2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第07講、シュツットガルト、1919年8月28日


目次

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■方法論的前置き:一つの事柄を他の事柄と関連付ける(01~03)

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▲方法論的前置き:一つの事柄を他の事柄と関連付ける(01~03)

07-01 ここでの問題は、人間本質が何であるかを見通すことです。 これまでの道筋では、教育学一般を介して、人間本質をまず魂の観点、続いて霊の観点から捉えようとしてきました。 今日も、この後者を深めていこうと思います。 私たちは当然ながら、世間一般で通用している教育学、心理学等々の諸概念とも常に関係を持っていきます。 皆さんはこれからも折に触れて、必要に応じ、教育学や心理学の文献と取り組まなくてはならないからです。 07-02 魂的観点からの人間観察の場合には、宇宙法則における反感・共感を見いだすことに、霊的観点からの観察の場合には、意識状態を見いだすことに主眼を置かなくてはなりません。 そこで昨日は、人間内で渦巻く三つの意識状態、つまり完全なる覚醒、夢想、熟睡を取り上げ、完全覚醒は思考的認識にだけあり、夢想は感情に、熟睡は意志にあることを示しました。 07-03 本来、理解とはすべて、他のものとの関連付けです。 あるものを他と関係付けること、それ以外の理解などこの世には存在しません。 この方法論的な注意事項をあらかじめ申し上げておきたいと思います。 認識的に自分自身と世界を関連付けつつ、まず私たちは観察をします。 観察では、通常の生活では感覚器官を用いますし、自分を高めたイマギナチオーン、インスピラチオーン、イントゥイチオーンでは魂や霊を用いています。 しかし霊的観察も観察であることには変わりありませんから、単に観察するだけでなく、それをきちんと把握する必要があります。 そして、把握のためには、個々の観察を、私たちにとっての環境である宇宙に存する他の事柄と関連付ける必要があります。 人間の体魂霊についても、人間の生涯全体を視野に入れると、よりよい概念を得られます。 ただ、ここで私が概略をお話しした関連付けとは、把握における最初の手がかりでしかありません。そのことはご承知おきください。 こうして得られた諸概念は、より完全なものに育てて行かなくてはなりません。

■生涯の中での体・魂・霊(04~09)

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▲身体的視点で見た場合の年齢(04~06)

07-04 新生児の身体フォルム、動き、生命の現れ、泣き声、喃語などを観察しますと、人間身体について、イメージが一つ増えます。 しかし、そうした人間身体のイメージは、壮年期や老年期の人間と関係付けたときに初めて、完全なものになります。 壮年期の人間はより魂的で、老年期では霊的です。 しかし、後者には反論が多いかもしれません。 当然ながら、「多くの老人では精神が呆ける」とよく言われます。 …「人間は老齢になると呆ける」というのは、魂・霊に対する物質主義からの特徴的な反論で、物質主義者はさらに執念深く、「偉大な精神を持ったカントですら、晩年には呆けたではないか」とたたみかけます。 物質主義者のこの反論も、この事実も正しいのです。 ただ、この事実は彼らが証明しようとしたことは証明していないのです。 カントも死の直前には、子どもの頃より賢くなっていました。ただ子どもの頃には、彼の叡智から来るものすべてを彼の肉体が受け入れられましたので、物質界での営みにおいてそれを意識化できました。 それに対し老年期には、霊性から彼が受け取ったものを身体が受け入れられなくなってしまいました。 身体が、もはや霊性のための適切な道具ではなくなったのです。 それゆえ地上界に居るカントは、彼の霊性に息づいているものをもはや意識化できなくなったのです。 今述べた反論が一見、当を得ているように見えるにしろ、歳を取ると人間は霊的に豊かになり、霊性に近づいている点ははっきりさせておかなくてはなりません。 高齢になっても自分の霊性に対する柔軟性と生命力を保ち続けている老人では、霊的なものの諸性質が現れ始めているのが認められるはずです。 実際、そうした可能性もあるのです。 07-05 かつてベルリンに二人の教授がいました。 一人はミシュレーというヘーゲル学者で、当時すでに九十歳を越えていました。 彼にはかなりの才能があり、名誉教授になりましたが、その高齢でなお講義を続けていました。 もう一人はツェラーというギリシャ哲学の歴史作家でした。 彼はまだ七十歳になったばかりで、ミシュレーに比べれば若者でした。 ところが、「もう歳で、講義を続けるのも難儀だし、せめて講義のコマ数を減らしてもらいたい」とこぼすのをあちこちで耳にしました。 これに対してミシュレーはいつも、「ツェラー君の言うことはわからん。私なら一日中講義できる。ツェラー君はまだ若いのに、年がら年中講義がしんどいと言っている」と言っていました。 07-06 ご覧の通り、ここでのわずかな物質的な例でも、高齢者の精神の根底にあるものがお分かりいただけると思います。 実際、このようなのです。

▲魂的観点からの年齢(07)

07-07 これに対し、人生中盤(壮年期)での生きる様子を観察しますと、魂を観察する上での基盤となるものが得られます。 それゆえ壮年期の人が、あえて申し上げますが、かえって魂的なものを否定しうるのです。 壮年期の人は、魂がないようにも、魂が豊かにも見えうるのです。 なぜなら、魂は人間の自由に委ねられていますし、また教育にも左右されるからです。 多くの壮年期の人間が非常に貧しい魂しか持たないにしても、壮年期に人が魂的であることの反証にはなっていません。 無意識に手足をばたつかせ続ける子どもの身体と、内省的で落ち着いた老人の身体を比較しますと、子どもではその身体性が強調されていますし、老人では身体性が後退し、いわば身体そのものとしては否定されているかのようです。

▲子ども期における感情の意味(08~09)

07-08 観察を魂的なものに一歩引き上げますと、人間には思考的認識、感情、意志がある、と言えるでしょう。 子どもを観ますと、子どもの魂では意志と感情が密接につながっていることがわかります。 子どもでは意志と感情が一体化している、とすら言えるでしょう。 子どもがあばれ、地団駄を踏むのは、その時の感情を表していますし、動きと感情を切り離すことができる状態ではありません。 07-09 老人では違っています。 老人ではまったく逆です。思考的認識と感情とが一体になっていて、意志はある程度独立しています。 人間の一生を見ますと、感情はまず意志と結びついていますが、年齢が進むにつれて次第に意志から解き放されます。 そしてこの、意志からの感情の解放、ということがまさに教育と深くかかわっているのです。 感情が意志から解き放たれますと、それは思考的認識に結びつきます。 これは、後半生での事柄です。 意志から感情がスムーズに解放されうるように子どもに働きかけますと、それが将来の営みに対する正しい準備になります。 つまり、成長した男女として開放された感情を思考的認識と結びつけることができ、人生の中で成長していくのです。 人生体験を語る老人の言葉に、耳を傾けたくなるのはなぜでしょうか? それは老人が人生を歩む中で、自分の個人的な感情を彼の持つ諸概念や諸理念と結びつけているからです。 老人が物語るのは理論ではなく、個人として感情に結びつけることができた諸理念や諸概念なのです。 自分の感情と思考的認識とを本当に結びつけることができた老人では、それゆえ、諸概念や諸理念が温かく響き、現実に満たされ、具体的で、その人の響きを持っています。 それに対し、壮年期の状態にとどまった人では、概念や理念が理論的抽象的で、学問的に聞こえます。 人間の魂的能力が通っていくその道筋も、確かに人生の一面なのです。 つまり、子どもでは感情的意志であったものから、老人での感情的思考に発展するのです。 人生はこの両極の間で展開しますから、これらを心理学的にしっかり捉えられれば、人生に対して正しい教育が行なえるのです。

■感受の本質(10~19)

目次にもどる07-10 さて、私たちが世界を観察するにあたって最初に現れ、またすべての心理学者も世界の観察において最初に来るもの、としている何かを取り上げなくてはなりません。 それは感受(Empfindung)です。 私たちの何らかの感覚が外界と関係するとき、そこで感受が起こります。 私たちは色を感受し、音や寒暖を感受します。 このように、私たちが周囲の世界と相互に交流すると感受が生じます。 07-11 普通一般の心理学もこの感受について述べていますが、それは正しくありません。 心理学者たちは感受についてこう言います。 「外界で、光エーテルや空気の振動といった何らかの物理的過程が起きていて、これが感覚器官に流れ込み、刺激する」と。 … 刺激という言葉は使いますが、作り上げた表現に飛躍してしまい、理解に向かおうとしないのです。 私たちの魂内では、感覚器官を介した刺激によって、完全に(物理的なものではない)質的な意味での感受が引き起こされますが、しかし同時に、それを引き起こすのは、たとえば聴覚では空気の振動といった物理的過程です。 しかし、これが実現される様子については、心理学も現在の他のいかなる学問も、一切、何も分かっていません。 これが一般的な心理学の現状です。 07-12 感受の本性そのものを洞察し、感受はどの魂的諸力と最も近い関係にあるか、という問いに答えられれば、こうした心理学的考察よりもこの問題を正しく理解できるようになります。 …心理学者たちは簡単に考え、感受から認識へは簡単に移行すると考え、「我々はまず感受し、次に知覚し、次に表象を作り、概念を形成する、等々」と言います。 …一見すると、成り行きは実際そう見えます。 ところが、本来の感受の本性がまったく考慮されていないのです。 07-13 十分に自己観察をして、感受をしっかり見極めますと、その本性が意志的であり、そこに若干の感情的ニュアンスが加わっていることが分かります。 感受の最初の段階では思考的認識とは無関係で、むしろ感情的意志、あるいは意志的感情と近い関係にあります。 感受が意志的感情あるいは感情的意志と類縁にあることをどれだけの心理学が洞察しているかを私は知りません。…そもそも、現在いくつの心理学があるかなど、見通せません。… 感受は意志的感情あるいは感情的意志と類縁なので、感受が意志と類縁であると言うだけでは完全に正確とは言えません。 感受が感情と類縁であることは、非常に優れた観察力を持つ少なくとも一人の心理学者が認識していました。ウィーンのモーリッツ・ベネディクトが心理学の持論でこれを展開しています。 07-14 彼の心理学に対する他の心理学者たちの評価は高くありません。 この心理学はいくらか風変わりでもあります。 第一にモーリッツ・ベネディクトの専門分野は犯罪心理学で、その彼が心理学書を書いているのです。 第二に彼は自然科学者であり、教育における文学作品の重要性を著わし、さらには、文学作品を教育の中でどのように使いうるかを示すべく、作品分析もやっています。 学者であろうとしながら、心理学者は詩人から何かを学び得る、と主張しているのですからひどい話です。 そして第三に、この男はユダヤ系の自然科学者で、自著の心理学書をカトリックの司祭にして当時ウィーン大学神学部のカトリック哲学者であったローレンツ・ミュルナーに捧げたのです。 このようにひどいことが三つも重なっていますから、専門の心理学者たちが彼をまっとうに評価するはずがありません。 しかし、彼の心理学を読みますと、その個別の点では現実に即した見解が見つかります。もちろん、まったく物質主義に染まりきったモーリッツ・ベネディクトの思考法は拒否しなくてはなりませんが。 本全体からは何も得ることはありませんが、個々の観察は非常に豊かな内容です。 世の中に良いものがあるなら、それがあるところで探さなくてはなりません。 もし誰かが個々の事柄についての優れた観察者であるなら、全体の傾向は嫌悪すべきものでも、モーリッツ・ベネディクトはこれに当たりますが、そうだからといって、個々の事柄についての優れた観察まで拒否する必要はないのです。

▲第二の規定:眠った夢、夢見る眠り(15~16)

07-15 つまり感受とは、人間に現れる様子から、意志的感情あるいは感情的意志なのです。 それゆえ、表面の感覚領域が広がる場所、…大雑把に言ってよければ、感覚は身体の外側部分にあると言えます…その場所に、人間における感情的意志あるいは意志的感情が何らかのかたちで存在している、と言えるはずです。 人間を図式的に描きますと、…これらはすべて模式図だと思ってください…外側表面に感覚領域があります(下図参照)。 この身体表面が感覚領域であり、この表面に意志的感情あるいは感情的意志があるとするなら、私たちはここで何をしているのでしょうか? ここでは眠りと夢が半々の活動を行っています。これは夢想的睡眠とも睡眠的夢想とも呼べます。 私たちが眠るのは夜間だけでなく、周辺部、身体表面でも絶えず眠っています。 そして、感受が存在する領域で絶えず眠りつつ夢見て、あるいは夢見つつ眠っているために、人間である私たちは、感受を完全に見通すことができないのです。 感受を捉えられない理由と、朝目覚めたときに夢をはっきりと意識化できない理由とが同じであることに、心理学者たちはまったく気づいていません。 お分かりのように、ここで言う眠りや夢という概念の持つ意味は、日常生活のそれとはまったく違っています。 日常生活での眠りとは、夜、ベッドに横たわった眠りです。 この眠りは、実際にはもっと広範に拡がっていて、身体表面では絶えず眠っていて、そこに夢が混ざり込んでいます。ただ私たちはそれにまったく気づきません。 感覚的感受はまさにこの《夢》状態にあり、その後で悟性や思考的認識に捉えられるのです。
07-16 皆さんは、子どもの意志・感情領域を諸感覚において探さなくてはなりません。 ですから私たちは、子どもを知的に教育する一方で、意志にも絶えず働きかける必要がある、と強調するのです。 つまり、子どもが見るべきもの、知覚すべきことすべてにおいて、子どもの意志と感情とを育てなければなりません。そうでないと子どもの感受のあり方にそぐわないのです。 晩年に達した人には、その感受がすでにメタモルフォーゼを遂げたことを理解し、こう話しかけることができます。(【訳注】ここでシュタイナーは話し方を変えたのかもしれない)。 老人では、感受も感情的意志から脱して、感情的思考あるいは思考的感情に移行しているのです。 老人では感受がいくらか別なものに変わっています。 感受に思考的性格が強くなり、騒がしい意志的性格がなくなり、落着きを増しています。 「概念や理念的性格のものに感受が近づいている」とは、老人に対して初めて言えるのです。

▲言葉の説明について(17~19)

07-17 通常の心理学者は、感受にこのような繊細な区別をつけません。 彼らにすれば、老人でも子どもでも何の区別もなく、同じ感受でしかないのです。 これは、カミソリを手にして、「カミソリはナイフだから、これで肉を切ろう。ナイフはナイフなのだから」と言うのと同じ論理です。 …この場合、概念を語句説明から導いています。 こうしたことは絶対に避けた方がよく、概念は事実から得るのが望ましいのです。 感受については次のようなことがわかるはずです。感受もまた生きていて、生涯の中で成長を遂げ、子どもの頃は意志的性格がより強く、老人では悟性的知的性格がより強い、と。 すべてを語句説明から引き出してしまう方が、人々にとってはもちろん容易ですし、それゆえたくさんの語句説明があり、ひどい害をもたらす可能性もあるのです。 07-18 かつて私は、しばらく会っていなかった同級生と再会し、彼のご高説を拝聴するはめに陥ったことがありました。 彼とは小学校の同級生で、私は実科高等学校に進み、彼はハンガリーの師範学校に入りましたが、それは1870年代にはかなり珍しいことでした。 こうして卒業後数年して私たちは再会し、ちょうど光について語り合いました。 私はすでに一般の物理学の内容は学んでいましたから、光がエーテルの振動と関係する、等々のことは知っていました。 これが光の少なくとも一つの原因でありうると考えられていました。 旧友はさらに加えて、「俺たちは光の何たるかも習った。つまり光こそ視覚の根源なのだ」と、言いました。 …何という言葉の戯れでしょう。 こうして、概念が単なる語句説明に堕ちていくのです。 この友人が後に教師になり、停年まで数多くの生徒に授業をしたことを思えば、そこで生徒に何が教えられたかは想像に難くありません。 …言葉から離れ、事物の霊性に近づかなくてはなりません。 何かを理解しようとするとき、いつでもすぐに言葉で考える必要はありません。そうではなく、事柄的関連を探さなくてはいけないのです。 《霊性(Geist)》という言葉の語源をフリッツ・マウトナーの言語史に探し、この《霊性》という語は最初にどのような形で現れたか、を調べますと、この言葉が泡(Gischt)ないしは気体(Gas)と関係していたことがわかります。 この関係は成り立ちますが、これを元にしてもたいしたものは生まれてきません。 残念なことに、聖書研究ではこの方法が、表には出ませんが全面的に用いられています。 それゆえ聖書とは、大多数が、特に現代神学者が、最もひどい理解をしている書物なのです。 07-19 ここで重要なのは、いかなる場合も事柄に沿って見ることです。つまり霊性についても、言語史から概念を求めようとするのではなく、子どもと老人とで身体の活動の仕方を比較することで概念を作るのです。 このように《事実を相互に関連させる》ことによって、私たちは真の概念を得ることができるのです。

■意識状態と身体部位におけるその状態-空間的関連(20~24)

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▲神経系と思考(20~22)

07-20 感受は子どもでは意志的感情あるいは感情的意志として身体周縁部分で生じるが、それが可能なのは、この身体周縁部が身体内部に対し夢見つつ眠っているからである、という事実を知っていなければ、感受についての現実的な概念は得られません。 さて、皆さんは思考的認識においては完全に覚醒していますが、完全に覚醒しているのは身体の内側においてだけです。 身体周縁部、つまり身体の表面においては絶えず眠っています。 さらにまた、身体表面で生じることは、似たような仕方で頭部でも生じていますし、それがさらに強く生じているのが、人間のより深い内部、つまり筋肉や血液の中です。 こうした深部でも人間は夢を伴って眠っています。 身体表面で人間は眠り夢見ており、また内部深くでも眠り夢見ています。 それゆえ人間内部には、意志的感情あるいは感情的意志のより魂的なもの、つまり願望の営みなども夢を伴った眠りの状態で存在しているのです。 それでは、私たちはどこで完全に目覚めているのでしょうか。 完全に目覚めているのは中間ゾーンです。 07-21 ご覧のように、霊性の観点から出発し、覚醒と睡眠という事実を空間的に人間形姿に関連させ、「霊性の観点から人間を見ると、身体表面と内部器官では眠っていて、誕生から死までの現在、真に目覚めうるのは中間ゾーンだけである」、と言えるでしょう。 この中間ゾーンで最も発達している器官は何でしょうか? それは、特に頭部で発達している、いわゆる神経系です。 神経系からは分枝が外側の身体表面や身体内部に送り込まれています。 神経はこのように隈無く行き渡り、その間に脳、脊髄、腹髄などの中間ゾーンがあります。 ここにおいて、真に目覚めるチャンスが与えられています。 神経が最もよく形成されている所で、私たちは最もよく目覚めています。 しかし神経系は霊性に対してある奇妙な関係にあります。 神経系とは、肉体機能を介して絶えず死滅し、鉱物化する傾向を持っています。 神経系をそれ以外の腺、筋肉、血液、骨格などから切り離すことができたら、…骨格組織はむしろ神経組織と一緒にしておく方がいいかもしれませんが…神経系は生きている人間内で絶えず死体になっていきます。 神経系内では絶えず死が進行しています。 神経系は、霊的・魂的なものとの直接の関係を持たない唯一の組織系なのです。 血液、筋肉などはどれも霊的・魂的なものと直接に関係していますが、神経系はこれらとは直接には関係していません。 神経系は絶えず死に絶えるものなので、絶えず人間生体から自分を切離し、そこに存在しない、というそのことによってのみ、霊的・魂的なものと関係しています。 肉体の他の部分は、生きているがゆえに霊的・魂的なものと直接の関係を作り出します。 しかし、神経系は絶えず死滅し続け、人間に向かってこう言い続けます。 「私は自分の営みをもって存在することは決してないので、お前にとっては何の邪魔にならず、それゆえお前は発展できる」と。 …これは特別なことです。 心理学や生理学の本には、「感受、思考、精神的・心理的なもの全般を伝達する器官が神経系である」と書かれています。 しかし、どのようにして神経系は伝達器官なのでしょうか? 神経系が、絶えず生命から身を離し、思考や感受に対し一切の妨害をせず、思考や感受といかなる関係も結ぼうともせず、それが存在する場所が霊や魂にとっての空であることによって、そうなっているのです。 霊・魂にとっては、神経の占める場所は虚空間なのです。 虚空間であるがゆえに、そこに霊・魂が入って行かれるのです。 神経は霊的・魂的なものに無関与であり、生理学者や心理学者が神経の性質であると言っているような働きを一切していませんから、その点を私たちは神経に感謝しなければなりません。 もし神経が生理学者や心理学者の学説通りの働きを五分間でも行なったら、その五分間、私たちは世界や自分自身について何も知ることができないでしょう。眠り込むのです。 その五分間には、眠りを仲介する、つまり感情的意志あるいは意志的感情を仲介する諸器官と同じことを、神経がすることになるからです。 07-22 これが現実ですが、生理学や心理学で真理とされることを取り上げるのは、今日では厳しい状況です。 お前の言うことは正反対だ、と言います。 …真実は単純で、世間の方が逆立ちしているので、霊学によって足で立たせてあげなくてはなりません。 生理学者は「思考の器官は神経であり、とりわけ脳である」と言います。 …しかし真実は、脳や神経系は絶えず自分を人間生体から切り離し、それによって思考的認識がそこで展開しうる場を与える、という意味において思考的認識と関係しているのです。

▲神経における人間精神と宇宙精神の出会い(23~24)

07-23 ここで非常に厳密に考察しますので、皆さんも理解力を集中してください。 感覚領域である人間の周辺部分ではリアルな過程が生じていて、それらは絶えず世界での出来事とつながっています。 たとえば、光が眼を介して人間に作用すると仮定しましょう。 眼の中、つまり感覚領域ではあるリアルな過程が、つまり物理・化学的過程が生じます。 これが体内に入り込み、さらに物理・化学的過程が生じる内部領域(図の斜線で暗くされた部分)に達します。 光の当った面と向かい合い、この照明された面から眼へと光線が入ってきます。 ここで物理・化学的過程が生じ、それは内部の筋肉・血液的なものに伝わります。 この中間に空虚なゾーンがあります。 この領域は、神経器官によって空虚な状態にされていて、この中では、眼や人間内部で生じる自律的な過程は生じず、外界に存在するもの、つまり光の性質、色彩そのものの性質などがそのまま入り込んできます。 感覚が存在する身体表面ではリアルな過程が生じていて、眼、耳、熱感覚器官などはその過程に左右されます。 それと似たリアルな過程は人間内部にもあります。 しかし神経が広がっている中間部分は違います。神経は空間を解放していて、そこで私たちは外界にあるものと共に生きることができます。 眼は皆さんに対し光や色を変化させます。 しかし神経が存在する場所、生命活動が空虚な部分では、光も色も変化せず、皆さんは光や色と共に生きるのです。 感覚領域が身体周辺にあるために、皆さんは外界から遮断されていますが、ちょうど殻の中に居るように、その内側で皆さんは外界の過程と共に生きているのです。 血液や筋肉とは異なり神経は何も妨げないので、ここでは皆さん自身が光となり、ここでは皆さん自身が音となり、ここで外界の諸過程が展開するのです。 07-24 身体の外側表面や内部では眠りつつ夢見、夢見つつ眠っていますが、体内には生命的に虚な空間が存在し、そこでは目覚めています。そして、これにどのような意味があるかがおぼろげながらでも掴めたのではないかと思います。 外と内の中間ゾーンでのみ、私たちは完全に目覚めているのです。 これが空間的な関連です。

■記憶と忘却(25~27)

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▲記憶と忘却(25~27)

07-25 しかし、人間を霊性の観点から見るとするなら、覚醒、熟睡、夢想を人間の時間的なものとも関連させなくてはなりません。 07-26 皆さんが何かを学びます。するとそれを完全な目覚めの中に取り入れ、自分のものにします。 何かの学び、それについて考えるのは、完全なる覚醒の中で行われます。 次に皆さんは別な営みに移ります。 別なものが皆さんの興味を引き、注意力はそこに向けられます。 その時、以前に取り組み、学んだ事柄はどうなるのでしょうか? これは眠り込み始め、再び想起されると、再度、目覚めるのです。 心理学の言う忘却と想起は言葉の戯れですから、これを排し、リアルな概念で置き換えてはじめて、忘却と想起を正しく把握できるのです。 想起とは何でしょうか? それはある表象複合体の目覚めです。 忘却とは何でしょうか? それは表象複合体の入眠です。 こうしてリアルなものを、リアルな体験と比べることができ、単なる語句説明から脱却するのです。 目覚めと眠りについての自省、自分の入眠体験、あるいは他人の入眠の観察、という場合、そこではリアルな過程が問題になります。 忘却、つまり内面の魂的活動を…何らかの言葉にではなく…このリアルな過程と関連させ、両者を比較しますと、「忘却とは別な領域での入眠であり、想起とは別な領域での目覚めである」と言えるでしょう。 07-27 リアルなものとリアルなものの比較、これによってのみ、霊的な意味で世界を捉えることができます。 体と霊を真に関連付けるためには、少なくともその初歩的な手がかりを得るためだけであっても、少年期と老年期を比較しなければなりませんでしたが、それと同様に、忘却と想起も入眠と目覚めというリアルなものと関連付け、比較する必要があるのです。

■結語:社会三層構造についてのコメント(28~30)

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▲結語:社会三層構造についてのコメント(28~30)

07-28 人間がリアルなもの、現実であるものの中へ、当たり前のように入り込んで行くことこそ、人類の将来にとって絶対不可欠なのです。 今日、人はほとんど言葉だけで考え、事実で考えません。 想起と目覚めを対比させて語ることで私たちはリアルなものを手にしますが、それをしない現代人はどうやってリアルなものに達するのでしょうか。 現代人の想起の定義は、言葉で溢れかえり、ありとあらゆるものに満ちています。しかし、現実から、そして事柄からその定義を見つけようなどとは思いもよりません。 07-29 ですから、抽象的概念からでなく完全に事実から引き出された何か、たとえば三層構造といったものを人々に示しても、彼らは事柄を現実から引き出してくることにまったく不慣れなので、とりあえずこれを理解不能と感じることも、不思議ではないでしょう。 彼らは、事柄を現実から引き出してくることなど思いもよらないのです。 事柄を現実から引き出すということで言えば最低レベルの人たちが、たとえば理論ばかりを振りかざす社会主義の指導者たちです。彼らはもう終わりまで来ていて、退廃現象の末期としての言語説明ばかりが現れます。 この種の人たちは、現実の何たるかを最もよく理解していると信じてはいますが、ひとたび語り始めますと、最も空疎な言葉の籾殻ばかりを吐きます。 07-30 これは、今日の時流にまつわる余談に過ぎません。 しかし教師は、この時代から教育を委ねられた子どもたちを理解しなくてはなりませんので、今自分が居る時代も捉えている必要があるでしょう。

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