2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第05講、シュツットガルト、1919年8月26日



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■人間の魂の活動における意志と思考の関係(01~06)

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▲人間の魂の活動における意志と思考の関係(01~06)

05-01 昨日は、意志の本性について、それを人間生体の構成要素との関係で話しました。 人間の他の本性をよりよく見るために、ここで学んだ人間の意志本性についての知見を役立てたいと思います。 05-02 すでにお気づきのように、人間本質について語るに当たって、私は、一方に知的、認識的活動を置き、もう一方に意志活動を置いてまいりました。 さらに、認識活動が神経組織に関連し、意志の強さが血液活動と関係する様子も示しました。 これらを振り返って考えるなら、皆さんは「第三の魂的能力である感情活動はどうなっているのか」と問うでしょう。 …この点は、今まであまり問題にして来ませんでした。 しかし、今日、感情活動について取り上げますし、それによって認識および意志活動という人間本性の両面もさらに深く理解できるはずです。 05-03 ただその前に、私があちこちで繰り返し述べてきたことを明確にしておく必要があります。 魂的活動を教条的に、思考、感情、意志と並べることはできません。なぜなら、生きた魂全体では、ある活動は別なものに移行していくからです。 05-04 一方の意志を観てみましょう。 認識的活動である表象を浸透させないと、意志は成り立ちませんし、そのことは意識化できるはずです。 表面的な自己観察でよいので、自分の意志に意識を集中してみてください。 意志行為には何らかの表象作用が必ず入り込んでいることに気づくでしょう。 意志行為に何の表象も入り込んでいないとしたら、それは人間ではありません。 意志から湧き出る行為を表象活動で満たしませんと、ぼんやりした本能的活動として意志を垂れ流すだけでしょう。 05-05 すべての意志活動に表象が入り込んでいるのとするなら、すべての思考には意志が入り込んでいます。 ここでも極表面的な自己観察で分かりますが、皆さんが思考を形づくる際にはそこには必ず意志が送り込まれています。 考えを自分でまとめ、考えを他の考えと結びつけ、判断や結論を下すとき、これらすべてに非常に繊細な意志活動が流れ込んでいます。 05-06 つまり、こう言えるはずです。「意志活動の主体は意志活動だが、その底流には思考活動がある。思考活動の主体は思考活動であるが、その底流には意志活動がある」と。 魂的活動の一つ一つを観察するだけでも、お互いに流れ込み合っていますから、両者を教条的に並べ置くことはできないのです。

■魂的活動の身体における現れ(07~15)

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▲視覚を例に示される感覚プロセスにおける認識活動と意志活動(07~09)

05-07 魂的活動が相互に流れ込み合っていることを認識できました。それが身体にも刻印されていることが見て取れます。魂の様子が身体に開示しているのです。 たとえば、人間の眼を観察してみましょう。 眼全体を観察しますと、そこには神経だけでなく、血管も入り込んでいます。 人間の眼に神経が延びていることで思考・認識活動が流れ込みますし、血管が延びていることで意志活動が流れ込みます。 このように身体内においても感覚活動という末端に至るまで、意志的なものと表象・認識的なものが相互に結びついているのです。 これはすべての感覚について言えることですが、意志のための器官、つまりすべての運動器官にも当てはまります。 意志、つまり運動の中へは神経を介して認識的なものが、また血管を介して意志的なものが流れ込んでいます。 05-08 しかしここで、認識活動の特殊性を知っている必要があります。 すでに触れたことですが、次の点は完全に意識していなくてはなりません。つまり、この完全に複合的な人間の活動、認識・表象の側に向かう活動の中には、すべてがある、という点です。 認識・表象活動には本来、反感が生きている、と述べました。 奇妙に思われるかもしれませんが、表象の方向にあるものには、すべて反感が入り込んでいます。 「何かを見るときに、私は反感など作用させていない」と言われるでしょう。 …ところが実は、そのときに皆さんは反感を働かせているのです。対象物を見ているときには、反感を働かせているのです。 眼に神経作用しかなければ、目に見えるあらゆる対象が吐き気を催す、反感的なものになるでしょう。 身体的には眼に血管が送り込まれることで、眼の活動に共感的である意志活動が注ぎこまれます。見るという感覚知覚に存在する反感が、これによって意識から消され、共感と反感にバランスがもたらされ、客観的、中立的に見ることができるのです。 共感と反感のバランスが保たれることで、視覚行為が生じ、そこでの共感反感の相互作用は意識化されないのです。 05-09 この関連ですでに取り上げていますが、皆さんがゲーテの色彩論、特に生理・教授的部分を読まれますと、「ゲーテは見るという行為の深みにまで入っていたので、彼の色彩ニュアンスについての考察では、共感と反感が直ちに全面に表れている」ということがわかります。 何らかの感覚器官活動を少し詳しく見ますと、そこには共感・反感が見えるはずです。 同様に感覚活動では、反感的なものは認識・表象側、神経部分から、共感的なものは、本来の意志の側、血液部分から生じています。

▲人間の眼と動物の眼(10)

05-10 これまでにもアントロポゾフィーの講演でしばしばお話しましたが、人間と動物の眼の構造には重大な違いがあります。 動物の眼では、人間の眼よりも血液の働きが強い、という点が特徴的な違いです。 それどころかある種の動物には、血液活動のための《剣状突起》や《扇状体》といった器官があります。 このことからお分かりのように、動物は人間より眼に多くの血液作用を送り込んでいますが、それは他の感覚についても当てはまります。 つまり動物は、感覚において周囲の世界に対し、人間より多くの共感、本能的共感を展開しているのです。 人間は実際、周囲の世界に対し動物より多くの反感を持っていますが、ただそれが通常の生活では意識に上らないのです。 周囲の世界を見ている印象が嫌悪を催すほどに高まりますと、はじめてそれが意識化されます。 嫌悪とは高まった感覚印象に過ぎないのです。そのとき皆さんは、外からの印象に嫌悪を催すのです。 悪臭の立ちこめる所に行きますと、皆さんはそこで悪臭に対して嫌悪を感じますが、この嫌悪感とは、感覚活動全般でも生じている嫌悪感が高まっただけです。しかし、通常の感覚知覚での嫌悪は、意識の境界を越えることはありません。 しかし、人間が動物よりも周囲の世界に対し強い反感を持たなかったなら、私たちが今できるほどには周囲と自分を分離できないでしょう。 動物は人間より周囲に対し強い共感を持ち、それゆえに周囲と共に成長しますし、人間よりも気候や四季に依存しています。 周囲の世界に対しより強い反感を持つがゆえに、人間は個人(Persönlichkeit)であるのです。 意識されない深みに持つ反感によって周囲と自分を分離できる、という事実、この事実が、私たちの個として分離された個人意識に作用しているのです。

▲意志における共感と反感(11~13)

05-11 これで人間を捉えるに当たって本質的に重要なことをすべて取り上げました。 それぞれ肉体的には神経活動と血液活動として表現される思考・認識活動と意志とが合流することを見て参りました。 05-12 同様に、意志活動の中でも、本来の意志活動と表象活動が合流しています。 何かを意志する際には、望まれた対象に対して共感を展開します。 しかし、意志側の共感に反感を送り込み、個人としての行為、個人としての意志というかたちで分離できなければ、意志は本能的なままでしょう。 ただこの場合には、望まれた対象に対する共感が優位なだけで、反感を送り込むことでそこにバランスを作り出しているのです。 それによって、この共感が共感として意識されることはなく、対象を欲する、というかたちをとるのです。 通常共感は、周囲の世界を世界そのものとして私たちと客観的に結びつけています。ところが、理性だけからの行為でないもの、つまり感激、献身、愛から行う多くの行為においては、共感が意志の中で非常に支配的になり、境界を越えて意識化され、意志そのものが共感に満たされます。 常にそれが起こるわけではないにしろ、例外的には、認識における周囲への反感が意識に上ることがあってもかまいませんが、それと同様に、私たちが常に持っている共感も、感激、献身、愛などの特殊状況で例外的に意識に上ることがありえます。 それが例外でなかったら、私たちの行為はすべて本能的になってしまいます。 社会生活など、周囲からの客観的要求に自分を適応させることができないはずです。 意志に考えつつ入り込むことによって、人類全体の中に、宇宙プロセスそれ自体の中に、自分自身を組み込んでいくのです。 05-13 今述べたことが通常の生活で完全に意識化されたら、魂がどれだけ荒廃してしまうかを考えますと、ここで起きていることを明確にできるかもしれません。 こうした事柄が通常の生活で絶えず意識化されたら、どのような行為にもかなりの反感を意識することになります。 そうなるとひどいことになります。 人間が世界を歩みながら、常に反感的空気の中に居るように感じるでしょう。 反感は行為にとって不可欠な力の一つですが、それは意識されず、意識の境界下にとどまっていますし、これは天の賢き配慮です。

▲人間本性の秘儀-子どもの成長(14~15)

05-14 こんな風に言いたいのですが、ここで皆さんは、人間本性についての一つの注目すべき秘儀をのぞき見ることになります。 この秘儀は、より善き人間であれば誰しもが感じ取っていますが、教育者ではこれを完全に意識化するのが望ましいのです。 子どもの頃には、程度の差こそあれ、人は単純な共感から行為します。 奇妙な言い回しですが、子どもの活動や騒ぎは、活動や騒ぎへの共感から生じています。 共感が世界に生まれ出たとき、それは強い愛や強い意志です。 しかし、この共感はそのままでいることはできず、表象に満たされ、いわば表象で照らされなければなりません。 本能に過ぎないもの中に、モラルある理想を組み入れますと、これが包括的なかたちで生じます。 ここで皆さんは、この領域における反感の意味がよりよく分かるはずです。 幼児は共感的ですが、幼児に見られるような共感的本能衝動が生涯続くとしたら、私たちはその本能の元で動物的に成長してしまうでしょう。 これらの本能は反感的になる必要があり、私たちはそこに反感を注ぎ込まなくてはなりません。 そこで本能に注ぎ込む反感とは、モラル的理想で、これが誕生から死までの生涯では、子ども的本能的共感に対抗します。 それゆえモラル的な成長とは、常にいくらか禁欲的です。 ただこの禁欲という言葉は正しい意味で理解されなくてはなりません。 禁欲とは、動物的なものと闘う継続的な修行なのです。 05-15 人間の現実的活動においては、意志は単に意志に止まらず、高い次元で認識的活動に浸されています。それをこうした事柄から学べるはずです。

■魂の真ん中に位置する感情活動(16~25)

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▲思考と意志の中間:感情(16~17)

05-16 認識・思考と意志との中間に感情活動があります。 ここまでの意志と思考についての説明をまとめますと、真ん中のある境界線から、一方に向かっては共感、つまり意志が流れ出し、もう一方には反感、つまり思考が流れ出している、と言えるでしょう。 しかし、意志における共感にも逆向きの思考が入り込み、また思考における反感にも意志が入り込んでいます。 このように、主として一方に活動を拡げているものが、もう一方へも作用することで、人間は一つの全体になっています。 さて、思考と意志の中間に感情が位置しますので、感情は一方で思考と類縁であり、もう一方で意志と類縁です。 魂全体において認識・思考活動と意志活動を厳密には区別できないことを見てきましたが、感情内において、思考的要素と意志的要素とはほとんど分離できません。 感情の中では、意志的要素と思考的要素が非常にしっかりと相互に浸透し合っているのです。


05-17 ここでも少し自己観察すれば、言っていることが正当だと納得されるでしょう。 意志は、通常の生活の中では客観的に推移していますが、感激や愛から発する行為にまで高まる、という話を前にしました。このことは、今の話からも正しいと分かるはずです。 通常の生活では、意志は外からの必然性で行われますが、この場合には、意志に感情がなだれ込んでいるのがはっきりと見て取れるはずです。 感激や愛情に満たされた行為では、主観的な感情が意志に入り込み、それによって意志から流れ出るものを行為するのです。 感覚知覚活動においても、…まさにゲーテの色彩論のように…詳しく検討しますと、そこに感情が混ざり込んでいることがわかります。 感覚活動が嫌悪にまで高まったり、また逆に、心地よい花の香りを吸い込んだりするとき、そこでは何の妨げもなく感覚活動に感情活動が流れ込んでいます。

▲思考内での感情の活動-判断(18~20)

05-18 しかし、思考活動へも感情活動が流れ込んでいます。 …かつて、特に非常に注目すべき哲学論争がありました。…世界観の歴史には多くの哲学論争がありました…。心理学者フランツ・ブレンターノとハイデルベルクの論理学者ジークヴァルトとの間で行なわれた論争です。 この二人は、人間の判断活動をめぐって論争していました。 誰かが「人間は善良であるべきだ」と判断する際には常に感情が伴う、したがって決断を下すのは感情である、というのがジークヴァルトの意見でした。 ブレンターノは「判断活動と感情活動はともに心情の動きからなるが、判断活動には感情だけが入り込んでいると考えては、判断活動を把握することはできない。 そうすることで本来客観的であらんとする判断に、何か主観的なものが入り込んでしまう。」と考えました。 05-19 事の真相が分かっていれば、こうした論争は、魂的活動の相互流入という真理にまで、心理学者も論理学者も達していないことを示しているだけです。 ここで本当に観察されるべきは何であったかを考えてみてください。 まず一方に、当然ながら完全に客観的に下されるべき判断活動があります。 「人間は善良でなければならない」という内容が、主観的な感情に左右されてはいけません。 つまり判断の内容は客観的でなければならないのです。 しかし判断を下す際には、まったく別なものも問題になります。 事柄が客観的に正しいにしても、その正しさだけでは魂内で意識化されません。 その事柄を、まず魂内で意識化しなくてはならないのです。 このとき、感情活動が共同していないと、いかなる判断も魂内で意識化されないのです。 「判断の客観的内容は感情活動外に確として存在する。しかし主観である人間の魂内で、判断の正しさを確信するには、感情活動を展開する必要がある。」このように両者の意見をまとめて、ブレンターノとジークヴァルトは和解すべきであった、と言わざるを得ません。 05-20 現在はこのように不正確な哲学的観察が横行していますが、それを元に正確な概念を得るのがどれだけ難しいかが、ここから分かると思います。 もちろん正確な概念にまで登り着かなくてはなりませんが、そこまで引き上げてくれるのは、今日のところ霊学しかありません。 外的な学問は、自分たちの概念は正確であるとし、アントロポゾフィー的霊学を痛烈に批判します。しかしそうしたことが起きるのは、霊学的諸概念が現実から得られたものであって、単なる言葉の遊戯ではなく、現行の概念よりもずっと正確で厳密であることにまったく考えが及ばないからです。

▲最初のまとめ(21)

05-21 このように感情的要素を、一方では認識・表象の側、もう一方では意志の側にたどりますと、感情は魂的営みの中央、つまり認識と意志の中間に位置し、その本性を両側に放射していることが分かります。 …感情とは、なり切っていない認識であり、なり切っていない意志、抑えられた認識、抑えられた意志なのです。 すでに見た認識や意志の場合、共感反感は隠れていましたが、感情活動も共感と反感の組み合わせによるものなのです。 認識にも意志にも共感反感の両者が存在し、肉体的には神経活動と血液活動の共同作用ですが、これらは隠れていました。 それが感情では表に現れます。

▲身体構成における感情の営みの現れ(22)

05-22 それでは感情は肉体的にどのように現れるのでしょうか? 人間の身体内のいたる所で、血液経路が何らかの形で神経経路と触れ合っているのが見つかります。 その血液経路と神経経路が接する所では、本来どこでも感情が生じます。 ただ、たとえば感覚器官では、神経も血液も非常に繊細なので、感情として感じ取られないのです。 視覚や聴覚にも微かな感情が入り込んでいますが、それは感じ取られません。そして、感覚器官が身体の他の部分から隔てられていると、さらに感じ取りにくくなります。 眼は眼窩内に収められ、他の肉体器官からほぼ隔離されていますので、眼の活動である視覚では、感情的な意味での共感や反感はほとんど感じ取られません。 そして、眼に入り込んでいる神経も血管も非常に微細です。 眼では感情的な感受は非常に抑圧されています。 …聴覚の場合は、感情的なものはそこまで抑圧されていません。 聴覚は視覚よりも生体の全体的活動と密接かつ有機的に関連しています。 耳の中には数多くの小器官があり、それらは眼とはまったく違った様子を示しています。 それゆえ耳とは、いろいろな意味で、生体の全体的活動の忠実な像なのです。 ですから耳における感覚活動には、大変強い感情活動が伴うのです。 それゆえ、聞いたことを非常によく理解できる人間にとっても、聞いたものの中で認識的なものと感情的なものを区別するのは難しいですし、芸術的なものの中でそれらを聞き分けるのはさらに困難です。 これが元で、近代には大変興味深い現象がありましたし、それが芸術作品の中に直接現れています。

▲聴覚と感情の類似性(23)

05-23 皆さんはリヒャルト・ワーグナーの『マイスタージンガー』の登場人物、ベックメッサーをご存知でしょう。 このベックメッサーは何を表現しているのでしょうか? 人間全体を基盤とする感情的要素は、聴覚活動の認識的な部分に入り込み、作用していますが、この人物は、そのことにまったく気づかない音楽学者を表現しています。 ワーグナーは、「音楽の中では主として感情が活動すべきだ」というまったく偏った自分の見解を、主人公のヴァルターに託して表現しています。 音楽を聴く際には感情と認識の両者が共に作用している、というのが正しい見解ですが、それを誤解したことから生じた二つの…どちらも間違った…見解の対立が、ヴァルターとベックメッサーという人物の対立として表現されています。 これはワーグナーとウィーンの音楽学者エドゥアルト・ハンスリックという敵対者との歴史的対立でもあります。 ハンスリックは、ワーグナーの作品が有名になるにつれ、彼の作品の底流にある感情的事柄のすべてを非音楽的と見なし、批判しました。 芸術分野において、ハンスリックの『音楽的に美なるものについて』くらい心理学的に興味深い本はないでしょう。 この本で彼は、「音楽のすべてを感情的なものから引き出そうとする人間は、真の音楽家でもなく、真の音楽的感覚も持たない。そうではなく、音と音との客観的な結合にこそ、感情的なものを廃した音と音をつなぐアラベスクにこそ、音楽の神髄がある」、と主張しています。 このハンスリックの『音楽的に美なるものについて』では、最上の音楽的なるものとは、音の形成体、音のアラベスクにおいてのみ成り立ちうる、という要求を実に純粋なかたちで展開し、ワーグナー主義の中枢をなす、感情的要素からの音楽的創造に対しては、ありとあらゆる嘲笑を向けています。 ハンスリック、ワーグナー間のこうした論争が、そもそも音楽領域で生じたこと自体が、魂的諸活動にまつわる近代心理学の理念が、どうしようもなく不明瞭であったことを示しています。そうでなかったら、ハンスリックのような偏った考えは生れてこなかったはずです。 しかし、それが一面的であることを見通した上でハンスリックの鋭い哲学的論考を読みますと、『音楽的に美なるものについて』の豊かな精神性は否定できないでしょう。

▲感覚一般論 v.s. 体験という現実(24~25)

05-24 感情的存在である人間総体から、認識的である周辺部へと、ある感覚では多く、ある感覚では少なく入り込んでいくことが、以上のことからお分かりだと思います。 05-25 こうして皆さんは、まさに教育的洞察を高めるために、今日の荒廃した科学的思考の状況に注意を向けるでしょうし、また向けていただかなくてはならないのです。 ここでは準備的な話をしていますし、皆さんを革新的活動へと導く準備となるはずのことを話していますが、もしそれをしないなら、現存の教育学や現行の心理学、論理学、教育実践をかき集め、それを元に学校活動を展開することになるでしょう。 外部で当たり前なことを、学校実践に持ち込まざるを得ません。 ところが今日一般化している事柄は、心理学ですら非常にお粗末な状態です。 どの心理学でも、まずいわゆる感覚論が出てきます。 感覚活動が何から生じるのかを研究し、眼、耳、鼻などの感覚活動を見つけます。 そしてこれらを《感覚活動》という偉大なる抽象概念でくくるのです。 これは大変な間違いですし、非常に問題のある誤りです。 とりあえず今日の生理学者や心理学者に知られている肉体的な感覚だけを取り上げてみても、たとえば眼における感覚と耳における感覚を取り上げても、それらはまったく違うことが分かるはずです。 眼と耳とは二つのまったく違った存在です。 さらに、まだまったく研究されていない、あるいは眼や耳ほどに研究されていない触覚も加わります。 とはいえ話を眼と耳に限りましょう。 これら二つは、まったく異なる活動であり、見るも聞くもひっくるめて《感覚一般》とまとめてしまうのは灰色の理論と言えます。 事柄に正しく向かい合おうとするなら、眼の活動、耳の活動、嗅覚器官の活動などなどをまずきちんと具体的に観察するべきです。 するとそこには非常に大きな違いが見出され、今日の心理学者たちが言う「一般感覚生理学」など作ろうとも思わないはずです。

■結論:現実への道(26~27)

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▲結論:現実への道(26~27)

05-26 『真理と学問』や『自由の哲学』の論考では、私はある領域内に踏みとどまろうとしました。そして、その領域にとどまることによってのみ、人間魂の観察において正しい洞察が得られます。 そのときには抽象概念に陥ることなく、魂を一体なるものとして語ることができます。 なぜなら、確実な地盤に立っているからです。 その出発点とは、人間は世界の中へ入り込みそこで生きるものであって、決して現実すべてを手にしてはいない、という地点です。 この点に関しては『真理と学問』や『自由の哲学』で読むことができます。 人間は、その最初に現実のすべてを手にしているのではありません。 人間はまず成長し、その成長の過程で、思考と観察を相互に入り込ませることによって、以前には現実でなかったものを真の現実として手にするのです。 人間はこうして初めて現実を自分のものにします。 これに関して、すべてを食い荒らすカント主義は恐るべき荒廃をもたらしました。 カント主義は何を行ったのでしょうか? カント主義は冒頭からドグマ的に、「私たちを取り囲む世界は、とりあえずは観察すべきものとして存在し、私たちの内には本来、この世界の鏡像だけが生きている」と言います。 そして、そこからカント主義のすべてを演繹しています。 カント自身がはっきり分かっていないのです。 人間が知覚する周囲世界が一体何であるのかを。 現実とは、周囲の世界にあるものでもなく、現象の中にあるものでもありません。そうではなく、私たちが獲得することによって次第に浮かび上がってくるものであり、私たちに最後に近づいてくるものが、そのとき初めて現実になるのです。 根本的なところから言ってしまえば、真の現実とは、人間が言葉を発することができなくなる瞬間、つまり死の関を越える瞬間に見るものなのです。
(「シュタイナーが指摘したカント認識論の問題点」へのリンク)
05-27 現代の精神文化には非常に多くの誤りが入り込んでいて、それが教育分野で最悪の影響を及ぼしています。 ですから、常に誤った概念を正しい概念に置きかえていかなくてはなりません。 それをして初めて、授業で行なうべきことをも、正しく行うことができるようになるのです。

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