2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第06講 、シュツットガルト、1919年8月27日


目次

参考リンク

■前置きと進め方(01~02)

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▲前置きと進め方(01~02)


06-01
これまで、子どもの教育に際してどうしても理解する必要があることを、魂の視点から把握しようと試みて来ました。 …霊、魂、体の…三つの視点を区別しなければなりませんし、完全な人間学を手にするために、これらの視点から人間を考察しています。 そして、通常の生活では魂が最も身近なので、まず魂的観点から観察を始めました。 人間を把握するべく魂に迫るわけですが、そこでは反感と共感がメインの概念になることも感じとられたと思います。 しかし、ここで魂的視点からいきなり体的視点に移るのは適切ではありません。なぜなら、霊学的観察の見地から言えば、体とは霊的・魂的なものの開示として捉えるべきであることが分かっているからです。 これまでは、魂を一般的に大雑把に考察して来たので、ここに霊的観点からの人間観察を加え、その後で一般に人間学と呼ばれる、外的物質界に現われた人間存在を観察しようと思います。
06-02
視点はどうであれ、人間を適切に観察しようとするなら、常に思考、感情、意志という魂的活動の三区分に立ち返らなくてはなりません。 これまで私たちは思考、感情、意志を共感・反感という作用圏で見てきました。 ここでは意志、感情、認識を霊性の観点から捉えようと思います。

■3つの意識状態:意識的要素と無意識的要素(03~06)

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▲思考的認識 - これを霊的に考察すると(03)


06-03
霊的観点からも、意志、感情、思考的認識の違いが見つかります。 次のことを観察するだけです。 思考的認識を行なっているときには、…まずイメージで表現させていただきますが、イメージ的なものは理解に役立ちます…いわば光の中に生きていると感じるはずです。 認識をしているとき、皆さんは自我と共にこの認識という活動に、完全に入り込んでいるのを感じます。 いうなれば、認識と呼ばれる活動のどの部分をとっても、自我による行為の射程内にありますし、また逆に、皆さんの自我の行為は、認識活動の範囲内にあります。 皆さんは完全に明るさの中に居て、概念的に表現して差し支えなければ、完全に意識化された行為の中で活動しているのです。 もし認識が、完全なる意識下で行われるのでないなら、それは望ましくありません。 自分が判断を下す際に、無意識のどこかで何かが生じ、その帰結として判断が生じている、という感情を自我が抱かざるをえない、と考えてみてください。 「この人は善い人だ」、という判断を下すと仮定してみてください。 判断を下すに当たって、まず何が必要かを明確にしておく必要があります。…主語は「この人は」で、述語は「善い人だ」ですが…この二つの部分を含む過程に、皆さんは完全に主体的にかかわり、意識の光を当て切らなくてはなりません。 皆さんが判断を下す際に、何らかの魔物か自然界のメカニズムが、《この人は》と《善い人間だ》を結びつけるのを受け入れなければならない、と仮定しますと、この認識的思考行為の中で、意識は完全に目覚めておらず、判断に常に意識されない何かが入り込むことになります。 これが思考的認識の本質部分ですし、人間はそこでの活動すべてに、完全に目覚めた意識をもって入り込んでいるのです。

▲意志 - 霊的に考察すると(04~05)


06-04
意志では事情が違います。 ご承知のように、最も単純な意志は歩行ですが、これを行うときに完全に意識されるのは、歩行の表象的な面だけです。 脚を前方に交互に動かす際に、筋肉内で行われていることや、身体内での機械的・生物的な出来事については何も知ることはありません。 もし歩行という意志を遂行するに当たって必要な一切の活動を、すべて意識的に行わなければならないとしたら、世界からいかに多くの事を学んでいなければならないかを想像してみてください。 歩こうと思ったとき、そこにどれだけの活動が必要か、さらにはその活動に際し脚、その他の筋肉にどのくらいの栄養分が必要か、などを正確に知っていなくてはならないはずです。 皆さんは、供給された栄養のどれだけが消費されるかなど、計算したことはありません。 こうしたことは、ご承知の通り、すべて身体内で完全に無意識に行なわれています。 意志の活動では、そこに常に無意識の深みからのものが混ざり込むのです。 ここではまず生体内での意志の本質を観察して、そこに無意識なものが混ざり込むことを見ましたが、それは生体内だけのことに限りません。 意志を外界に延長し、私たちが外界に対して行ったことを見ても、それは決して意識の光で完全に照らし出され把握されることはありません。


06-05
二本の柱状の棒があると仮定します。 その上へもう一本の棒を水平に乗せようとします。 認識では、皆さんはその中に完全に入り込み、完全に意識化された認識的活動を行い、たとえば「あの人が善い」と判断を下す際には完全に意識化された活動を行っていました。その意識的行為に息づくものと、ここでの柱に梁を乗せる行為に息づくものとを厳密に区別してください。 その際に認識的行為として活動している何かと、「この二本の柱は、どうして何らかの力で梁を支えられるのか」という、皆さんの意志と密接に関係しているにもかかわらずまったく気づくことができない何かとを、きちんと区別してみてください。 この現象に対し物理学は、今日に至るまで仮説に止まっています。 どうして二本の柱が梁を支えるか、を理解しているなどと思うのは、単なる思い込みです。 凝集力、粘着力、引力、反発力等々の概念などは、結局のところすべて外的学問における仮説にすぎません。 何かを取り扱うときにはこの外的仮説を用いて計算します。梁を支えるべき二本の柱が特定の太さであれば折れないことを、この仮説を用いて計算します。 しかし私たちは、これに関連する過程全体を見通すことはできません。それは、前進における脚の運動を見通すことができないのと同じです。 このように、ここでも、意志の中には意識には上り得ない要素が混ざり込んでいます。 意志には、非常に広い範囲で無意識的なものが含まれているのです。

▲感情 - 霊的に考察すると(06)


06-06
感情は、意志と思考的認識との中間に位置しています。 感情では、一部には意識的、一部には無意識的なものが入り込んでいます。 このように感情には、認識的思考の性質と、感情的意志、あるいは感じ取られた意志という性質があります。 では霊性の観点から見ると、ここには何があるでしょうか。
(「さまざまな仲介をする《形象意識》」についての説明リンク)

■三つの意識状態:目覚め、眠り、夢(07~09)

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▲認識(07) - 意志(08) - 感情(09)


06-07
ここまでいくつかの事実を性格づけしましたが、これらの霊的観点からの正しい捉え方は次のようになります。 私たちは日常的に、目覚めているとか、目覚めた意識状態という言い方をします。 しかし、この目覚めた意識状態とは、認識的思考の場合だけに当てはまります。 人間の目覚めについて正確に言うと次のようになります。 「人間の真の目覚めとは、何かを思考的に認識しているとき、またその状態にあるときだけである」と。
06-08
それでは意志はどうでしょうか。 皆さんご存じの通り、熟睡の意識状態です。…これは無意識状態とも呼べます…。 ご存じのように、睡眠中、つまり就眠から目覚めの間は、体験が意識に上りません。 無意識的である意志の底流にあるものすべても、まったく同じです。 意志する存在である限りにおいて、私たちは覚醒中も眠っています。 私たちの内には常に、眠れる人間、つまり意志する人間が居て、そこに目覚めた人間、つまり思考的認識的人間が付き添っています。 意志存在である限りにおいて、私たちは目覚めから就眠までも眠っているのです。 私たちの内では絶えず何かが、つまり、意志の内的本性が眠っています。 私たちは睡眠中の自分の身に起きていることは意識しませんが、この意志の本性も同様に意識しません。 意志としての人間では覚醒中にも熟睡が入り込んでいますし、それを知らなければ、人間を完全に認識することはできません。
06-09
さて、中間にある感情ではどのような意識なのか、を問うてみましょう。 …これも覚醒と熟睡の中間にあります。 魂内で活動する諸感情が夢と同じようであることを皆さんはご存じでしょう。 ただ、夢は覚えるものであるのに対し、感情は直接に体験されます。 しかし感情と夢では、そこにおける内的な魂の状態、魂の雰囲気は同じです。 覚醒時の人間を見ても、思考的な認識では覚醒し、意志では眠り、感情では夢見ています。 つまり、覚醒中にも、現実に三つの意識状態が入り込んでいます。 思考的認識における本来の覚醒、感情における夢視、意志における熟睡です。 霊的観点から見ますと、通常の意味での夢のない睡眠(熟睡)は、日中の意志、つまり魂全体をそこに没入させている状態と、何ら変わりはありません。 ただ、熟睡中には魂的本性全体が眠っているのに対し、覚醒時には意志においてのみ眠っている、という点だけが違っています。 普通に夢と言われるものでは、人間全体が夢の魂的状態に没入していますが、覚醒時には、感情活動だけがその夢想的魂的状態に入り込んでいます。

■教育的課題(10~11)

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▲教育的課題(10~11)


06-10
このような観方をしますと、子どもの意識の覚醒状態が千差万別であっても、教育的には何の不思議もないはずです。 感情的営みが優位な素質を持った子どもは夢想的で、特に思考がまだ十分に目覚めていない子ども時代では、すぐに夢想に入り込んでいくのが分かります。 これがわかりますと、そうした子どもには、教師が強い感情を介して働きかければよいと分かります。 この強い感情が、子どもの内に明るい認識を目覚めさせうる、と望めるのです。 なぜなら、生命リズムの中では、どんな眠りもやがては目覚めるからです。 感情の営みの中で夢想的に微睡んでいる子どもに、教師が強い感情をもって接しますと、この強い感情が子どもに取り込まれ、しばらく後には自然に思考へと目覚めていきます。
06-11
さらに深く微睡んでいる子ども、それどころか感情の営みに対してもぼんやりしている子どもは、意志の素質が特に強いことが分かるでしょう。 これまでのことを考えれば、子どもの営みに見られる多くの謎に対しても、認識から対処できることがお分かりになるでしょう。 真性の知的障害のように見える子どもが学校に入ってきたと仮定しましょう。 ここで直ちに、「この子は精神的発育遅滞児だ、知的障害児だ」と判断しても、…さらには実験心理学的診断、すばらしい記憶力テスト、現行の教育心理学研究所で行われているさまざまなテストを行い、「この子は素質的に障害児であり、知的障害児施設、あるいは最近好まれる表現で言う才能未発達学校がふさわしい」と判断しても、子どもの本質にはまったく迫っていません。 ひょっとしたらこの子は、特に優れた意志的素質を持っていて、成長してからその胆汁質的性格が強い行動力に変わっていく子どもかもしれません。 しかし、当面意志は眠っています。 もしこうした子どもで、思考的認識が後になって現れてくると判断された場合、後に強い行動力を発揮しうるよう、それにふさわしく適切に対処する必要があります。 初め、この子は真性の知的障害児に見えるかもしれませんが、もしかしたらまったく違うかもしれません。 このような場合、意志の目覚めを目指さなくてはなりません。 つまり、覚醒時における睡眠状態に働きかけなくてはならず、意志として眠っているもの、おそらくは非常に強い意志、ただ今は眠っている意志、眠った存在が優勢であるような意志を後の人生で目覚めるよう、少しずつ導いてやらなくてはなりません。…なぜなら、どのような眠りも目覚めようとする傾向があるからです…。 この種の子どもに対しては、認識能力や把握能力を育てようとする働きかけは極力避け、たとえば、話すのと同時に歩かせるなど、非常に強く意志に働きかける事柄を叩き込むのです。 こうした子どもは多くないはずですが、その子を教室から連れ出し、…他の子どもにとっては活気を与えるでしょうし、その子にとっては建設的です…文章を語りながら身体を動かさせます。 つまり、「みんな(一歩)善い(一歩)人たち(一歩)だ(一歩)」というようにするのです。 このようにして、意志要素の中で、人間全体と認識的で単に知的なものとを結びつけていきます。こうして少しずつ、子どもを意志から思考へと目覚めさせていかれます。 覚醒時の人間においても…覚醒、夢想、熟睡…三つの意識状態が存在している、という洞察があって初めて、真の認識が得られ、成長過程の人間に向かい合う私たちの課題を果すことができるのです。

■意識状態ならびに身体との自我の関係(12~19)

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▲基本諸力(12~14)


06-12
しかしこう問えるかもしれません。 「真の意味で人間の中心である自我は、この三つの意識状態にどう関係しているだろうか」、と。 「世界とか宇宙とか呼ばれるものは、諸活動の総和である」というのは紛れもない事実ですが、これを前提にすれば、この問題も簡単に理解できるでしょう。 こうした活動は、基本諸元素の営みの領域として、私たちの前に現れます。 これらの基本諸元素の営みの中で諸力が作用しています。 たとえば私たちの周りでは生命力が力を振るっています。 そして、元素的諸力と生命力との間には、たとえば熱や火における作用も含まれます。 私たちがどのような環境に居るかを考えてみてください。 そこでは、火を介して非常に多くの作用があります。
06-13
地球上のある地方で、たとえば南イタリアなどでは、丸めた紙に火をつけるだけで、すぐにも大地から煙がもうもうと立ちあがります。 なぜこんなことが起きるのでしょうか? 丸めた紙の火で熱が生じ、その付近の空気が希薄になり、通常なら地表下で活動している諸力が上昇する煙によって地面の上まで引き上げられます。そうして、火の付いた紙が地面に投げられますと、その瞬間に皆さんは煙に包まれるのです。 これはナポリ地方に旅行すれば、誰でもできる実験です。 これは、表面的観察に留まらなければ、周囲の至る所に諸力が充満していることを示す例です。
06-14
さて、熱よりも高次な諸力もあります。 そうした諸力も周囲にあります。 物質的・肉体的人間として世界を歩むとき、私たちは常にそうした諸力を縫って進んでいます。 通常はそれを認識することはありませんが、私たちの肉体はそうした諸力に耐えられるように作られています。 そうした肉体があるおかげで、私たちは諸力に充ちた世界を歩めるのです。

▲思考的認識における自我と肉体の関係:世界を像に変える(15~17)


06-15
人間の自我は進化の中で最も新しく生まれたものなので、この自我が直接こうした諸力にさらされるとしたら、私たちは世界の諸力の中に分け入ることはできません。 この自我は、周囲の世界に取り巻かれ、その中に居ますが、周囲に完全に身を任せることはできないのです。 世界の諸力の中に流れ出なくて済むように、この自我は今のところは守られていなくてはなりません。 いずれは、この自我も諸力の中に入って行かれるまでに育ちます。 しかし、現状ではまだそれはできません。 ですから、完全に目覚めた自我が、私たちにとっての環境である現実世界に入り込むのではなく、単に世界の像に入るだけに止まる必要があるのです。 それゆえに、思考的認識では世界を映した像しかありません。この点は、魂の観点で詳しく述べました。
06-16
今度はこれを霊的観点から観察しましょう。 思考的認識において、私たちは像の中に生きています。 そして現在の人間進化段階では、この誕生から死までの期間、私たちが完全に目覚めた自我と共に生きるのは、コスモスの像の中であり、コスモスの現実そのものの中ではありません。 それゆえ、目覚めている時には、肉体がまずコスモスの像を作り出さなくてはなりません。 そして私たちの自我は、その像の中で活動するのです。
06-17
心理学者たちは、肉体と魂を関係づけようと非常に苦労しています。 彼らは肉体と魂の相互作用とか、心理・身体並行論などをいまだに云々しています。 これらすべては、結局のところ子どもじみた概念にすぎません。 なぜなら、ここでの真の成り行きは次のようだからです。つまり、朝、自我が覚醒して肉体に入りますが、身体の物質的営みには入らず、像の世界に入ります。そしてこの像の世界は、その最も深い部分に至るまで、外界の諸過程を元に、身体が作り出しているのです。 こうして思考的認識が自我に伝えられるのです。

▲感情における自我と肉体の関係:魂的に火傷をする―意識が夢段階に弱められる(18)


06-18
感情では事情が違います。 感情において自我は、単なる像の世界ではなく、実際の肉体の中にまで入ります。 もし自我が目覚めた意識をもって肉体に入るとしたら、…これを魂的な意味で受け取ってください…文字通り、魂的に火傷をするでしょう。 思考においては、肉体が作り出した像の中へ、自我そのものが入って行きますが、感情においては、そこに目覚めた自我そのものが入ったとしますと、自我は魂的に火傷を負うはずです。 皆さんは耐えられないはずです。 自我が入り込んで行くことは感情にとって重要なのですが、入り込んでいることを皆さんは夢想的な状態、つまり朦朧とした意識状態でしか体験できません。 肉体で生起する感情的なものに、自我は夢状態でしか耐えられないのです。

▲意志における自我と肉体の関係:耐え難い痛み ― 意識が睡眠段階まで麻痺させられる(19)


06-19
そして、意志において生じることは、睡眠状態でしか体験できません。 日常の中で意志において生じることをすべて共体験しなければならないとしたら、それこそ恐ろしい体験になります。 前にも述べましたが、たとえば食物からの諸力を生体が受け取り、歩行の際にそれを脚で消費する成り行きを実際に体験しなければならないとしたら、皆さんは耐えがたい苦痛に襲われるでしょう。 これを体験しない、あるいは眠った状態で体験するというのは、幸運なことです。 なぜなら、これを覚醒状態で体験するとしたら、それは考え得る限りの痛み、恐ろしい痛みだからです。 それどころか、こうも言えるでしょう。意志の中で目覚めるとしたらは、それは意志を遂行する人間にとっては痛みそのものですが、通常の場合は、意志は熟睡していて、麻痺しているので、痛みが潜在的なものに止まっているのです。

■高次の意識段階における意識状態:イマギナチオーン、インスピラチオーン、イントゥイチオーン(20~25)

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▲像の中での営み(20)


06-20
いわゆる目覚め状態での自我の三つの営み…つまり完全な覚醒、夢想的覚醒、熟睡的覚醒を含みます…を性格づけますと、通常の目覚めた身体内で自我が活動することで、自我が現実の中で、本来何を生き通しているのかが分かるでしょう。 この自我は肉体内で目覚めているときには、思考的認識の中に生きていますし、そこでは完全に目覚めています。 その中で自我は単に像の中に生きるだけです。そして、私の『いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか』で述べた修練を経ない限り、誕生から死まで、思考的認識を介して、自我は像の中に生きるだけです。

▲インスピラチオーンにおける営み(21~22)


06-21
さらに自我は、感情を統御する諸過程の中へも目覚めつつ降りて行きます。 ただ感情の営みでは、完全には覚醒しておらず、夢想的に目覚めています。 夢想的覚醒状態で私たちが感情を伴いつつ行っていることを、私たちはどのように体験しているでしょうか。 私たちは、インスピラチオーン、インスピラチオーン的表象、インスピラチオーン的無意識表象などと呼ばれるものの中で実際にそれを体験しています。 芸術家では、感情から何かが目覚めた意識へと立ち昇って来ますが、そのすべての発生源はここです。 そこでまずこうした体験がなされます。 目覚めた人間において、ひらめきが覚醒意識に上り、さらに像にまで高まることがありますが、それらすべてがここを経由していきます。




06-22
インスピラチオーンは、すべての人が感情の深い営み内に無意識に内在させていますが、私の著書『いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか』の中でインスピラチオーンと呼んでいるものは、それが、明るみ、つまり完全に意識化された体験として昇ってきたものです。 ですから特別な才能を持った人たちがインスピラチオーン(インスピレーション)と言う場合、感情の営みへ世界から持ち込まれたものを、素質によって完全な覚醒意識に昇らせたものを指します。 思考内容は宇宙内容でしたが、これもそれと同様に宇宙内容です。 しかし誕生から死まで地上生では、この無意識的なインスピラチオーンには、夢想的にしか体験できない世界過程が映し出されています。そうでなければ私たちの自我はこうした過程の中で火傷するか、窒息するかしてしまいます。 人間が異常状態に陥りますと、こうした窒息がしばしば起こります。 悪夢を考えてみてください。 外気との相互関係が順調ではなく、どこか狂いが生じていますと、それは逸脱した状態で別なものに入り込んでいこうとします。 つまり、自我意識に入り込もうとするのです。すると、正常な表象が意識されるのではなく、苦しみの元になる表象、つまり悪夢が意識されます。 悪夢における異常な呼吸は息苦しいものですが、もしも人間が通常の呼吸を完全に目覚めた意識で体験したなら、それは悪夢の場合と同様、苦しいものになります。 それを感情と共に体験しますと、それは苦しみに満ちたものでしょう。 それゆえ、体験が鈍化され、肉体的現象としてではなく、夢想的感情としてのみ体験されるのです。

▲イントゥイチオーンにおける営み(23~25)


06-23
さらに意志において行われる諸過程を体験したなら、すでに申しましたように、これは恐ろしいほどの痛みになるでしょう。 それゆえ三番目として、「意志における自我は熟睡している」と言うのです。 非常に鈍化された意識…熟睡的意識…無意識なイントゥイチオーンの中で体験されるものが、そこで体験されます。 人間には常に無意識的イントゥイチオーンがありますが、それは意志の中に生きているのです。 人間は意志の中では眠っています。 それゆえ通常の生活では、イントゥイチオーンを引き出すことができません。 無意識的イントゥイチオーンは幸運な状態でしか昇ってきませんが、そのときには、非常にぼんやりとですが、霊界を体験しています。
06-24
ところで通常の生活では、ある奇妙なことがあります。 思考的認識における、完全に目覚めた意識状態は誰もが知っています。 ここではいわば意識の明るみに居ますし、これは周知です。 しかし、誰かが世界について熟考し、「イントゥイチオーンを得た」、と言いはじめることもあります。 こうしたイントゥイチオーンから、感じ取られたとりとめもない事柄を言い出します。 その際に語られることはしばしば支離滅裂ですが、無意識的につじつまが合っている場合もありえます。 その極めつけは、あの詩人がイントゥイチオーンと言う場合です。そのイントゥイチオーンは、感情の営みというインスピラチオーン的表象という最も手近なところに源泉を持つのではなく、眠れる意志の領域にある完全に無意識なイントゥイチオーンの領域に源泉を持つのです。
06-25
こうした事柄を深く見ると、表面的には日常の偶然に見えるものの中に、深い法則性が見えてきます。 たとえばゲーテの『ファウスト』第二部を読みますと、この奇妙な詩句がどのようにできあがったのか、徹底的に教えてもらいたいものだ、と思います。 『ファウスト』第二部の執筆当時、少なくともその大部分の執筆当時、ゲーテはすでに高齢でした。 ゲーテは、書記のヨーンを机に向かわせ、口述を筆記していきました。 もしもゲーテ自身が自筆で書かなければならなかったとしたら、『ファウスト』第二部に見られる、奇妙で彫金のような詩句を生み出すことはおそらくなかったでしょう。 口述筆記中、ゲーテはワイマールの小さな書斎を絶えず行き来していましたし、そしてこの行き来が『ファウスト』第二部の書き上げに関係しています。 ゲーテが、歩くこと、つまり無意識的意志行為を展開したために、彼のイントゥイチオーン群から何かが立ち昇って来ましたし、つまりゲーテの外的活動が口述筆記の内容として顕われたのです。

■まとめ並びに人間の身体形態についての展望(26~27)

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▲まとめ並びに人間の身体形態についての展望(26~27)


06-26
体内における自我の営みを図式化すると次のようになります。 これですと、深い意味ではない一般的なイントゥイチオーンが、より意識に近いはずのインスピラチオーン的感情よりも日常の像的認識に昇って来やすい理由が分かりにくくなります。 I   覚醒的  --- 像による認識
II  夢視的 --- インスピラチオーン的感情
III  熟睡的 --- イントゥイチオーン的ないし
         イントゥイチオーンされた意志
…前の図解は間違っているので…次のように描けば正しいですし、事柄が分かり易くなります。



するとこう言えるでしょう。 「矢印1の方向で、映像的認識がインスピラチオーンに降りていき、それが今度はイントゥイチオーンから立ち昇ってくる(矢印2)。 ここで、矢印1は、認識作用の肉体内への下降を示している」と。 座っていても立っていてもよいですから、静かな思考的認識、あるいは外界の観察に没頭している、と思ってみてください。 このとき、皆さんは像の中に生きています。 この過程における、自我による像体験以外のものは、まず感情、そして意志へ、身体へと降りてゆきます。 しかし皆さんは、感情内のものは無視しますし、意志内のものもとりあえずは無視します。 さて、皆さんは歩き始め、行動し始めます。するとまず、感情ではなく意志を外的に観察し始めます。 肉体への下降と矢印2で示された再上昇では、夢想的インスピラチオーン的感情よりもイントゥイチオーン的意志の方が映像的意識に近いのです。 それゆえ、しばしば「なんとなく直観(イントゥイチオーン)が来た」と言われる理由がわかります。 …それゆえ、私が『いかにしてより高次の諸世界の認識に達するか』の中で「イントゥイチオーン」と言っているものと、通常意識における表面的なイントゥイチオーンは混同されやすいのです。
I 覚醒的  ---
II  夢視的 --- インスピラチオーン的 感情
III  熟睡的 ---  イントゥイチオーン的  意志


06-27
ここで人間の肉体形姿をいくらか理解できるでしょう。 ここで、歩きながら世界を観察している、と思ってください。 下半身に脚がついているのではなく、頭部から直接脚が出ていて、それで歩いていると思ってください。 そうなりますと、世界観察と意志作用とが一つに混ざってしまい、その結果、皆さんは眠ったままでしか歩けないでしょう。 頭部は、肩などの上に乗っていて、身体上で静止しています。 それは静止しているのです。そして皆さんは、身体の他の部分を動かすことで、頭部を運んでいるのです。 頭部は身体上で静止できなくてはなりませんし、そうでなかったら思考的認識の器官ではありえなかったでしょう。 頭部は、熟睡的意志から隔離されていなくてはなりません。 なぜなら、頭部を運動、つまり準静止状態から自発的運動に移行しますと、その瞬間に頭部は眠ってしまうからです。 頭部は、本来の意志活動を身体にやらせていますし、自分はこの身体を客車としてそこに乗り込み、この乗り物に運んでもらっています。 頭部が客車に居て身体という機関車に運んでもらい、また運ばれながら安静な状態で活動することによってのみ、人間は目覚めて行為できるのです。 こうした事柄を総合しますと、人間の身体形姿をはじめて真に理解できるのです。

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