2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第02講、シュツットガルト、1919年8月22日

目次

参考リンク

■新たな心理学の必要性(01)

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▲新たな心理学の必要性(01)


02-01
これからの授業は、アントロポゾフィー的な認識を元にした真の心理学に立脚したものでなくてはいけません。 誰もが教育方法の基礎は心理学であると認めています。 有名なところでは、ヘルバルトの教育学があります。 ところが、現代までのこの数百年の間、事実として真の実践的心理学は生まれませんでした。 その理由は次の点に帰着するはずです。つまり、意識魂時代の開始から現代まで、人間精神の深まりが充分でなく、人間の心を事実に即して把握できなかったのです。 そして、後アトランティス第四文化期の古くさい知識から作られた心理学的諸概念は、今日では多かれ少なかれ内容を失い、無意味なものになっています。 そうした心理学の文献を読みますと、その内容は空疎であることがわかるはずです。 心理学者は概念を弄んでいるだけと感じるでしょう。 たとえば、「表象」や「意志」についての正確で明確な概念は誰も作っていません。 これらについての心理学的、教育学的な定義ならいくらでもあります。 しかし、そのように定義しても、表象や意志についての正しい考えは得られません。 その理由は、…これはある意味で歴史的必然なのですが…、個々人の魂を全宇宙と結びつけてこなかったからです。 人間の魂と宇宙全体との結びつきを捉えられる状況ではなかったのです。 個々人と宇宙全体との関係を考慮できるようになって初めて、人間本性という理念をそれにふさわしく捉えることができるようになるのです。

■表象と意志(02~06)

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▲表象の特徴は像的であること…誕生前の鏡像(02~04)


02-02
まず、いわゆる「表象」について考えてみましょう。 と言いますのも、教育によって子どもの表象、感情、意志を育てなくてはいけないからです。 そのために私たちはまず、「表象が何であるか」の明確な概念を身に着ける必要があります。 表象の活動を本当に囚われなく観察しますと、表象が像的特性を持つことがわかるはずです。 表象とは像的なのです。 表象に実在性を見ようとしたり、表象を確たる存在とみなしたりするなら、これは大変な妄想です。 仮に表象が存在だとしたら、それはどんなものでありうるでしょうか? 確かに、私たちには存在物的要素があります。 肉体的な存在物的要素を考えてみてください。大雑把に言ってしまえば、眼、鼻、胃などはすべて存在物的要素です。 皆さんはこうした存在物的要素の中で生きてはいますが、その存在物で表象することはできないのです。 皆さんは、自分固有の存在をこの存在物的要素の中に完全に流し込み、それと同一化しています。 そしてまさにそうした存在物的要素と一体になっているからこそ、表象によって何かを捉えることができるのです。つまり、表象は像的であり、物質存在的要素に入り込まないがゆえに、それを把握できるのです。 表象とは存在物ではなく、単なる像なのです。 数世紀前から人類の新たな発展段階が始まりましたが、その発端で思考自体を存在と同一視したのは大きな誤りです。 近代世界観の頂点に置かれた「我思うゆえに我あり」という思想は最も大きな誤りでした。 なぜなら、「考える」のどこを探しても「ある」は無く、「あらず」があるだけだからです。 つまり、認識という範疇にある限り、私は存在ではなく、像なのです。



02-03
さて、表象を像的と捉える場合、これは質的に考える必要があります。 表象では運動性を見る必要があります。活動性という概念を当てはめてしまいますと存在性との関連が連想されますので、活動性は適切ではありません。 それでも、思考の活動性を考えるなら、それが単に像的活動であると考えなくてはなりません。 表象には動きしかありませんし、像の動きです。 しかし、像とは何かの像であって、それ自体で像であるわけではありません。 鏡に映る像を例にすれば、こう言えるでしょう。 「鏡に何かが映っても鏡の背後には何もなく、その物は、鏡とは関係のないどこか別な所に存在する。そして鏡は、映すものには頓着せず、あらゆるものを映し出しうる」と。 …表象は、これと全く同じ意味で像的です。それがわかりますと、必然的にこう問うことになります。「表象は、何を映し出した像なのだろうか?」 これについて通常の学問は何も答えられません。アントロポゾフィーを基礎とした学問だけが答えられるのです。 つまり表象とは、受胎以前のあらゆる体験を映した像なのです。 受胎以前に人間はある活動を経てきているという事実を認識しませんと、表象を真に理解することはできません。 そして、通常の鏡像が空間的に生じるのと同じように、死と再受肉の間の営みが今生の営みに映し出され、それが表象になるのです。 …像的に表象するなら…こんな風に考えなくてはいけません。 皆さんの生涯とは、左右を誕生と死で区切られたこの水平線になります。 そして表象が誕生前の彼岸から絶えず入りこみ、それが人間構成要素そのものによって反射される、と考える必要があります。 このようにして、皆さんが霊界において受胎前に行った活動が体的なものによってはね返され、それによって表象を体験しているのです。 事柄を真に認識する人にとっては、表象そのものが誕生前の存在を証明しているのです。なぜなら、表象とは誕生前の存在の像だからです。



02-04
…詳細は後にゆずるとして…このことをまず理念として提示しました。 それは、このようにすれば心理学や教育学の文献に見られる単なる言葉の説明から脱却できることを示したかったからです。 また、表象とは受胎前の純粋な霊界における魂的活動を映し出しています。この事実を知ることで、表象を真に理解できることと思います。 表象について、これ以外の定義はまったく役に立ちません。表象についての正しい理念に到達できないからです。

▲意志の萌芽的性格…死後を指し示すもの(05)


02-05
同様に、今度は意志について考えてみましょう。 通常の意識から見ると、意志とは非常に不思議です。 心理学者から見ますと、意志とは非常にリアルなものであるにもかかわらず、何の内容も持たないので、悩みの種なのです。 心理学者が意志にどのような内容を与えているかを見てみますと、それらはどれも表象から来ていることがわかります。 意志それ自体としては、内容を何も持ちません。 意志の定義は、ここでもまたできません。 意志の場合には内容がありませんから、定義がいっそう困難なのです。 意志とは何でしょうか。 意志とは私たちの中にある一種の萌芽であり、それが死後、私たちの中で魂霊的現実となるのです。 私たちが持つ萌芽が死後私たちから発し、魂霊的実体になる、というイメージが意志なのです。 この図式では、人間の地上生はこの死の線で終わりますが、意志はその線を越えて行きます。

▲表象と意志のまとめ(06)


02-06
左側が表象で、これは誕生前の営みの像であり、右側が意志で、これはその後のための萌芽である、と考える必要があります。 さらに、萌芽と像の違いをはっきりと把握してください。 つまり、萌芽は超存在的であり、像とは劣存在的なのです。 萌芽とは、後になって初めて現実となるものを含み、その後に現実となるものの素地を内に持ち、非常に霊的な本性を持つものです。 このことをショーペンハウアーは感じてはいました。しかし、意志が霊的・魂的な萌芽であり、この霊的・魂的なものが死後霊界においてどのように展開するかという認識にまでは至りませんでした。

■魂の営みの対極性:意識されない反感と共感(07~15)

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▲反感と共感…魂界の鏡(07~09)


02-07
このように確かなやり方で魂の営みを二つの領域に分けました。つまり、像的な表象と萌芽的な意志で、像と萌芽の間には境界があります。 この境界部分が受肉した人間の生涯で、誕生前のものが映されることで表象像が作られ、また意志はそこでは完遂されることなく、絶えず萌芽に留められています。 ここで問わなくてはならないのは、これが生じるのはどのような諸力によってか、という点です。
02-08
人間は何らかの力を持って、誕生前の現実を反映し、死後の現実を萌芽として留めているはずです。 そしてここで、拙著『神智学』でも紹介している非常に重要な心理学的概念、つまり共感(Sympathie)と反感(Antipathie)という対極の概念が登場します。 ここで昨日の話と繋げますと、私たちは霊界に留まり得なくなったとき、物質的地上界に降りて来るのです。 地上に降りることによって、霊的なものすべてに対する反感が生じ、誕生前の霊的現実を反感によって無意識に跳ね返します。 私たちは内に反感の力を持ち、それによって誕生前の要素を単なる表象像に変えてしまいます。 また、死後に意志現実として私たちの真の存在へと輝き出るものと、私たちは共感で結びついています。 この共感と反感は直接には意識されませんが、無意識のうちに働き、またこの両者が絶えずリズミカルに交替することが感情に重要な意味を持ちます。



02-09
私たちの内面で営まれる感情の世界は、呼気と吸気、共感と反感との絶えざる交代によって展開しています。 この交代運動が絶えず続くのです。 左側に向う反感は、表象へ向かう営みを促し、右側に向かう共感は、魂の営みを行動意志へと、つまりそれが死後には霊的な実在となる萌芽へと変化させます。 こうして魂的・霊的な営みを真に理解することができます。つまり、魂的営みの元とは共感・反感のリズミカルな交代なのです。

▲反感(10)


02-10
さて反感では何が映し返されるのでしょうか? それは、受胎前の営みすべてを映し返しています。 これは本質的に、認識的な特徴を持ちます。 認識が可能なのは、誕生前の営みが差し込んでいるからです。 この認識は、受胎前の段階では、はるかに濃い密度で、はるかに実在として存在していますが、反感によって像へと弱められています。 ですから「この高度の認識は、反感に出会い、それによって表象像へと弱められている」と言えるのです。

▲反感の段階(11~12)


02-11
さて、この反感がさらにある段階を超えて強くなりますと、特別なことが起こります。 誕生前から残るこの種の力を用いませんと、私たちは、誕生後の通常の営みにおいて表象できません。 皆さんが受肉した人間として表象するとき、そこで使う力は自分の内にある力ではなく、誕生前からの名残である力を用いているのです。 この力は受胎と共に力を失うと考えられがちですが、実際には作用し続け、差し込み続けてくるこの力によって表象しているのです。 皆さんは、誕生前の活き活きとしたものを絶えず持ち続けますが、ただその誕生前のものを跳ね返す力も内に持つのです。 その誕生前の力は皆さんの反感と出会います。 さて、表象においては、誕生前のものが反感と出会っています。 そして反感の力が十分に強くなりますと、記憶像、つまり記憶が生じます。 つまり、記憶とは私たちの内に逆巻く反感の産物に他なりません。 さて、感情では反感が何かをぼんやりと跳ね返します。それに対し、感覚知覚活動が記憶に形成される場合には、反感が特定のものを跳ね返します。その両者の関係をここで理解されたでしょう。 記憶では、反感が高まっているだけです。 もし表象像に強い共感を持っていたなら、人はこれを「飲み込んで」しまい、記憶などまったくできません。 記憶が可能なのは、表象に対してある種の嫌悪感を持ち、これを投げ返すことでそこに留まらせることができるからです。 これが表象の真相です。
02-12
像的に表象し、これを記憶の中に跳ね返し、像的に保持する、というここでの諸段階をすべてやり通しますと、概念が生じます。 これが魂の活動の一方、誕生前の営みと関係する反感の側です。

▲共感(13~15)


02-13
次にもう一つの面、死後に本性を顕す私たちの中の萌芽的なもの、つまり意志の側を見てみましょう。 意志とは私たちの内で生きています。 それは私たちが意志を共感と共に持ち、死後に成長を始めるこの萌芽に対し共感的だからです。 表象が反感の上に成り立つのと同じように、意志は共感の上に成り立つのです。 反感が強まったとき表象が記憶像に変化したように、共感が十分に強くなりますと、そこからはファンタジーが生じます。 反感から記憶が生じるのとまさに同じように、共感からはファンタジーが生じます。 通常は無意識に起きることですが、さらにファンタジーが充分に強くなり、感覚までも含めて人間全体に隈なく行き渡りますと、通常の意味でイマジネーションと呼ばれるものになりますし、これによって皆さんは外界の物を表象しています。 概念が記憶から生じるのと同様に、イマジネーションはファンタジーから生じますし、これが感覚的観照を与えてくれています。 ファンタジー、イマジネーション、感覚的観照は意志から生じます。
02-14
心理学は「物を見て、それを抽象化すると表象が得られる」とくり返して説いています。 これは事実ではありません。 たとえば、チョークを白いと感じるのは意志を用いているからで、それは共感とファンタジーを経てイマジネーションになります。 それに対し、概念を作るにあたっては、まったく違う道筋を取ります。 つまり、概念は記憶から生じます。
02-15
これで魂の様子をお話ししました。 人間における共感的・反感的要素を区別しませんと、人間存在を把握することはできません。 この共感・反感の要素は、すでに申しあげましたが、死後の魂界で本来の姿を現します。 そこでは共感と反感がその真の姿を現しています。

■魂と身体形成とのつながり(16~20)

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▲神経系(16)


02-16
魂的な意味での人間の様子を述べました。 地上に受肉しているとき、この魂的要素は体と結びついています。 そして、魂的なものすべては体に現われますから、反感、記憶、概念の形をとるものも、体に現れます。 それが肉体器官と結びつき、神経系になります。 身体内に神経組織が形成されるおかげで、あらゆる誕生前の要素が肉体に作用できるのです。 魂的な意味での誕生前の要素が、反感、記憶、概念を介して肉体に働きかけ、神経系を作り出します。 これが神経の正しい概念です。 知覚神経と運動神経の区別といったことは、すべて無意味ですし、それを私はしばしば申し上げてきました。

▲血液(17)


02-17
その点から見ますと、意志、共感、ファンタジーおよびイマジネーションは状況によって人間の外に出て作用します。 これは萌芽的なものであり萌芽に留まらなくてはなりませんから、現実に完成してしまってはならず、発生とともに解消しなければなりません。 あくまで萌芽でなくてはならず、成長しすぎてはいけません。 ですので、発生とともに解消するのです。 これは人間にとって重要です。 人間を、霊的、魂的、体的に、つまり総体として理解する必要があるのです。 そして、人間の内には霊的になろうとする何かが、絶えず形成されています。 しかし、体内にそれを留めておこうとする強い愛、利己的な愛を人間は持っていますので、それは決して霊化しません。 体の中で解体します。 物質的ではありながら、絶えず霊化しようとする何かを私たちは内に持っています。 私たちはそれを決して霊化させません。それゆえ、それが霊化しようとする瞬間に消滅させるのです。 これこそが、血液です。神経の対極にあるものです。


▲「血はまったく特別な液体だ」(18)


02-18
血液は実際「特別な液体」なのです。 もしもこの液体を変質させず、本来の血液のままに保って人間から取り出し、何らかの試薬で破壊を防ぎ、血液本来の姿を保つことができたら、…これは現在の地球上では不可能ですが…、血液は霊となって舞い上がって行くでしょう。 血液が霊となって舞い上がってしまわぬよう、死ぬまでこれを体内に留めておけるように、血液は消滅させられる必要があるのです。 それゆえ体内では常に、血液の消滅…形成…消滅…が、吸気・呼気を介して繰り返されます。

▲神経と血液の対極性(19)


02-19
私たちの内には対極的なプロセスがあります。 一つは血流経路に沿って、絶えず私たちの存在を霊的なものへ昇華させる傾向を持つプロセスです。 一般には運動神経と言われますが、これは間違いです。運動神経に相当するものは、本来、血流路なのです。 神経は血液の反対で、絶えず死滅に、つまり物質化に向かいます。 本質的に言って、神経経路に沿っては、排泄された物質、追い出された物質があります。 血液は絶えず霊化しようとし、神経は絶えず物質化しようとし、対極をなしています。

▲神経を理解することの教育的な意味(20)


02-20
ここでお話しした基本原理は、今後の講演でも引き続き見ていきますし、その中で健康を促進する授業構成をご紹介できるでしょう。それによって、子どもを霊的・魂的に退廃にではなく、健康に向かわせる教育をしていきたいと思うのです。 まだ多くが充分に認識されていないので、誤った教育がまかり通っているのです。 生理学では知覚神経、運動神経と言いますが、これは単なる言葉の遊びです。 たとえば脚に向かう神経が損傷しますと歩けなくなる、という事実がありますから、それで運動神経が問題になります。 歩けないのは、脚を《運動》させる神経が麻痺しているからだ、と言います。 しかし真相は、こうした場合に歩けないのは、自分の脚を知覚できないからです。 私たちが生きるこの時代は多くの間違いで行き詰まらざるをえませんが、しかしそれは、自分たちをその間違いから解放し、人間として自立させるために必要なのです。

■人間と宇宙の関連…身体におけるその三重の現れ(21~28)

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▲共感と反感の身体における現れ(21~22)


02-21
これまでの話で、人間存在の本質は宇宙的なものと関連させてはじめて理解できることがおわかりでしょう。 つまり、表象では宇宙的なものが私たちの内にあります。 誕生以前、私たちは宇宙的なものの中に居て、現在はそこでの体験を内に映し出しています。 そして死の門を越えると、私たちは再び宇宙的なものの中に入りますが、この未来的萌芽は意志の中で力を発しています。 私たちの中で無意識に活動しているものは、より高次の認識で見れば、宇宙において極めて意識的に活動しているのです。
02-22
この共感と反感は、身体でも三様に顕現しています。 共感と反感が一緒になって働く炉が三種類あるのです。 まず第一の炉は頭部にあり、そこでは血液と神経の相互作用で記憶が生じます。 神経活動が中断される場所、つまり飛躍がある場所は、共感と反感が相互に絡み合って働くこの種の炉があるのです。 こうした飛躍の延長に当たるものが脊髄中にもあり、たとえば、椎骨では後方から神経が入り、前方から別な神経が出ています。 自律神経がそこに隠れている神経叢にも別な飛躍があります。 人間とは、外見上どうあれ、決して単純ではありません。 頭部、胸部、下腹部という肉体の三カ所、反感と共感が出会う境界で、こうしたことが行われています。 知覚と意志とに関して言えば、知覚神経から運動神経へUターンして何かが伝わるのではなく、まっすぐな流れが神経と神経の間で飛躍しますし、それによって脳や脊髄の中で、魂的なものに触れるのです。 共感と反感は、神経が飛躍している場で体的なものに組み込まれ、また、自律神経系の神経叢が発達した場所でも組み込まれています。

▲頭部と四肢の対極性(23~25)


02-23
私たちは体験と共に宇宙に組み込まれて行きます。 私たちは宇宙の中でさらに展開していく活動を行いますが、宇宙もまた私たちと共に活動を拡げていきます。それは、宇宙も絶えず共感と反感で活動しているからです。 人間を観察しますと、これもまた宇宙的共感と反感の結果です。 私たちの方から反感を抱きますと、宇宙も私たちと共に反感を抱き、私たちの方から共感を抱きますと、宇宙も私たちと共に共感を抱くのです。
02-24
外見として現れている通り、人間は、頭部、胸部、そして四肢を含めた身体部(代謝系)から成ります。 現代では何かを系統化するときには各部分をきちんと分けたがる傾向がありますから、そうした眼からは、この導入での分類的システムは隙だらけであることをご了承ください。 頭部、胸部、四肢を含む下腹部の組織に分けるなら、それらの間には明瞭な境界が必要だと言われています。 明確な線引きをして分けたがるのですが、現実の問題ではそれは無理です。 頭部では主として頭部的ですが、人間全体も頭部的なのです。 ただそれが主ではないのです。 頭部とは、そこに感覚器官があるものですが、身体全体にもたとえば触覚や熱感覚といった感覚器官が分布していて、熱を感じ取るとき身体は頭部的と言えます。 このように頭部においては頭部性が主であり、他の部分ではそれは《副次的》です。 このように各部が入りこみ合っていて、教条主義者好みの明確な境界はありません。 つまり、全身が頭部であるにしろ、頭部では、特に頭部としてきちんと形成されているのです。 胸部も同様です。 胸部が最も胸部的ですが、全身も胸部的なのです。 つまり頭部もいくらかは胸部的であり、またいくらかは四肢を含めた下腹部的でもあるのです。 このように各部が相互に移行しあっています。 また、下腹部も全く同様です。 頭部が下腹部的であることは、二、三の生理学者も認めています。 頭部の神経系が繊細に発達しているのは、私たちが誇る脳皮質のおかげではなく、その下にあるもののおかげだからです。 実際、精妙な構造を持つ脳皮質は、ある意味ではすでに退行を始め、複雑な構造がすでに失われつつあります。 脳皮質にあるのは主として栄養系なのです。 相対的な見方をすれば、脳皮質とは複雑な脳から栄養供給脳へ退行したものですから、脳皮質などちっとも自慢するには当たらないのです。 脳皮質の役割は、認識作用に関連する神経に正しく栄養を供給することなのです。 そして、私たちが動物よりもはるかに優秀な脳を持つのは、脳神経に栄養がよりよく供給されるからです。 私たちの高度な認識力は、動物より脳神経へ栄養がよりよく供給できることに依ります。 しかし、本来の認識には脳や神経系は全く無関係で、これらは単に、認識を肉体器官に表現するだけです。
02-25
さてここで中間部の組織はしばらく無視し、人間にはなぜ頭部組織とその対極である四肢を含めた下腹部組織があるのか、を問題にしてみましょう。 この対極があるのは、ある特定の時点で、宇宙が頭部を《吐き出し》たからです。 宇宙の反感によって人間頭部が形成されたのです。 人間が内に持つものに対し宇宙が言わば《吐き気》を催したときに、宇宙は頭部を押し出し、その結果この似姿ができたのです。 実際、人間の頭部は宇宙の似姿です。 丸いフォルムを持つ人間の頭部はそうした似姿です。 反感によって宇宙は自分自身の似姿を外に作り出すのです。 それが私たちの頭部です。 宇宙が自分の外に頭部を押し出したからこそ、頭部は私たちの自由のための器官となりうるのです。 性の領域を含む四肢組織は宇宙にしっかりと組み込まれていますが、頭部がそれと同じだと考えてしまいますと、正しい理解は望めません。 宇宙は頭部に反感を持っていますが、四肢系は宇宙に組み込まれていて、宇宙はそれに共感を持ち、引き寄せます。 頭部では私たちの反感が宇宙の反感と出会い、両者が反発します。 宇宙の反感と私たちの反感が衝突し砕け散るところで、知覚が生じます。 そして人間の別な側で生じる内面の営みすべては、私たちの四肢が愛情深い共感と共に宇宙と抱き合うことによって、生じるのです。

▲教育に対する帰結(26~28)


02-26
このように人間の魂は宇宙から作り出され、また分離に際しても宇宙から何らかを受け取り、またそれが人間の肉体形姿に表現されているのです。 それゆえ、この見方を基礎にすれば、意志形成と表象形成との大きな違いがずっとわかりやすくなります。 特に表象形成に働きかけ、表象形成だけに偏って働きかけるなら、全人としての人間を誕生前へと押し戻し、つまり、知育的な教育によって、意志を、すでにやり終えた領域、つまり誕生前に拘束してしまうために、害になります。 ですから、子どもの教育の際には、あまりに多くの抽象概念を入り込ませてはいけません。 できるだけイメージを織り込まなくてはいけません。 なぜでしょうか? それはこの図式から読み取れます。 イメージとはイマジネーションであり、ファンタジーや共感を通ってやってきます。 概念、特に抽象概念は抽象化ですし、記憶や反感を通って誕生前の営みからやってきます。 抽象概念をたくさん教え込みますと、子どもの血液中での炭酸合成プロセスをとりわけ密に促し、身体硬化のプロセス、死滅のプロセスを強めることになります。 できるだけ多くのイマジネーションを与えますと、つまり、イメージ豊かに子どもたちに語りかけますと、子どもを未来、つまり死後の世界に向けることになり、絶えず酸素を保持し、絶えざる生成する萌芽を植えることになります。 教育とは、ある意味では、誕生前に受けていた働きをこの世で続けることなのです。 表象とは、受胎前に体験されたことによって喚起された像化の活動である、という以外の何物でもありません。 そこでは霊的諸力が、誕生後になおも残る像化の活動を植え付けるべく私たちに働きかけてくれたのです。 子どもたちに像を伝えることによって、教育活動において宇宙的営みを引き継ぐことになるのです。 私たちが子どもの身体活動に像を植えるなら、子どもに芽生えうる像を植えることになります。 ですから、私たち教師が像によって働きかける能力を身に付けますと、次のような感情を持ち続けるはずでしょう。お前が像で働きかけるなら、お前は全体としての人間に働きかけ、人間全体がそこで共鳴する、と。
02-27
教育とは、そのすべてが誕生前の超感覚界の働きを引き継ぐことである、ということを感情に受け入れますと、教育にとってどうしても必要な神聖さが生まれますし、この神聖さがなくてはそもそも教育などできません。
02-28
私たちは二つの概念系を自分のものにしました。 認識、反感、記憶、概念-そして意志、共感、ファンタジー、イマジネーションです。 これはあらゆる個別な場合に応用できますし、教育活動の中で実践的に活用する必要がある二つの概念系です。 これについては、明日、話を進めましょう。

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