2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第08講、シュツットガルト、1919年8月29日


目次

参考リンク

■忘却と想起(01~05)

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▲方法論的なコメント(01)


08-01
昨日の話で、記憶と想起をより観察しやすい事柄と関連づけると理解しやすくなることがわかりました。 つまり、記憶想起を睡眠覚醒と結びつけるのです。 これからもお分かりのように、霊的領域での理念形成でも未知なことを既知なことに結びつけますし、教育でもこの方向で努力をするのです。

▲不眠、自我意識、記憶(02)


08-02
そうは言っても、想起忘却よりも睡眠覚醒のほうが捉えにくいので、想起忘却を理解するために睡眠覚醒を持ち出しても役立たない、と言われるかもしれません。 それでも、睡眠不足によって何が妨げられるかを注意深く観察しますと、忘却と想起の不調な関係によって、魂の営みに生じる変調もわかってきます。 自我意識がどんどん弱まってしまわないためには、適度な睡眠が必要であることは日常の生活からもわかります。 睡眠が阻害されますと、外界から自我に向かって来るありとあらゆるものに、自我が振り回されてしまうのです。 睡眠がほんのちょっと妨げられただけで、これが正しいとわかるはずです。 一晩、よく眠れなかったと仮定しましょう。 夜中も働き、特に仕事がはかどったような場合は除外します。 このような場合には事情が違ってきます。 そうではなく、肉体的な違和感とか、蚊がうるさいとか、魂が外側から影響を受けて睡眠が妨げられたとするのです。 するともう翌日には、普段なら気にもならない外からの印象が不快に感じられることがわかるでしょう。 いわば、不眠によって自我が過敏になるのです。

▲一生《ぼんやり》を防ぐ。積極的魂形成による助け(03~04)


08-03
もし魂的営みの中で忘却と想起が異常になりますと、これと同じようなことが生じます。 それでは、こうなるのはどのような時でしょうか。 それは、忘却と想起を自分の意図でコントロールできない時です。 実際、-その素地は幼児期に現れますが-多くの人が生涯を夢うつつで過ごしています。 彼らは、外界からやって来た印象に没入するものの、その印象をきちんと辿ろうとはせず、単に表面的になぞるだけです。 いわば、自我を介して、自分自身が印象ときちんと結びついていないのです。 そして今度は、何となく湧き上がってくる表象の中でぼんやりし、外界の営みにはきちんと入っていきません。 何か物事を理解するに当たっては、表象という宝物庫から必要なものを意図的に引っ張り出してくる必要がありますが、彼らはそうせず、内から何となく湧き上がってくる表象に身を任せています。 すると、あれこれの表象が現れ、意図を持って何かに影響することはしません。 こうした魂の状態は随所で見られますし、特に子どもでは顕著です。
08-04
覚醒時の営みに睡眠と覚醒が影響することを知っていますと、想起と忘却を自分の思い通りにしてやることができ、成長を支えることができるでしょう。 それは、「想起はどこから来ているのか」と問えば理由がわかります。 …意志において私たちは眠っていますが、想起とは、その意志が意識下に沈む一つの表象を掴み取り、意識内に引き上げて来ることなのです。 眠っている間、自我とアストラル体は、肉体とエーテル体から離れ、肉体とエーテル体を再活性化するための力を霊界から集めて来ますが、まさにそれと同じように、想起過程で働いている力は、眠れる意志から来ています。 ところが、意志は眠っていますから、子どもに直接働きかけても、子どもの意志を発動させることはできません。 というのも、子どもの意志を発動させる働きかけなどは、眠った人間に、「素直でいなさい、そして目覚めても素直でいなさい」、と警告するようなものだからです。 記憶のコントロールにあたって、この眠った部分が、毎回、瞬時に目覚めることなど期待できません。 では、何ができるのでしょうか? 記憶のコントロールのために、そのたび毎に目覚めることは期待はできませんが、人間を全体として教育し、魂的、体的そして霊的な生活習慣を育て、個々の場合に、意志を目覚めさせることはできます。 このことをさらに具体的に見ていきましょう。

▲教育的な例:生き生きとした関心と記憶(05)


08-05
特別な手段を用いて、子どもに、たとえば動物の世界に活き活きとした興味を目覚めさせると仮定しましょう。 もちろん、動物界に対する興味を一日で作り出すことはできません。 授業全体をうまく構成し、動物界に対する興味が徐々に芽生え、目覚めていくようにすればよいのです。 こうした授業によって子どもの興味が活き活きと目覚めれば目覚めるほど、授業はより深く子どもの意志に働きかけます。 そうします、とこの意志の性質が変化し、必要なときに無意識下、つまり忘却の彼方からこうした表象を呼び出してくることができるようになるのです。 人間の習慣的な部分に働きかけることによってのみ、意志、そして記憶能力に秩序がもたらされます。 別な言い方をするなら、このように見ますと、子どもに強い興味を呼び起こすものすべてが、なぜ子どもの記憶力の育成に役立つのかが、見通せるはずです。 記憶力は感情や意志の側から強めなくてはならず、単なる知的な記憶訓練で強化しようとしてはいけないのです。

■方法論的考察…一体であるものの細分化(06~09)

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▲方法論的考察…一体であるものの細分化(06~09)


08-06
世界、特に人間の世界では、ある意味ですべての物が分離していますが、その分離したものが共同して作用していることが、これまでの話でおわかりでしょう。 人間の魂の働きを理解するためには、思考的認識、感情、意志と分けて整理しなくてはなりません。 しかし、思考的認識、感情、意志がそれだけで純粋に存在することはなく、どんな場合もこの三者は相互に入りこみ合い、織り合わされ一体として働きます。 これは肉体をも含めた人間の構成体全体についても言えることです。
08-07
前に、頭部の性質は人間身体全体に拡がっているが、それが最も典型的に現れているのが頭部である、というお話をしました。 同様に、胸部の性質も身体全体に拡がるが、それが最も典型的に現れているのが胸部である、とも言えます。 頭部にも四肢にも胸部的性格があるからです。 また、四肢的性格も、身体全体に拡がっていますが、それが最も顕著なのが四肢なのです。 しかし四肢にも、頭部的性格や胸部的性格があります。 その根拠としては、たとえば四肢でも皮膚呼吸している、などがあります。
08-08
現実、特に人間本性の現実に迫ろうとするなら、いろいろに分けて見たものを、今度はまとめていく必要があることを肝に銘じておかなくてはなりません。 ただし、抽象的な統一性に向かってしまいますと、何も明らかになりません。 分析をしなければ、すべてが闇夜のカラスで、世界はぼんやりとしたままです。 ですが、抽象的統一性を目指しても、闇夜に影が見えるだけです。 また、分析や分解ばかりでも、真の認識は得られません。バラバラなものを捉えるだけで、真の認識には達することはできないのです。
08-09
ですから、人間の内にあるものは、どれも認識的、感情的、意志的な性格を合わせ持っています。 主として認識的な部分にも、感情的、意志的な側面があります。 また、感情が主な部分でも、認識や意志が活動しています。 意志が主たる部分も同様です。 昨日「感覚領域」のお話をしましたが、これについても同様なことが言えます。 これからの話を理解するためには、教条的に分割することを一切止めなくてはなりません。 そうしませんと、昨日の話と大きな矛盾を感じるはずだからです。 しかし、現実とは諸々の矛盾から成ります。 矛盾を観ようとしませんと、世界の現実を把握することはできません。

■感覚存在としての人間(10~22)

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▲感覚生理学が抱える全般的な困難・展望(10)


08-10
人間には全部で十二の感覚があります。 通常の学問では、目立つ感覚だけを取り上げ、感覚は五ないし七つとしていますが、他にも目立たない感覚があり、それで十二になります。 人間の十二感覚については何度もお話ししましたが、ここでもう一度思い出してみましょう。 通常は、聴覚、熱感覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚が挙げられますが、熱感覚と触覚とが混同される場合もあります。 これは外見上区別が付けにくいために、塵と煙を混同してしまうのと同様です。 言うまでもなく、熱感覚と触覚では、周囲の世界との結びつき方が全く違います。 今日の心理学者が挙げている感覚は、この六つ、あるいはせいぜいもう一つ平衡感覚を加えた七つくらいです。 何人かはさらにもう一つの感覚をつけ加えますが、それでも完全な感覚生理学、感覚心理学には至りません。 なぜなら、外界と接して色彩を知覚するのとまったく同様に、他者と対する際に他者の自我を知覚している点は、誰も把握していないからです。

▲自我感覚(11~13)


08-11
実際、最近の人たちは何でもごちゃ混ぜにしてしまう傾向があります。 自我についてのイメージを作る場合、とりあえず自分自身の心というものを考え、通常はそれで満足します。 心理学者もほとんど同じことをしています。 自分自身における体験を総合し、その総和を《自我》とする場合と、他者を前にして、彼と私の間に関係が結ばれるそのあり方を通して、彼に《自我》を認める場合とがまったく違うことに考えが及びません。 これらは、全く異なる霊的・魂的活動なのです。 私の生きている活動すべてを統合して《自我》とする場合、私は純粋に自分の内にいます。 それに対し、他者と向かい合い、彼と結ぶ私の側の関係を「彼もまた私の自我と同様なのだ」、と表現する場合、それは私と彼との間を行き来する相互作用です。 それゆえ、「私の内側での私自身の自我知覚と、私が他者の自我を認識することは別である」と言えるはずです。 他者の自我を知覚するのは、色彩が視覚で、音が聴覚で知覚されるのと同じで、自我感覚によるのです。 見るための感覚器官はすぐにわかりますが、《自我る》(他者の自我を知覚する)ための感覚器官を、自然はそう簡単には見せてくれません。 しかし、色彩の知覚に対し《見る》と言うのと同じように、他者の自我知覚を《自我る》と言ってもよいのかもしれません。 色彩の知覚器官は人体表面にありますが、自我の知覚器官は身体全体に広がり、また非常に繊細な素材から成り立っていますので、自我知覚器官という言い方をしないのです。 この自我知覚器官とは、自分の自我を体験する際に働いているものとは別です。 それどころか、自身の自我体験と他者の自我知覚とはまったく違うものです。 と言いますのは、他者の自我知覚は本来一種の認識、あるいは認識類似作用ですが、自己の自我体験は、意志作用の一種なのです。
08-12
さてこの辺りで教条主義者がほくそ笑みそうです。 「君は昨日の講演で、感覚活動はすべて意志的活動だと言っている。 それが今度は、自我感覚などというものをでっち上げて、それは主として認識感覚だと言う」と言うかもしれません。 - 改訂版『自由の哲学』でも自我感覚の特徴を述べましたが、実際にその特徴を把握しようとしますと、これが非常に複雑であることがおわかりになると思います。 他者の自我知覚とは何を基盤にしているのでしょうか? 今日の何でも抽象的に考える人たちは全く変なことを言います。 他者の外的姿を見て、声を聞きます。 そして、自分もこの他者と同じ外見を持ち、その中に、考え、感じそして意志を持つ本性、つまり魂的・霊的な人間が存在することを知っています。 そして、「私自身は思考、感情、意志を持った存在であるのだから、この他者も同じである」と、類推的に結論するのです。 自分自身から他者へ類推を広げて結論を出しています。 まったく愚かな類推です。 人間と人間の間に結ばれる相互関係はこれとは全く違っています。 他者と向かいあいますと、次のようなことが起こります。 まず、短時間その人を知覚します。すると彼が皆さんに印象を刻みます。 この印象は皆さんの内で邪魔になります。本来自分と同じ存在である人間が皆さんの内に印象を、ちょうどある種の攻撃のように刻みます。 その帰結として、皆さんは内的に防禦し、この攻撃に対抗します。 つまり、今度は皆さんが相手に対して内的に攻撃的になります。 攻撃はしだいに弱まり、やがて止みます。すると今度はまた相手が皆さんに印象を刻んでくるのです。 すると再び皆さんの攻撃力が高まる時期になり、その攻撃をしかけます。 皆さんの攻撃は弱まり、相手の印象がまた皆さんに刻まれます。これが繰り返されます。 これが、人と人とが相手の自我を知覚しつつ向かい合うときの関係です。 相手を受けいれ、内的に反抗し、受けいれ、反抗し、……共感-反感、共感-反感です。 ここで言っているのは、感情的な営みではありません。 単に知覚しつつ向かい合う関係です。 このように魂は、共感-反感、共感-反感、共感-反感と振動します。 これについては『自由の哲学』新版で、お読みになれます。(原文P260)
08-13
しかし、また別のことも生じます。 共感が高まることで、皆さんは相手の中に眠り込みます。 そして、反感が高まると目覚め、これを繰り返します。 このように、他者と対しますと、非常に短い周期で覚醒と睡眠が交替し、振動します。 これを行えるのは、私たちが自我感覚器官を持っているからです。 この自我感覚器官は、覚醒ではなく睡眠状態にある意志作用の中で、他者の自我が伝達されるよう組織されています。 睡眠状態で伝わったものが、ただちに認識作用、つまり神経系へ受け渡されます。 事柄をきちんと観察しますと、他者の自我知覚におけるメインの働きは意志ですが、しかしこれが目覚めてはおらず、眠った状態で働いているのです。 つまり、他者の自我知覚の中に睡眠状態を絶えず無理矢理に入り込ませるのです。 そして、中間部分に認識作用があります。(「中間」第7講参照) 神経系が存在する領域に即座に引き込まれますので、他者の自我知覚は認識作用であると言えるのですが、この認識作用を眠った意志活動のメタモルフォーゼと見なす必要があります。 このように、自我感覚も一種の意志活動ですが、私たちにはそうは認識できません。 眠りの中で体験した認識のすべてを意識化することはできないのです。

▲思考感覚、言語感覚(14)


08-14
感覚は、これまで紹介したものや自我感覚以外にもあり、それを私は思考感覚と呼んでいます。 思考感覚とは、自分の思考内容を知覚するための感覚ではなく、他者の思考内容を知覚する感覚です。 これについても、心理学者はグロテスクな考え方をします。 彼らは、言語と思考を同類と考えてしまっていて、言語では必ず考えが伝わると信じていています。 これはありえません。 もちろん考えは音声言語を介して伝わりますが、空間的な身ぶりの中にも考えを知覚できるからです。 音声言語は、考えの仲介者にすぎません。 思考そのものの知覚には、特別な感覚が必要です。 ですから、あらゆる母音や子音をオイリュトミー的に示せるようになれば、音声言語を聞くことで思考内容を受けとるのと同じように、オイリュトミーを見れば思考内容を受けとることができるでしょう。 簡単に言ってしまえば、音声言語において活動している音声感覚と思考感覚は別なのです。 ― 後者は、本来、言語感覚です。

▲聴覚から生命感覚まで(15)


08-15
さらに、聴覚、熱感覚、視覚、味覚、嗅覚があります。 また、平衡感覚があります。 バランスが取れているかを意識するにあたって、その基礎には感覚があります。 私たちはそうした意識を持っています。 転ばぬよう、左右や前後に傾いていないか、バランスが取れているかを、私たちは何らかの内的感覚知覚で知ります。 この平衡感覚器官に障害が起きますと、バランスを取れなくなり、私たちは転んでしまいます。これは、目が壊れてしまうと色彩がわからなくなってしまうのと同じです。 このように平衡状態の知覚感覚があり、さらに静止しているか動いているか、筋肉を動かしているかを知る、つまり自分自身の動きを知覚する感覚も持っています。 つまり平衡感覚の他に運動感覚もあり、さらに身体の調整状態を知覚する生命感覚も持っています。 それどころか、多くの人がこの生命感覚に依存しています。 食べ過ぎたか足りないかを知覚し、あるいは自分が疲れているか否かを知覚し、それによって快や不快を感じます。 つまり自身の肉体的状態が知覚され、それが生命感覚に反映されます。

▲十二感覚の表(16)


08-16
これが十二感覚の一覧表です。 事実として、人間には十二の感覚があります。

▲意志感覚―感情感覚―認識感覚(17~22)


08-17
「感覚は意志的だとか認識的だとか、言っていることが混乱している」という教条主義的な反論がありえますが、これはすでに封じ込めてあります。そのために、認識的な感覚においても、その背後には目立たない形で意志が働いていることを見てまいりました。ですから、感覚をさらに分類しても問題はないでしょう。 まず触覚、生命感覚、運動感覚、平衡感覚の四つを見てみましょう。 この四つの中では、主として意志が活動しています。 これらの感覚による知覚においては、意志がその中に入って作用しています。 たとえば起立するという運動を行い、その動きを知覚する際にどのように意志が入りこんで作用しているかを感じ取ってください。 また、平衡感覚では動きではない意志が作用しています。 生命感覚では意志が非常に強く働きかけていますし、触覚の中にも意志が入り込んでいます。 つまり、触れるということは基本的に、意志における周囲の世界とのやり取りだからです。 つまり、平衡感覚、運動感覚、生命感覚、触覚は、狭義の意志感覚です。 触覚では、たとえば何かに触る手の動きを外側から見ることができます。 それゆえ、この感覚の存在は人間にとって明らかです。 生命感覚、運動感覚、平衡感覚の場合、その存在はそれほど明確ではありません。 これらは意志感覚中の意志感覚ですし、人間は意志の中では眠り込んでしまいますから、これらの感覚は眠りの中で見すごされてしまいます。 ほとんどの心理学がこれらの感覚を取り上げていませんが、それは学問のほとんどが人間と共に気持ちよく眠っているからです。
08-18
次に、主として感情的感覚といえる嗅覚、味覚、視覚、熱感覚を取り上げます。 嗅覚や味覚では、素朴に感情との類縁性を感じます。 視覚や熱感覚では事情が異なりますが、それにはそれなりの訳があります。 一般には、熱感覚は感情に近いと言うよりは、触覚と同一視されています。 これを混同するのは間違いですが、区別したとしても間違った区別ばかりです。 実のところ、触覚は意志的なものですが、熱感覚は感情的なものだからです。 視覚も感情的感覚ですが、ゲーテの色彩論に述べられている観察がなされないが故に、人々はそれに気づきません。 色彩論の中では、色彩と感情が結びついていること、さらには意志衝動にさえ繋がっていくことが述べられています。 それでは、視覚の主たる部分が感情的なものである点に、人々はなぜ気づかないのでしょうか?
08-19
私たちが物を見ますと、物には色がありますので、そこには境界も見えます。つまりラインやフォルムです。 しかし色彩とフォルムを同時に知覚するとき、それをどのように知覚しているかは通常気にしません。 人が円形の色彩板を見ますと、「色も見えるし、曲線の円形も見ている」と言います。 しかし、こう言ってしまいますと、二つの全く違う事柄が混同されています。 目だけによる活動で見えるのは、とりあえずは色彩だけです。 円のフォルムを見られるのは、無意識に運動感覚を働かせ、無意識にエーテル体とアストラル体の内部で円運動を行ない、これを認識にまで引き上げるからです。 そして、運動感覚を介して取り入れた円が認識にまで上りますと、この認識された円と知覚された色彩が結びつけられます。 つまり、身体の全体に広がった運動感覚を発動させつつ、身体全体からフォルムというものを引っ張り上げてくるのです。 私は前に「人間は本来、幾何学図形を宇宙で行い、これを認識にまで引き上げる」と申しあげましたが、それは今述べたことの下地になります。
08-20
今日の公式の学問では、色彩の知覚と運動感覚を助けとするフォルムの知覚を区別する繊細な観察の域には達しておらず、両者を一緒くたにしてしまっています。 そうした曖昧模糊とした状態では、これからの教育はできません。 見るという行為には運動感覚を介して人間の総体が入りこんでいる、という事実を知らないで、どうやって見ることを教えられるのでしょうか? さらに、ここで別の問題が見えてきます。 色つきのフォルムを知覚する際の見るという行為を観察してみてください。 この見る行為、つまり色つきフォルムの知覚とは複雑な行為です。 しかし、人間は一つの統一体ですから、目を介した知覚と、運動感覚を介した知覚を再統合することができます。 もしも赤色を知覚する経路と円を知覚する経路が別々だとしますと、皆さんは赤い円をただぼんやり見るだけでしょう。 しかし、皆さんはこれをぼんやり見たりはしません。 …目による色彩、運動感覚によるフォルム…という二つの側面から知覚し、生きている限りこの両者をつなげる内的な必要性に迫られるからです。 ここでは、判断を下しているのです。 こうして判断というものが、身体内での活き活きとした過程であることが分かります。 つまり人間は、諸感覚を通して世界を分析的に個別化して受け取り、それらを再びつなげ合わせるのです。 体験される世界とは、十二の異なる構成要素に分解されています。 そして、判断においてそれらを一つにまとめるのです。 なぜなら、個別なものは個別であり続けようとはしないからです。 運動感覚によって捉えられた円形は、単なる円形に落ち着きませんし、目が知覚した色彩も、単なる色彩に落ち着きません。 それらを結合するように、事柄が内側から皆さんに迫ってきますし、皆さんも自分の内に結合の準備があることをはっきり自覚します。 このように判断の機能とは、人間総体の現れなのです。
08-21
皆さんは、世界と私たちとの関係をより深い意味からお分かりになったわけです。 もし感覚を十二持っていなかったら、周囲の世界をぼんやりと眺めるだけで、判断というものを内的に体験できないはずです。 感覚が十二あるおかげで、分離されたものを統合するという意味で、かなりの数の可能性が与えられています。 自我感覚で体験するものを、他の十一の感覚と結びつけることができますし、他の感覚についても同じことが言えます。 このように、それぞれの感覚間の結びつきには非常に多くの組み合わせがあります。 また、たとえば自我感覚を思考感覚と言語感覚の二つと結びつけるなどしますと、こうした関係の可能性はさらに大きく広がります。 このように、人間と世界の結びつきがいかに秘密に満ちているかがわかるのです。 十二感覚は物をその構成要素に分解しますが、人間はこれらの構成要素を再び一つに統合することができるはずなのです。 これによって人間は、物の内的営みに関与するのです。 ある感覚を育てたら他の感覚も同様にバランスよく育て、さらには諸知覚や諸感覚の相互関係を意識的かつシステマティックに作り上げる、そのように人間を教育することが、どれほど重要であるかが、これでお分かりになると思います。
08-22
話をさらに進めましょう。 自我感覚、思考感覚、聴覚、言語感覚は認識的です。そこに働く意志は眠れる意志ですし、これは本当に眠っていて、その現れでは認識活動が共振しています。 このように自我領域に至るまで、意志、感情、認識の営みがあり、またそれらは、覚醒と睡眠を助けに活動しています。
(「 分析的悟性と統合的理性」についてのリンク)

■霊的視点、魂的視点のまとめ。身体の形態学に向けての展望(23)

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▲霊的視点、魂的視点のまとめ。身体の形態学に向けての展望(23)


08-23
霊性も考慮に入れるに当たって、人間は三つの視点から観察してはじめて認識できる点は、しっかり覚えていてください。 しかし、終始「霊性、霊性、霊性」とお題目を唱えても役に立ちません。 多くの人が霊性について語りますが、霊性が与えてくれるものをどう扱ってよいか知りません。 霊性を正当に見るには、種々の意識状態として扱うしかありません。 霊性とは、覚醒、熟睡、夢という三つの意識状態で捉える必要があります。 魂的なものは、共感と反感、つまり生命状態に掌握されています。しかも魂はそれを常に無意識において行っています。 魂とは本来アストラル体の中にあり、生命はエーテル体にあります。そして、この両者には絶えず内的な応答関係があり、魂的なものそのものがエーテル体の生命状態に入り込んでいきます。 そして肉体については、フォルム状態からわかります。 私は昨日、教育法の講演で、頭部には球形、胸部には三日月形、四肢には線を対応させましたが、人間身体の真の形態学についてはまた後ほどお話しいたします。 意識状態を問題にしませんと霊性を正しく扱えず、共感・反感の営みを捉えないと魂を正しく扱えず、その真のフォルムを捉えませんと、身体を正しく扱えないのです。 これらについては、明日、さらにお話しいたします。

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