2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第04講、シュツットガルト、1919年8月25日


目次

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■未来の教育と意志についての認識(01~03)

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▲未来の教育と意志についての認識(01~03)


04-01
未来の教育においては、意志や感情の育成が重要です。このことは教育関係者なら教育改革など考えもしない人でも唱えてはいますが、たとえそれが善意から発するものではあっても、意志の本性を見抜けていないために、ほとんど何もできてはおらず、当然、行き当たりばったりです。
04-02
まず初めに、「意志の本質を理解すれば、感情の一部も認識できる」と申し上げておきます。そうして初めて「感情とは何か」を問うことができます。感情は意志と類縁で、意志とは実践された感情であり、感情は遂行されない意志なのです。感情とは、意志が現実化せず心に留まっているものであり、意志が弱められたものなのです。ですから、意志の本質を捉えれば、感情の本質も理解できます。
04-03
誕生から死までの今生では、意志としての営みがすべて形に成り切っているわけではないことは、これまでの考察でご理解いただけたと思います。 意志決定し、それを実行しても、誕生から死まででは実現しきれない何かが残ります。 人間内で生き続ける何かが残り、一つ一つの意志決定から、そして一つ一つの意志行為から死後も続く何かが残るのです。 この残りをきちんと考えに入れなくてはいけません。それはもちろん全生涯にとって重要ですが、とりわけ子どもで重要です。

■体、魂、霊という人間構成要素の全体(04~08)

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▲全体展望(04)


04-04
ご承知の通り、人間全体を見ようとするなら、体魂霊の三つの要素を考慮しなくてはなりません。まず肉体が、最も密なる構成体として生まれます。より詳しくは『神智学』をご覧になってください。身体は遺伝的であり、遺伝的な特徴を受け継ぎます。また魂的なものは、誕生前の営みから離れ、体的なものと結びついています。肉体の中に降りて来るのです。ところが、霊的なものは、まだその素地しか人間に降りてきていません。遠い未来の人間では事情は変わりますが、現代人の場合は素地だけです。よき教育の基盤を作るには、現代人ではまだ素地しかないこの霊的なものに注目する必要があります。そこで、遠い未来の人間にまで続いていく素地となるもののすべてを紹介したいと思います。

▲霊的構成要素(05~07)


04-05
現在の人間ではまだ素地しかありませんが、まず霊我(Geistselbst)というものがあります。 霊我は、現代人では構成要素部分であるとは言い切れないのですが、見霊者はこの霊我を明確に意識しています。 ご承知のように、東洋人の中でも特に意識が発達した人たちは、この霊我を「マナス」と呼び人間に当然備わっているものと考えていました。 逆にヨーロッパの場合は無学な人々が、脈々と霊我を意識していました。 私は、根拠なしにこう言っているのではありません。 少なくとも物質主義の影響を受ける前は、人間の死後に残るものを「マーネン」と呼んでいたのは、民衆が霊我を意識していた証拠です。 私は今、意識していた証拠と申し上げましたが、それは民衆が「マナス」という単数形ではなく、「マーネン」という複数形を用いていた点です。 生前の霊我を問題にする場合、私たちは《霊我》という単数形を用います。 しかし民衆は、素朴な認識に基づく事実からこの霊我を複数形で呼びます。 といいますのは、人間は、死んだ瞬間には複数体の霊的存在に受け入れられるからです。 私はこのことをすでに別な文脈でお話しました。 アンゲロイ(天使たち)の位階に属する霊は私たち個人を導き、その上の位階のアルヒアンゲロイ(大天使たち)は人間のグループを導きます。 そして、この大天使たちは人間が死にますと即座にかかわってきます。その結果、アルヒアンゲロイたちという複数的なものとかかわりますので、人間はある意味で複数形的存在になるのです。 地上では人間が個別存在になっていますが、死後はそれとは異なり幾分複数形的になることを民衆ははっきりと感じ取っていました。 つまり、マーネンとは霊我やマナスが複数形となったときのものなのです。
04-06
さらに高次の人間の構成要素には《生命霊》と呼ばれるものがあります。 これは現代人には極わずかしか認められません。 非常に霊的で、人類の遠い未来に発達してくる何かです。 さらに最上位には、現代人ではその素地しか認められない《霊人》があります。
04-07
さてこれら三つの高次部分については、現在生きている人間ではその素地しかありません。 それでも、これらの素地は、死後、次の受肉までの間に高次の霊的存在に守られて重要な発達を遂げます。 死後の霊界の営みにおいて、これら三つの部分は将来の人間を予見するかたちで、はっきりと発達します。 今生の地上生で人間が霊的・魂的に発達するのと同様に、死後もしっかりと発達するのです。ただ死後は、人間は高次存在たちの臍の緒にぶら下がって発達するのです。

▲魂的&体的構成要素(08)


04-08
これまでは、現在においてはまだほとんど見えない三部分について述べましたが、次に現在すでに見られるものを問題にしましょう。 つまり意識魂、悟性魂あるいは情緒魂、感受魂の三つです。 これは人間の本来の魂部分です。 今日、人間の身体内で活動している魂と言ったら、この三部分が問題になります。 そして人間の身体部分では、最も繊細である感受体(アストラル体)、エーテル体、肉体の三つが問題になります。このうち肉体が最も密で、外的学問の研究対象でもあります。 以上が人間構成体全体です。

■体的諸構成要素と意志(09~12)

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▲肉体と本能(09)


04-09
当たり前のことですが、動物にも人間の肉体に相当するものがあります。 九つの構成体からなる人間と動物界を比較し、この両者の関係について感覚的なイメージや意志の本質を理解する上で有効な考えを得るには、次のことを知っている必要があります。 つまり、動物も人間と同様に魂を内に宿す肉体を持ってはいるものの、動物の肉体は多くの意味で人間のそれとは異なっている、という点です。 人間の肉体は動物と比べると決してより完全であるわけではありません。 たとえば、住み家をつくるビーバーといった高等動物の肉体を考えてみてください。 人間は建築学やさまざまなことを学び取らなくては、ビーバーがするようには家を作れません。 ビーバーは肉体という有機体から家を作ります。 それは単純に、ビーバーの肉体形姿がそれに向けて作られているからです。ビーバーは、その肉体形姿の内に息づいているものを家造りに応用できるように、外界とつながっているのです。 ビーバーの肉体そのものがビーバーの師匠なのです。 スズメバチやミツバチなどの下等動物を観察しますと、その肉体形姿には、人間とは比べようもないくらいしっかりと組み込まれた何かが見られます。 こうしたものすべてを、私たちは本能という概念で包括しています。 ですから、本能を研究するには、肉体形姿との関係を観察しなくてはなりません。 外界に見られる一連の動物形姿を観察研究すれば、動物の肉体形姿の中に、さまざまな種類の本能を研究するためのきっかけが見つかるでしょう。 意志についての研究の第一歩は、まず本能の研究ですし、そのためには、動物の肉体形姿に本能を見出すことができる、という点を念頭に置かなくてはなりません。 個々の動物の頭部形姿を観てそれを描きますと、それは本能の種々の領域を描き出したものになりえます。 意志の第一段階である本能は、像というかたちでさまざまな動物の身体形姿に現れています。 この視点から見れば、世界の意味的内容に入り込むことができます。 私たちはさまざまな動物の身体形姿を見渡し、その中に徴を見ます。 そうした徴は、自然自身が本能を元に作り上げていますが、さらにその本能を通して自然はその動物に息づいているものを実現しようとしています。

▲エーテル体と衝動(10)


04-10
さて、肉体にはエーテル体が宿り、それが肉体の細部までを形成しています。 このエーテル体は超感覚的なもので肉眼では見えません。 意志の本性という観点で見ますと、エーテル体は、肉体に浸透しているだけでなく、肉体に現れた本能にも浸透しています。 こうして本能は衝動に移行します。 肉体において意志は本能として現れました。しかし、エーテル体が本能に力を与えますと、意志は衝動になります。 そして、本能を観ますと、それは外的形姿として具体的に捉えることができましたが、それが衝動として観られるようになるにつれ、外的だったものが内面化され、より一体化されていく様子が興味深く観察できます。 動物のものであれ、それが弱められたかたちで現れる人間のものであれ、本能とは外からやってくる存在であると言えます。 それに対して衝動とは、より内面化された形で現れ、より内側からやって来るものです。なぜなら超感覚的なエーテル体が本能を力づけ、それによって本能が衝動になるからです。

▲感受体と欲望(11)


04-11
さて、人間には感受体もあります。 これはさらに内的です。 この感受体がさらに衝動に働きかけますと、単に内面化されるだけでなく、本能や衝動が意識に引き上げられ、欲望となります。 動物には肉体、エーテル体、感受体という三つの構成体がありますから、衝動だけでなく欲望も持っています。 そして、欲望とは非常に内面的であると誰しもが認めざるをえないでしょう。 衝動とは、こう申し上げたいのですが、誕生から晩年まで一つにつながっています。それに対し欲望とは、魂によって一回一回強められるものです。 一つの欲望とは、何らかの性格的なものでもなく、魂に固着したものでもなく、現れては消えるものなのです。 このように欲望は、衝動よりも魂に近いことがわかります。
「本能:肉体、衝動:エーテル体、欲望:アストラル体」の関係についての具体的な説明

▲魂的構成要素と意志-動機(12)


04-12
さて、人間が…動物には現れ得ないもの…自我の中に、つまり感受魂、悟性魂あるいは情緒魂、意識魂の中に、体的なものの中に生きる本能、衝動、欲望を取り込みますと、そこからは何が作られるでしょうか。 魂では諸部分が互いに混ざり合っていますので、意志も体における場合ほど細かくは区別しません。 魂の各部を厳密に分けて考えるべきか、それともより一体のものとして考えるべきか、それが分からないのが現代心理学の担う課題です。 古い心理学風に表象、感情、意志を厳密に区別する派やそうでない派もいます。その中でもヘルバルト派は表象に、ヴント派は意志に偏っています。 魂的要素の正しい区分が分かっていないのです。 その理由は、実生活では自我は魂の働きすべてに浸透していますし、現代人では魂の三要素が事実上明確には現れないからです。 魂内の意志的なもの…本能、衝動、欲望…、それが自我によって取り込まれた場合を指す言葉が、言語にも存在しないのです。 しかし一般的な言い方をすれば、本能、衝動、欲望が自我によって捉えられたときには、それを動機と呼びます。これで意志衝動が魂的なものの中、つまり《自我的なもの》の中に入ったときのものを動機という言葉で言語化でき、動物には欲望はあるものの、動機はないと言えるのです。 人間では、欲望を魂的領域に取り込み、それによって内的に動機をしっかり捉えようとする強力な推進力が働き、こうして初めて欲望が高次なものになるのです。 人間においてはじめて、欲望は本来の意味での意志的動機になるのです。 そして、人間には動物と同じく本能、衝動、欲望が息づいているにしろ、人間はそれを動機にまで高めています。これが、現代人が持つ意志についての正しい言い方です。 これは明らかに存在しています。 そして、誰かが人間を意志的本性の側面から観察しましたら、こう言うはずです。「その人間が持つ動機を知れば、その人間がわかる」と。 しかし、完全にわかるわけではありません! 人間の中に動機が展開するとき、その水面下では何かが微かに響いていますし、これに最大限の注意を払わなくてはなりません。

■第二の人間としての内なる霊的構成要素、ならびに意志(13~18)

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▲霊我と願望(13)


04-13
ここで私が意志衝動という言葉で示しているものと、表象的なものとをきちんと区別して考えていただくようにお願いいたします。 私が言うのは、意志衝動における表象的な部分ではありません。 たとえば、「私が望んだこと、あるいは為したことはよかった」と表象することができます。 私が言うのはそれではありません。 そうではなく、まさに意志的なものとして、ずっと微かに響くものを言っているのです。 動機を持つとき、その意志に働きかけるものが最低もう一つあり、それが願望です。 そこから欲望が生まれてくるような強い願望のことではありません。あらゆる動機に寄り添う微かに響く願望のことを言っているのです。 これは常に存在しています。 そうした願望を最も容易に知るのは次のようなときです。つまり、動機となって現れた何らかの意志を実行し、その後で振り返って、「今やったことは、本来もっとうまくできたはずだ」と言うときです。 …ところで、人生において「もっとうまくやれたはずだ」と思わない事柄などあるでしょうか? もし私たちが完全に満足するとしたら、それは悲しむべきことです。「これ以上うまくはできない」などということはありえないからです。 これが文化的に高い人と低い人の差です。低い人はいつでも自分に満足したがっています。 文化的に高い人は決して自分自身に満足しません。なぜなら、よりよくやりたい、それどころか違った風にやりたいという微かな願望が動機の中に響いているからです。 この辺りには、堕落の可能性が多くあります。 行為を後悔することを何かとても偉大だと誤解しているのです。 しかし、後悔から何かを始めるのは決して最上ではありません。 なぜなら、後悔の根底には、より善人になるにはもっとよくやっておけばよかった、という単純なエゴイズムがあるからです。 これは利己的です。 過ぎ去った行為をよりよくやっておけばよかったと思うのではなく、次の機会にはよりよくやろう、という方に重点を置くなら、利己的ではなくなります。 「次の機会にはよりよくやろう」という先に向けての意図こそが、最も高みにあるものであって、後悔は決してそれには値しません。 そして、この意図に向けて願望は響き上がって行き、さらにこう問うこともできましょう。「願望として、そこに共に響いているのは何なのだろうか?」と。 …魂を真に観察できる者には、これが死後も残る第一の要素であることがわかります。 それが、「もっとよくやれたはずだ」とか「よりよくやりたいと願っていたはずだ」と感じていたものの残りなのです。 …この残りは霊我に属します。つまり、私が述べてきた形での願望です。

▲生命霊、意図と内なる第二の人間(14)


04-14
願望はさらに具体的で明確な形を取り得ます。 すると願望は、先に向けての意図と似てきます。 そうなりますと、もう一度同じことをするなら、それをよりよく行うにはどうしたらよいか、と考えるでしょう。 しかし、そこでの表象に私は重きを置きません。 そうではなく、次にはもっとよく行おう、という動機の一つ一つに伴う感情的、意志的なものが重要なのです。 このとき、私たちの中ではいわゆる潜在意識が強く働いています。 もし自らの意志で何か行為しようとする場合、通常の意識では、「次に似た機会があるなら、どうしたらそれをよりうまく行えるか」を事前に考えていることはありません。 しかし、皆さんの内に居るもう一人の自分、つまり第二の人間は、…表象的にではなく意志的にですが…もし似たような状況ではどのように行うかという明確なイメージをもっています。 この認識の意味を過小評価しないでください。 皆さんの内に居る《もう一人の人間》を過小評価してはいけません。

▲ドッペルゲンガー。アントロポゾフィーと分析心理学(15~16)


04-15
このもう一人の人間について、例の精神分析学は無意味なことばかりを言っています。 精神分析では普通、次のような教科書的な例を挙げます。 この例は適切なので、ここでも繰り返します。 それは次の通りです。 :ある男が自宅で夜会を開き、その妻は夜会後に湯治にでかける予定である。 夜会には多くの客が集まるが、その中に女性が一人いた。 夜会が終わり、女主人は温泉旅行のために車の方に誘導される。 客は先の女性も含め皆、帰路につく。 一行が交差点に差し掛かると、ぎりぎりまで見えなかった辻馬車が突然曲がって来て、一同は驚く。 夜会の客たちはどうしただろうか。 当然ながら辻馬車をよけるために左右に逃げたが、例の女性だけは違った。 道の真ん中を、馬の前を全力で走った。 御者も馬を止めることを忘れ、夜会の客も呆然としている。 しかし、女の足は速く、馬も追いつけず、やがて橋にさしかかる。 これを避けようなどとも思わない。 彼女は水に落ちるが、幸い助けられ、夜会の家に運び戻される。 そして、そこに泊まることになる。 … ご承知のとおり、この話は例として多くの精神分析の本に載っています。 しかし、どの解釈も間違っています。 本来は次のように問う必要があるのです。 何がこの成り行きの根底にあるのだろうか? この根底には、この女性の意志があるのです。 それでは、この女性は何を望んでいたのでしょうか? この女性は家の主人に好意を持っていて、奥さんが湯治に出かけた留守にこの家に戻って来たかったのです。 しかし、この意志は意識されたものではなく、完全に潜在意識の中にありました。 そして内なる第二の人間、つまり潜在意識はしばしば第一の人間よりずっと賢いのです。 この例では、彼女の潜在意識がこの一部始終、つまり主人の家に戻るために水に落ちるところまでをあらかじめ計画したのです。 さらには、予言的に助けられるところまで先に見ています。 …精神分析では隠された心の力を解明しようとしているのですが、一般論として第二の人間の存在を言っているだけです。 しかし、私たちの魂には意識されない諸力があり、またそれは、通常の魂状態をはるかに超えた、非常に洗練された形で現れるのです。
04-16
どの人間の中にも、言わば地下に別な人間がいます。 この別な人間にはよりよい人間も生きていて、何らかの行為の際に、「次に同じような機会があったら、もっとよくやろう」と先取りするのです。つまり、「似た状況があったら、次にはもっとよくやろう」という無意識な先に向けての意図が絶えず微かに響いているのです。

▲霊人と決意(17)


04-17
そして、魂が身体から解き放されますと、この先に向けての意図は決意になります。 先に向けての意図は魂内で完全に種子のように存在していて、その後に決意が続きます。 先に向けての意図が生命霊に、願望が霊我に宿るのに対し、決意は霊人に宿っています。 このように意志存在としての人間を捉えれば、そこにはすべての構成要素があります。 つまり、本能、衝動、欲望、動機があり、さらには霊我、生命霊、霊人と関係する願望、先へ向けての意図、決意が微かに響いています。

▲死後における意志の発達(18)


04-18
これは人間の成長発達にとって重要な意味を持っています。 微かな営みとして死後のために守られているものが、地上生を生きる人間では像として生きているのです。 ここで人はそれを同じ語で表します。 私たちは、願望、先へ向けての意図、決意を表象的にも体験します。 しかし、こうした事柄が正しく育てられたときにのみ、私たちはこの願望、先へ向けての意図、決意を、人間的にふさわしいやり方で体験するのです。 願望、先へ向けての意図、決意、として人間の深みにあるものは、地上生を生きる人間では表面に出ることはありません。 表象の営みにおいてこれらの像が現れるのです。 通常の意識を育てても、願望とは何なのかを知ることはありません。 願望についての表象が得られるだけです。 それゆえヘルバルトは、願望表象の中にすでに努力を促す何かがあると思い込んだのです。 先に向かっての意図についてもまったく同じで、それについて得られるのは表象だけです。 魂の下方でリアルに生起することを、あれこれやってみたいと思うわけですが、その根底にあるものはわからないのです。 決意にいたってはなおさらです。 これについて少しでも分かっている人はいるのでしょうか? 一般心理学では意志一般について語るだけです。 …さらに教育者は、魂の三つの力すべてをコントロールし、秩序づけるように働きかけなくてはなりません。 教育に携わろうとするなら、人間本性の奥深くで行われていることを相手に仕事をしなくてはならないのです。
  • 霊人:決意
  • 生命霊:意図
  • 霊我:願望
  • 意識魂
  • 悟性魂:動機
  • 感覚魂
  • 感受体:欲望
  • エーテル体:衝動
  • 肉体:本能

■意志の教育(19~27)

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▲反文化的なマルクス主義(19~23)


04-19
表に見える人間の振る舞いを相手に授業を行うだけでは十分ではなく、内的な人間を捉えて授業を組み立てなくてはなりません。 これを意識していることは教育者にとって、非常に重要です。
04-20
現在、世界に広まっている社会主義では、授業を表に見える人間の振る舞いに合わせてしまうという誤りを犯しがちです。 あちこちで見かけるマルクス主義の理想に沿った学校が、どのようなものかを想像してみてください。 ロシアではすでにそうなっています。そして、ルナチャルスキー学校改革ではひどいことになっています。 これは文化の死です。 ボルシェヴィズムからは多くの恐ろしいものが生じていますが、教育はその最たるものです。 過去からの文化遺産を根絶してしまうだろうからです。 第一世代ではそこまでは行かないでしょうが、数世代の後には確実にそうなってしまい、その地の文化が地上から消滅してしまうでしょう。 本来なら、何人かはそれを見抜いていなくてはならなかったのです。 考えてみてください。 私たちは、穏健な社会主義からのド素人的要求の元に生きています。 そうした要求には、月並みなやり方で社会主義を実現しようという響きがあります。 また、玉石混淆状態です。 ここに出席されている人の中にも、ボルシェヴィズムの賛歌を歌い上げているのをお聞きになった人がいらっしゃるでしょう。ところが、それによって、社会主義の中に悪魔的なものを持ち込んでいることにはまったく気づいていないのです。
04-21
ここは特に注意すべきポイントです。 社会的な進歩を促すのは、より深い人間理解からの教育であること、それがわかっている人間がいなくてはならないのです。 さらに、未来の教育者は最奥の人間本性と取り組み、最奥の人間本性と共に生き、大人社会で見られる表面的な人間関係を授業に適用してはいけない、ということも知っていなくてはなりません。 ありきたりのマルクス主義者の望みは何でしょうか。 学校を社会主義的に組織し、学校長を撤廃し、できるだけ子どもの自学自習に任せようと望んでいます。 これは悲惨な結末を招きます。
04-22
私たちは田舎の寄宿学校を訪ねたことがあり、そこで一番品格のある授業を見たいと思いました。 宗教の時間です。 教室に入りました。 男子の一人は窓枠に座って脚を外に投げ出し、もう一人は床に寝そべり、他の子は腹ばいになり頭だけをもたげていました。 そんな感じで教室のあちこちに生徒たちが散らばっていました。 そこへいわゆる宗教教師が入ってきて、何の前触れもなくゴットフリート・ケラーの小説を朗読し始めました。 朗読には生徒たちがさまざまな野次を飛ばしていました。 それを読み終わると宗教の授業は終わり、生徒たちは外に出ていきました。 この経験から私の中に一つのイメージが湧きました。 この寄宿学校の隣には大きな牛舎があり、そこから数歩のところで生徒たちが生活しているのです。 … 確かにこうしたことも厳しく非難されるべきことではありません。 そこには多くの善き意志があります。しかし、文化の未来に何が生じるべきかを完全に見誤ってしまっているのです。

▲繰り返しの行為による意志の育成(23~27)


04-23
社会主義プログラムが目指すものは一体何なのでしょうか。 子どもたち同士を大人社会と同じ仕方でかかわらせようとしているのです。 しかし、これは教育における最悪の誤りです。 大人は大人なりの関係の中で成長していきますが、子どもは大人とは異なる魂的、身体的な力を育てなくてはなりません。 それをわきまえていなくてはなりません。 つまり、魂の奥底にあるものに向けて教育を行わなくてはなりません。 そうでないと前進は望めないのです。 そこで次のように問う必要があります。 授業や教育の中で、何が、人間の意志本性に働きかけるのでしょうか。 …一度はこの問いに真摯に向かい合わなくてはなりません。
04-24
あらゆる知的なものは老化した意志である、という昨日のお話を思い出してください。 つまり通常行われている、知的理解を求めること、訓告を垂れること、教育の中での概念化されたものなどすべては、ここで教育の対象となっている年齢の子どもでは全く効き目がありません。 ここでもう一度まとめてみましょう。 感情とはまだ意志になりきっていない意志です。 そして、意志の中では人間全体が活動していますから、子どもにおいても、意識化されていない決意を考慮しなくてはいけません。 子どもの意志に影響を与えるいい考えがある、などと思わないようにしてください。 ここで、子どもの感情によい影響を与えるにはどうしたらよいか、を問題にしなくてはなりません。 それを行うには、繰り返し何かを行わせるようにする以外にはありません。 皆さんが子どもに正しいことを一回限り言っても、意志発動に正しい影響を与えることはないのです。 子どもへの警告や規則付けは正しいやり方ではなく、今日も明日も明後日も子どもに何かをさせることによって意志が育つのです。 子どもの中に正しさへの感情を目覚めさせると思う事柄を繰り返しやらせるのです。 そうした行為を習慣にまで高める必要があります。 それが無意識の習慣にとどまるなら、無意識であるほど感情の発達を促します。 また意識的な繰り返し、それが行われるべき、行われなくてはならない、という理由から行為と一体となって意識的に繰り返しますと、子どもの意志発動が実際に高められます。 つまり、無意識な繰り返しは感情を育て、完全に意識された繰り返しは本来の意味での意志の発動を育てます。 なぜなら、普通は意識下に留まっている子どもの決意の力が、意識的な繰り返しによって鼓舞され、これによって決意の力が高まるのです。 知的な活動において重要なことであっても、それが意志の育成と関係すると思ってはいけません。 知的な営みにおいては、与えた教材を子どもが理解すればするほどよい、と考えるのが常です。 一回だけそれを与える点が重視されています。 その一回だけで事柄を覚え込むことが重要なのです。 しかし、一回だけ与えられそれを覚えても、感情や意志には作用しません。 そうではなく、繰り返し行われるべき事柄、ある状況下できちんと繰り返し行われるべきと見なされる事柄こそが、感情や意志に働きかけるのです。
04-25
かつての素朴で家父長的な教育では、それを家父長的に実践していました。 それが自然と生活習慣になりました。 こうしたやり方には、ある種の非常に教育的なものがありました。 たとえば、毎日同じ主の祈りを唱えるのはなぜでしょうか? もし現代人が毎日同じ話を読むとしても、決して昔のようにはいかず、退屈すぎると感じられてしまうでしょう。 現代人は一回限りに調教されているのです。 昔の人は、主の祈りを毎日繰り返し唱えるだけでなく、最低でも週に一回は読むような物語の本を持っていました。 そのおかげで、彼らは今日の教育が生み出す人間よりも強い意志を持っていました。 なぜなら繰り返し、そして意識的繰り返しこそが意志を育てるからです。 このことをしっかり心にとめておかなくてはなりません。 ですから抽象的に、意志も教育しなくてはいけない、と言うだけでは不十分です。 これは意志教育のためにいいアイディアだ、とか、これは意志育成に役立つ洗練されたやり方だ、などと思い込んでいるだけだからです。 そうしたものは実際には何の役にも立ちません。 モラルを持てと脅迫されますと、人は弱々しく神経質になるだけです。 たとえば子どもに向かって、君は今日これをしなさい、それからあなたもあれをしなさい、そして二人とも明日も明後日も同じことをしなさい、と言うならば、子どもは内的に強い人間になるでしょう。 … 彼らは、学校では誰か一人が命令しなくてはならないと分かっていますから、権威に従って行動します。 一人ひとりに毎日、場合によっては一年を通じて為すべきことを指示し、それを実際に行うこと、… これが非常に強く意志を育成するのです。 これによって、まず生徒間の結びつきができあがり、さらには教師の権威を強め、そして人間を、意志に強く働きかける繰り返しの活動へと導くのです。
04-26
芸術的な要素は、なぜ意志の形成に素晴らしい作用を持つのでしょうか? それはまず、練習とは繰り返しですし、さらには、芸術的なものを身につけることには喜びが伴うからです。 芸術的なものは一回限りではなく、繰り返し味わうことができます。 人を一回だけ喜ばせるのではなく、繰り返しの喜びを与えうる素地が芸術にはあるのです。 それゆえ私たちは、教材を芸術的要素と結びつけるのです。 これについては明日、続けたいと思います。
04-27
今日私は、意志形成のための働きかけと知的育成のための働きかけが違うことを述べたかったのです。

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