業や教育にあたっては、彼らが絶えず現在に生きようとしている、という点を考慮しなくてはなりません。 それでは、現在に生きるとはどういうことでしょうか? 動物的ではなく人間的な仕方で周囲の世界を楽しみ味わうとき、人は現在に生きているのです。 実際、小学生は授業中も世界を楽しみ味わおうとしています。 ですから、子どもに取って授業が、決して反感や嫌悪を催すものではなく、動物的ではなく人間的な意味での楽しみであるように配慮を怠ってはいけないのです。 この領域では、教育学はさまざまな優れた準備をしてくれました。 しかし、この領域にはある種の危険も存在します。 つまり、授業を喜びや楽しみの源となるようにというこの原則は、俗っぽくなりやすいのです。 それは避けなくてはなりません。 しかし、これを避けることができるのは、教師が自分自身で絶えず低俗なものや、教条主義から距離を置こうとするときだけなのです。 それを可能にする唯一の方法は、一瞬の怠りもなく、常に生き生きと芸術との関係を保つことです。 世界を…動物的にではなく…人間的に味わおうとする場合には、ある特定の前提、つまり、「世界は美しい」という前提が出発点になっています。 交歯期から思春期までの子どもでは、この無意識の前提から出発し、実際に美しいものとして世界と出会うことが許されます。 実物授業ではしばしば、役に立つ役に立たないという非常に月並みな観点だけが原則になっていますが、それでは「世界は美しい」さらには「授業も美しいはずだ」という子どものこの無意識の前提に応えることはできません。 そうではなく、教師自身が芸術的体験に身を浸し、この学年の教育を芸術化しきろうと試みるときにそれが可能なのです。 教育実践書を読み、その中に「授業を喜びの源泉に」といった表現を見出すにしても、教師の生徒への語りかけが美的でなく、素人仕事のような印象を与えてしまうがために、本来の意図が実現されない状況は本当に残念です。 今日では、ソクラテス法を用いた実物教育が好まれております。 しかし、その際に子どもに向けられる問いは有用性的性格が非常に強く、美が息づく性格は示していません。 これではどのような模範的実例も役に立ちません。 「実物授業での模範例を選ぶにあたって、何らかのやり方を遵守すべきだ」、といったことを教師に指示することが問題なのではなく、教師自身が芸術の中で生涯を通して、生徒に話しかける事柄が味わい深いものになるように心がけることが問題なのです。

▲第三七年期:世界は正しい(23)


09-23
交歯期までの第一期の子どもには、「世界は善きものだ」という無意識の前提があります。 交歯期から性的成熟の第二期の根底には、「世界は美しい」という無意識の前提があります。 そして性的成熟に伴って、世界の中で「世界は真実である」と実際に発見する素地が備わりはじめます。 この時初めて、授業は《学問的》性格を持ち始めうるのです。 性的成熟以前には、単なる体系的、あるいは学問的な授業はよくありません。 なぜなら、真実という概念が真に内側で意味を持ちうるのは性的成熟以降だからです。

▲時間的展望(24)


09-24
このようなやり方で次のような洞察が得られるでしょう。 高次の世界から物質界に降り成長しつつある子どもでは過去が息づいています。また、交歯後の小学生は現在を生き尽くします。そして人間は、未来への衝動が魂に宿る年齢に入って行くのです。 過去、現在、未来、そして命がそこにはあります。 それは、未来に向かって育ちゆく人間の中にも潜んでいるのです。
09-25
今日はここまでにし、考察は明後日に続けますが、そこではより一層、実際の授業と関連していきます。

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