2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第01講、 シュツットガルト、1919年8月21日


目次

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■基礎づけ:霊界とのつながりは新たな教育の前提条件(01~02)

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▲《主知的・感情的とモラル的・霊的》-物質主義と霊学(01)

01-01 私たちの課題は単に知的あるいは感性的な仕事ではありません。 それは最高次にモラル的・精神的・霊的な課題です。 ですから、教育という課題に向かうに当たって、まず霊的世界との関連を視野に入れなくてはなりません。 私たちの課題は単に地上的・物質的なものではないのです。 ここ数百年、自分の課題を物質的なものだけに限る傾向が支配的ですし、それが唯一無二と信じ込んでいる人が多いのです。 人間がやるべきことを物質的なものに限定して考えてしまうために、教育も本来のあり方から逸脱してしまっています。私たちの課題は、このずれを修正することです。 それゆえ、私たちが教育という仕事を始めるにあたって、まず次のことに考えを集中したいと思います。 私たち一人ひとりは、霊界の諸力からの委託に沿って働かなくてはなりませんが、私たちはそうした霊界の諸力に対し、どのようにしたら関係を作り出すことができるのか、という点にです。 ですから、これから語る導入の言葉を、私たちの背後に立つ、イマギナチオーン的、インスピラチオーン的、イントゥイチオーン的諸力存在に対する一種の祈りと受け取っていただくよう、お願いいたします。

▲《世界秩序の祝祭的行為》(02)

01-02 …皆さん! この学校の持つ特別な課題を知り、ここでの責務の重要さを感じ取ってください。 この学校では何か特別なことが実現される、という点をしっかりと心に刻むなら、それができるのです。 この学校設立は決して日常的なものではなく、宇宙秩序における祝祭的行為であると見て欲しいのです。 その意味で私はまず、人類発展に寄与すべく、ヴァルドルフ学校設立の決意へとエミール・モルト氏を導いた善き霊たちに深く感謝したいと思います。 貧困と悲惨から人類を救い、教育によってさらなる発展段階へと導かんとする尊き霊の御名において、私は深い感謝の念を捧げます。 モルト氏はこの課題のためには、自分が力不足だと自覚しています。 しかし、私たちが彼と共に、この始まりの瞬間において、この偉大な課題が祝祭的雰囲気の中で宇宙秩序に組み込まれたと感じるなら、氏も私たちの中心にあって正しい力を発揮することができるでしょう。 この観点から、仕事を始めましょう。 ここに会する一同を、カルマが導いた同胞とみなしましょう。そして、ここから始まるのは日常的な事柄ではありません。この祝祭的な宇宙的瞬間を感じ取った者たちの協働から何かが生じるのです。準備のための連続講演がこのような祝祭的な雰囲気の元で開会いたしましたが、この続きは連続講座の最後、つまりすべてを語り尽くし、課題がより具体的になった時点で述べたいと思います。

■第五文化期の教育課題:物質主義とエゴイズムの克服(03~09)

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▲時代の状況と時代からの要求(03~06)

01-03 ここから検討を始めていきますが、それは教育的課題の検討から始めていかなくてはなりませんし、それについてきょうは導入的にお話ししようと思います。 私たちの教育的課題とは、人類がこれまでに果して来た諸々の教育的課題とは別のものです。 このように言うのは、何も私たちが宇宙的秩序からの新たな教育を展開することを自惚れているからではなく、人類の発展には段階的なエポックがあり、エポック毎に人類の課題が新しくなるという事実を、アントロポゾフィーの霊学から認識しているからです。 後アトランティス第一文化期、第二文化期では人類の課題は違っていましたが、そのような変化を経て現在は第五文化期に入っています。 そして、ある文化期で果すべき課題を人類が自覚するのは、通常、その文化期の開始からやや間を置いてからです。 01-04 現在の文化期は、十五世紀半ばに始まりました。 そして最近になって霊的な深みから一つの認識が浮かび上がってきました。 つまり、この文化期における教育的課題が今までとは違うという認識です。 人類は誠意をもって教育的努力を重ねてきましたが、それは後アトランティス第四文化期の古い教育感覚で行われてきました。 ですから、私たちが生きる現文化期の課題を見据え、この時代にふさわしい方向を進むか否かに、多くがかかっているのです。 この方向とは、すべての歴史的発達段階で重要なわけではありません。 まさに私たちのこの時代にとって必要であり重要な方向なのです。 「特定の時代には特定の課題がある」という意識が失われたのも唯物論のせいです。ですから、まず最初に、「特定の時代にはそれぞれ特定の課題がある」と考えていただくよう、皆さんにお願いいたします。 01-05 皆さんがこれから授業を受け持つ子どもたちは、すでに一定の年齢に達しています。 その子たちは、幼児期に両親の教育、ひょっとしたら「誤教育」を受けていると考えられます。 人類が進歩し、親たちが「現代人にとっての課題は、教育の第一歩から特別なものである」と理解したときに、私たちの思いは遂げられるでしょう。 しかし、幼児期の教育で何かが欠けてしまっても、その多くは就学後に取り戻すことができます。 01-06 いずれにしてもこれは明確に認識している必要がありますし、個々の授業もこの点から理解することになります。

▲現代の底流であるエゴイズム(07~08)

01-07 この課題を果すにあたって、今日の文化が精神的領域までエゴイズムから成り立っていることはしっかり覚えていてください。 精神的分野である宗教の現状を囚われなく観察し、この宗教がエゴイズムの上に成り立っているか否かを吟味してみてください。 するとまさに今日の宗教では、非常に典型的に、聴衆のエゴイズムにアピールする説教をしているのです。 たとえば、人々の深い関心である不死性の問題を見てみましょう。 すると今日では、説教すらが、超感覚的なものに対するエゴイズムばかりをクローズアップする捉え方で人間を見ていることがわかります。 人はエゴイズムから、死をもっても雲散霧消せず、自我を保ちたいと熱望するのです。 これはあからさまではないにしろ、一種のエゴイズムです。 今日あらゆる宗教で不死の問題を取り上げ、人びとが持つこの種のエゴイズムにアピールするのです。 それゆえ、今日のほとんどの宗教は、地上生存の両端のうち、一方は置き去りにし、もう一方だけを取り上げるのです。つまり「死」だけを問題にし、「誕生」を忘れているのです。 01-08 これらは明言されているわけではありませんが、そういう基調があることは事実です。 この時代にあっては、あらゆる領域を支配するエゴイズムと戦う必要があります。 そうしませんと、すでに文化的凋落の途上にある人類がさらに堕ちかねません。 地上的人間存在の一端である「誕生」をよりはっきりと認識しなくてはなりません。 そのためには、「死から次の誕生までの長い期間、人間は霊界で成長し続け、ついには霊界から見て死ぬべき地点、つまり、別な存在様式に移行しなければならない地点に達する」、という事実を意識化する必要があります。 そしてこの「別な存在様式」を、人間は肉体とエーテル体を纏うことで手に入れるのです。 肉体とエーテル体を纏うことで人間は、霊界内での成長だけでは決して得られない何かを得るのです。 子どもが肉体を纏って生まれたときから、私たちは子どもを肉眼で見るわけですが、それでも次の意識も持ちたいのです。つまり、子どもがある事柄の延長線上にある、という点です。 人間存在が死後に経験すること、つまり物質的存在から霊界へも引き継がれる点に目を向けるだけでなく、目の前の肉体的存在も霊的なものを引き継いでいること、 そして、私たちの手の届かないところで高次の諸存在が育んできたものを教育によって引き継ぐ、ということにも目を向けようではありませんか。 次のように認識するなら正しい教育的雰囲気が生まれるでしょう。 つまり、「この目の前の人間に対し、私たちは、誕生する前には高次の諸存在が行ってきたことを、行為を通して引き継がなくてはいけない」、と。

▲胎教はマイナス(09)

01-09 現代人は、考え方においても感じ方においても霊界とのつながりを失っていますから、正しい霊界の観方からしたら全く意味のない抽象的な問いを発します。 たとえば、胎教はどうすればよいか、と問うのです。 今日、多くの人が事柄を抽象的に考えます。 特定の領域では、具体的に考えるなら、問いをいくらでも重ねることはできません。 以前にも出した例ですが、道に轍があります。 すると問いが次のように続きます。 「どうして轍ができたのか?」「車が通ったから」…「なぜ車が通ったか? 」「車内の人が、どこかに行こうとしたから」…「その人はどうしてどこかに行こうとしたのか?」……。 現実に即した問いはいつか終わります。 しかし、抽象的な問いでは永遠に「どうして?」と問い続けることができます。 問いの車がころがり続けるのです。 具体的な思索は必ず結末に達しますが、抽象的な思索は、車輪のごとく無限に回転し続けるのです。 身近ではない領域の問いもこのような感じです。 人々が教育について考えますと、胎教まで問うのです。 ところが、人間存在も誕生前は、物質界より高次にある諸存在の庇護の元にあるのです。 宇宙と一人一人の存在との関係については、彼らに任せるしかないのです。 つまり、誕生前の教育とは子ども自身の課題ではありません。 誕生前の教育とは、両親、特に母親の行為の意識されない帰結なのです。 子どもの誕生まで、母親が真の意味で倫理的、かつ知的に正しくあり、自己教育を進めるなら、その結果が自ずと子どもに伝わります。 子どもが地上の光を見る前に教育を施そうなどという考えを捨て、自分自身が正しく生きようとすればするほど、子どものためになるのです。 教育とは、子どもが地上に生まれ落ち、外気を呼吸し始める時に初めて意味を持ちうるのです。

■霊・魂と身体の結びつきとしての誕生(10~12)

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▲霊・魂と身体との結合(10~12)

01-10 子どもが地上に生まれ落ちるときに子どもに何が起こるか、霊界から物質界への移行で何が起こるかを、しっかりと把握しておく必要があります。 ご承知のように、ここでまず明確にしておくべきことは、二つの部分が一体になって人間存在となっている点です。 今日の物質界では全く見えず、アントロポゾフィーの霊学で、霊人、生命霊、霊我と呼ぶ人間の霊が、物質界に入る前にまず魂と結合します。 私たちが修行によって到達しなければいけない超感覚的領域に存在するこの霊人、生命霊、霊我という三つの構成要素は、死から再受肉までの期間中に私たちと何らかのつながりをもっています。 この三者から発する力が、意識魂、悟性魂(情緒魂)、感受魂という人間の魂的なものに浸透するのです。 01-11 死と再受肉の間の存在を経て、物質世界へ降りて来る直前の人間を霊視しますと、霊と魂の合一が見られます。 魂と霊の複合体である人間が、高次の領域から地上存在へと降りてきます。 地上的存在という衣を身に纏うのです。 この高次の構成要素が結合する相手である地上的構成要素についてはこう言えるでしょう。 下の地上では、肉体的遺伝によって作られたものが、この魂霊複合体を待ち受ける、と。 こうして、魂と霊の複合体に肉体的なものが結びつき、三つの霊的存在に三つの魂的存在が結びついたものに、さらに三つのものが結びつきます。 霊魂においては、霊人、生命霊、霊我の三つに意識魂、悟性(情緒)魂、感受魂が結びつきます。 これらは互いに結びつき、さらに地上界に降りて、感受体(アストラル体)、エーテル体、肉体と結びつきます。 しかし、後者はさらに母体とも結びつき、さらには動物界、植物界、鉱物界という三つの世界とも結びついていますから、下側でも三プラス三になっています。 01-12 地上に生まれたばかりの赤ん坊を囚われなく観察しますと、魂霊複合体がまだ肉体ときちんと結びついていないことがはっきりとわかるはずです。 霊的な意味での教育的課題とは、魂霊を肉体にきちんと調和させることなのです。 両者を調和させ、相互に調整し合うようにしなくてはなりません。 誕生間もない子どもでは、まだ両者が調和していないからです。 教育者の課題とは、この二つの構成要素を調和させることなのです。

■二つの教育的課題:呼吸を教えることと睡眠を教えること(13~18)

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▲呼吸、および人間と外界の関係(13)

01-13 この課題をさらに具体的に考えてみましょう。 人間の外界に対するあらゆる関係の中で、最も重要なのは呼吸です。 呼吸は、まさにこの地上に生まれたときから始まります。 母胎中での呼吸はいわば準備的で、まだ外界と結びついている訳ではありません。 本当の意味での呼吸は、母胎を離れた時に初めて始まります。 そして、この呼吸には人間の肉体的三層構造のすべてが関係しますので、人間本性にとって非常に重要な意味を持っています。

▲呼吸と代謝作用(14)

01-14 肉体の三層性ではまず新陳代謝があります。 そして新陳代謝は、その一端で呼吸と密接に結びついていますし、さらに呼吸プロセスは代謝的な意味で血液循環と関連しています。 血液循環のもう一方の側は外界からの栄養摂取と関係していますから、呼吸の一方の側では新陳代謝系全体と関連していることになります。 呼吸にはもちろん独自の働きがありますが、一方の側では新陳代謝系とつながっています。

▲呼吸と神経感覚系の営み(15)

01-15 呼吸はもう一方で、神経感覚系とも関連しています。 吸気の際には脳水の圧力が上がり、呼気の際には下がります。 この運動によって、呼吸のリズムが脳に伝わります。 このように呼吸は、一方で新陳代謝系と関係し、もう一方で神経感覚系とも関係しています。 ですから、こう言えるでしょう。物質界に入り込もうとしている幼い子どもを物質界と結びつけるにあたって、呼吸とは最も大切な仲介者である、と。 しかし幼児の呼吸は、地上での人間的営みをまっとうするところまでは行っていません。つまり、地上に降りたばかりの人間では、呼吸プロセスを神経感覚プロセスの側と正しく調和させられません。このことも念頭に置いておく必要があります。

▲呼吸の営みと発達(16)

01-16 子どもを観察しますと、子どもでは、呼吸プロセスがまだ神経感覚プロセスときちんと協働することができない、と言わざるを得ません。 これも、子ども特有の繊細な問題です。 まず人間の本性を、人間学的・アントロポゾフィー的に理解しましょう。 それゆえ、呼吸プロセスが正しく神経感覚プロセスに統合される様子をよく観察することは、教育上の非常に有効な手段になります。 呼吸する存在として生まれたおかげで得られる贈物を自らの霊性の中に受け取ることを、子どもは高次の意味で学び取らなくてはなりません。 お分かりのように、教育のこの部分では霊的魂的なものにアプローチしているのです。 つまり、呼吸プロセスを神経感覚プロセスに調和させることで、霊的・魂的なものを子どもの肉体的営みに引き込むのです。 大雑把にはこう言えるでしょう。「子どもはまだ内面的な意味では正しく呼吸できず、教育とは正しい呼吸を学ぶことにある」、と。

▲睡眠と覚醒の交代(17)

01-17 子どもにはもう一つ正しく行なえないことがあります。 肉体と魂霊の協調のためには、これもきちんとできるようにしなくてはなりません。 …霊的観点から見ますと、通常の常識としばしば矛盾し、奇異な感じもしますが…赤ん坊は、人間本性に相応しいかたちで睡眠と覚醒を交替させることができないのです。 外面的に見れば、子どもはよく眠りますし、幼い子は成長してからよりもずっとよく眠ります。 それどころか、日常生活でも眠っていると言えます。 しかし、睡眠と覚醒の根底にある内的なものを、子どもはまだ行うことができません。 子どもは地上界でさまざまな経験をします。 四肢をさまざまに使い、食べ、飲み、呼吸します。 子どもは、眠りと目覚めを交代しつつ地上界でさまざまなことをするにしろ、…見て、聞いて、触って、蹴飛ばすなどなど…この物質界での体験を、霊界に持ち帰り、加工し、その成果を再び物質界へ持ち帰ることはできません。 子どもの睡眠は大人の睡眠とは性質が異なる点が特徴なのです。 大人の睡眠では、その人の昼の体験が加工されます。 しかし子どもは昼の体験を睡眠の中へ持ち込むことができません。 睡眠中の子どもは、包括的宇宙秩序の営みに入りきってしまい、睡眠中、この宇宙秩序の中に物質界での体験を持ち込むことはないのです。 正しい教育によって、物質界での体験を入眠から目覚めまでの魂霊の活動に持ち込めるよう導かなくてはならないのです。 教育者である私たちは、より高次の世界から何も子どもに与えることはできません。 より高次の世界から人間に与えられるものとは、睡眠中に与えられるからです。 人間が物質界で活動する時間を有効に利用し、物質界での体験を子どもがしだいに霊界に持ち込めるようにしてやり、さらには、それに伴う霊界からの力を物質界へ環流させ、物質界での真の人間存在となれるのを助けるのです。

▲呼吸と眠りについてのまとめ(18)

01-18 このようにまず、あらゆる教育的行為は、正しい呼吸と、正しい睡眠・覚醒の交替という非常な高みに向けられます。 もちろんこれから、それらを教育的に調整するやり方を学びますし、それは決して呼吸や睡眠・覚醒のしつけなどではありません。 これらすべては、背景になります。 私たちがこれから学んでいくのは、具体的な方策です。 しかし、自らが行なうことの根本を意識していなくてはなりません。 ですから、子どもに何らかの教材を与えるときに、魂霊を肉体に導き入れる方向のものと、物質的な要素を魂霊に送り込む方向のものがあることを意識していなくてはなりません。

■教師の自己教育(19~21)

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▲教師の自己教育(19~21)

01-19 今述べたことを過小評価してはいけません。 なぜなら、自分の行為にばかり目が行き、自分のあり方に目が向きませんと、良い教育者にはなれないからです。 アントロポゾフィーに基づく霊学の存在意義とは、人間が世界に働きかけるのは、行為によってのみではなく、むしろ自分の存在そのものによってである、という事実の重要性を洞察する点にあります。 生徒が待ち受ける教室に入るのが、この教師なのか、別の教師なのかで、すでに大きな違いがあるのです。 そこに大きな違いがあるにしろ、その差は外的な教育技術に長けているか、という点だけにあるのではありません。 授業に本質的に影響するような違いとは、その教師がその存在をかけてあらゆる瞬間に持ち続けている考えの方向、さらには教室にまで持ち込む考えの方向によるのです。 「未来に向かって成長する人間(werdende Mensch)」という考えを絶えず持っている教師は、それについて何も考えたことのない教師とは生徒に対してまったく違った風に働きかけるのです。 皆さんがこうした考えを心に抱いた瞬間には何が起こるでしょうか? 「呼吸プロセスやその変容は、教育の中で、どのような宇宙的意味を持つか」とか、「覚醒と睡眠のリズムにどのような宇宙的意味があるか」といった問いを理解し始めた瞬間に、何が起こるのでしょうか? そうした考えを持ち始めた瞬間に、皆さんの内にある何かが、単なる個人的精神と闘い始めるのです。 その瞬間、個人的精神に根ざすあらゆる判断が抑えられます。人間が地上的存在であるがゆえに持ってしまう何かが消し去られるのです。 01-20 この何かを消し去った状態で教室に入りますと、内的な力によって生徒との間につながりが作り出されます。 初めの頃は、表面的には反対のことが起こるかもしれません。 皆さんが教室に入りますと、腕白な生徒たちが嘲笑するかもしれません。 そのとき皆さんは、今お話しした考えで自らを強め、嘲笑をまったく気にせず、傘を持たずに突然の雨に遭った場合と同じように、外的な出来事を受け止めるようにそれを受け止めなくてはなりません。 確かに愉快な出来事ではないでしょう。 そして一般には、嘲笑と、傘なしで突然の雨に遭うときでは違った受け止め方をします。 しかし、これらを違ったものと受け止めてはいけないのです。 嘲笑を突然の雨と同じように受け入れられるよう、しっかりとこの考えを育てる必要があります。 この考えで自らを満たし、それに正当な信頼を持つなら、…一週間か、二週間か、あるいはもっと嘲笑され続けるかもしれませんが、生徒たちと関係を結ぶという望ましい事柄が舞い降りてくるでしょう。 抵抗があろうとも、私たちは内側からの力でこの関係を作り出さなくてはなりません。 教育的な課題の第一として、まず私たちは私たちの側から、思想的な、教師と生徒の関係を支配するある内的で精神的な何かを作り出さなくてはなりません。 そこからさらに、「この精神的な関係はすでにある。子どもに語りかけるのは単なる言葉や警告ではない。授業もやがて上手にできるだろう」という意識を持って教室に入るのです。 もちろんそうした外的なことも上達しなくてはなりません。 しかし、私たち自身の考えと、授業中の子どもの身体や魂で起きるべき事実との関係をつくり、それを基礎的事実とするのでなかったら、そうした外的なこともきちんと育てることはできません。 「この世に生まれることによって、霊界では為しえなかったことを為しとげる可能性が与えられた」という意識がなければ、授業に対する姿勢は十分とは言えないでしょう。 まず、呼吸が霊界と正しく調和するよう、教育する必要があります。 人間は、霊界にいる間、地上世界におけるのと同じようには覚醒と睡眠のリズミカルな交替を行うことができませんでした。 この睡眠覚醒のリズムを教育によって整え、魂霊に肉体が正しく組み入れられるようにしてやらなくてはなりません。 これはもちろん抽象的に捉えてもいけませんし、授業に直接使うものでもありませんが、人間本質の理解として、自分のものにしておかなくてはならないのです。 01-21 序論はここまでにして、明日からは、本来の教育問題に入りたいと思います。

『一般人間学』、第02講、シュツットガルト、1919年8月22日

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■新たな心理学の必要性(01)

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▲新たな心理学の必要性(01)


02-01
これからの授業は、アントロポゾフィー的な認識を元にした真の心理学に立脚したものでなくてはいけません。 誰もが教育方法の基礎は心理学であると認めています。 有名なところでは、ヘルバルトの教育学があります。 ところが、現代までのこの数百年の間、事実として真の実践的心理学は生まれませんでした。 その理由は次の点に帰着するはずです。つまり、意識魂時代の開始から現代まで、人間精神の深まりが充分でなく、人間の心を事実に即して把握できなかったのです。 そして、後アトランティス第四文化期の古くさい知識から作られた心理学的諸概念は、今日では多かれ少なかれ内容を失い、無意味なものになっています。 そうした心理学の文献を読みますと、その内容は空疎であることがわかるはずです。 心理学者は概念を弄んでいるだけと感じるでしょう。 たとえば、「表象」や「意志」についての正確で明確な概念は誰も作っていません。 これらについての心理学的、教育学的な定義ならいくらでもあります。 しかし、そのように定義しても、表象や意志についての正しい考えは得られません。 その理由は、…これはある意味で歴史的必然なのですが…、個々人の魂を全宇宙と結びつけてこなかったからです。 人間の魂と宇宙全体との結びつきを捉えられる状況ではなかったのです。 個々人と宇宙全体との関係を考慮できるようになって初めて、人間本性という理念をそれにふさわしく捉えることができるようになるのです。

■表象と意志(02~06)

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▲表象の特徴は像的であること…誕生前の鏡像(02~04)


02-02
まず、いわゆる「表象」について考えてみましょう。 と言いますのも、教育によって子どもの表象、感情、意志を育てなくてはいけないからです。 そのために私たちはまず、「表象が何であるか」の明確な概念を身に着ける必要があります。 表象の活動を本当に囚われなく観察しますと、表象が像的特性を持つことがわかるはずです。 表象とは像的なのです。 表象に実在性を見ようとしたり、表象を確たる存在とみなしたりするなら、これは大変な妄想です。 仮に表象が存在だとしたら、それはどんなものでありうるでしょうか? 確かに、私たちには存在物的要素があります。 肉体的な存在物的要素を考えてみてください。大雑把に言ってしまえば、眼、鼻、胃などはすべて存在物的要素です。 皆さんはこうした存在物的要素の中で生きてはいますが、その存在物で表象することはできないのです。 皆さんは、自分固有の存在をこの存在物的要素の中に完全に流し込み、それと同一化しています。 そしてまさにそうした存在物的要素と一体になっているからこそ、表象によって何かを捉えることができるのです。つまり、表象は像的であり、物質存在的要素に入り込まないがゆえに、それを把握できるのです。 表象とは存在物ではなく、単なる像なのです。 数世紀前から人類の新たな発展段階が始まりましたが、その発端で思考自体を存在と同一視したのは大きな誤りです。 近代世界観の頂点に置かれた「我思うゆえに我あり」という思想は最も大きな誤りでした。 なぜなら、「考える」のどこを探しても「ある」は無く、「あらず」があるだけだからです。 つまり、認識という範疇にある限り、私は存在ではなく、像なのです。



02-03
さて、表象を像的と捉える場合、これは質的に考える必要があります。 表象では運動性を見る必要があります。活動性という概念を当てはめてしまいますと存在性との関連が連想されますので、活動性は適切ではありません。 それでも、思考の活動性を考えるなら、それが単に像的活動であると考えなくてはなりません。 表象には動きしかありませんし、像の動きです。 しかし、像とは何かの像であって、それ自体で像であるわけではありません。 鏡に映る像を例にすれば、こう言えるでしょう。 「鏡に何かが映っても鏡の背後には何もなく、その物は、鏡とは関係のないどこか別な所に存在する。そして鏡は、映すものには頓着せず、あらゆるものを映し出しうる」と。 …表象は、これと全く同じ意味で像的です。それがわかりますと、必然的にこう問うことになります。「表象は、何を映し出した像なのだろうか?」 これについて通常の学問は何も答えられません。アントロポゾフィーを基礎とした学問だけが答えられるのです。 つまり表象とは、受胎以前のあらゆる体験を映した像なのです。 受胎以前に人間はある活動を経てきているという事実を認識しませんと、表象を真に理解することはできません。 そして、通常の鏡像が空間的に生じるのと同じように、死と再受肉の間の営みが今生の営みに映し出され、それが表象になるのです。 …像的に表象するなら…こんな風に考えなくてはいけません。 皆さんの生涯とは、左右を誕生と死で区切られたこの水平線になります。 そして表象が誕生前の彼岸から絶えず入りこみ、それが人間構成要素そのものによって反射される、と考える必要があります。 このようにして、皆さんが霊界において受胎前に行った活動が体的なものによってはね返され、それによって表象を体験しているのです。 事柄を真に認識する人にとっては、表象そのものが誕生前の存在を証明しているのです。なぜなら、表象とは誕生前の存在の像だからです。



02-04
…詳細は後にゆずるとして…このことをまず理念として提示しました。 それは、このようにすれば心理学や教育学の文献に見られる単なる言葉の説明から脱却できることを示したかったからです。 また、表象とは受胎前の純粋な霊界における魂的活動を映し出しています。この事実を知ることで、表象を真に理解できることと思います。 表象について、これ以外の定義はまったく役に立ちません。表象についての正しい理念に到達できないからです。

▲意志の萌芽的性格…死後を指し示すもの(05)


02-05
同様に、今度は意志について考えてみましょう。 通常の意識から見ると、意志とは非常に不思議です。 心理学者から見ますと、意志とは非常にリアルなものであるにもかかわらず、何の内容も持たないので、悩みの種なのです。 心理学者が意志にどのような内容を与えているかを見てみますと、それらはどれも表象から来ていることがわかります。 意志それ自体としては、内容を何も持ちません。 意志の定義は、ここでもまたできません。 意志の場合には内容がありませんから、定義がいっそう困難なのです。 意志とは何でしょうか。 意志とは私たちの中にある一種の萌芽であり、それが死後、私たちの中で魂霊的現実となるのです。 私たちが持つ萌芽が死後私たちから発し、魂霊的実体になる、というイメージが意志なのです。 この図式では、人間の地上生はこの死の線で終わりますが、意志はその線を越えて行きます。

▲表象と意志のまとめ(06)


02-06
左側が表象で、これは誕生前の営みの像であり、右側が意志で、これはその後のための萌芽である、と考える必要があります。 さらに、萌芽と像の違いをはっきりと把握してください。 つまり、萌芽は超存在的であり、像とは劣存在的なのです。 萌芽とは、後になって初めて現実となるものを含み、その後に現実となるものの素地を内に持ち、非常に霊的な本性を持つものです。 このことをショーペンハウアーは感じてはいました。しかし、意志が霊的・魂的な萌芽であり、この霊的・魂的なものが死後霊界においてどのように展開するかという認識にまでは至りませんでした。

■魂の営みの対極性:意識されない反感と共感(07~15)

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▲反感と共感…魂界の鏡(07~09)


02-07
このように確かなやり方で魂の営みを二つの領域に分けました。つまり、像的な表象と萌芽的な意志で、像と萌芽の間には境界があります。 この境界部分が受肉した人間の生涯で、誕生前のものが映されることで表象像が作られ、また意志はそこでは完遂されることなく、絶えず萌芽に留められています。 ここで問わなくてはならないのは、これが生じるのはどのような諸力によってか、という点です。
02-08
人間は何らかの力を持って、誕生前の現実を反映し、死後の現実を萌芽として留めているはずです。 そしてここで、拙著『神智学』でも紹介している非常に重要な心理学的概念、つまり共感(Sympathie)と反感(Antipathie)という対極の概念が登場します。 ここで昨日の話と繋げますと、私たちは霊界に留まり得なくなったとき、物質的地上界に降りて来るのです。 地上に降りることによって、霊的なものすべてに対する反感が生じ、誕生前の霊的現実を反感によって無意識に跳ね返します。 私たちは内に反感の力を持ち、それによって誕生前の要素を単なる表象像に変えてしまいます。 また、死後に意志現実として私たちの真の存在へと輝き出るものと、私たちは共感で結びついています。 この共感と反感は直接には意識されませんが、無意識のうちに働き、またこの両者が絶えずリズミカルに交替することが感情に重要な意味を持ちます。



02-09
私たちの内面で営まれる感情の世界は、呼気と吸気、共感と反感との絶えざる交代によって展開しています。 この交代運動が絶えず続くのです。 左側に向う反感は、表象へ向かう営みを促し、右側に向かう共感は、魂の営みを行動意志へと、つまりそれが死後には霊的な実在となる萌芽へと変化させます。 こうして魂的・霊的な営みを真に理解することができます。つまり、魂的営みの元とは共感・反感のリズミカルな交代なのです。

▲反感(10)


02-10
さて反感では何が映し返されるのでしょうか? それは、受胎前の営みすべてを映し返しています。 これは本質的に、認識的な特徴を持ちます。 認識が可能なのは、誕生前の営みが差し込んでいるからです。 この認識は、受胎前の段階では、はるかに濃い密度で、はるかに実在として存在していますが、反感によって像へと弱められています。 ですから「この高度の認識は、反感に出会い、それによって表象像へと弱められている」と言えるのです。

▲反感の段階(11~12)


02-11
さて、この反感がさらにある段階を超えて強くなりますと、特別なことが起こります。 誕生前から残るこの種の力を用いませんと、私たちは、誕生後の通常の営みにおいて表象できません。 皆さんが受肉した人間として表象するとき、そこで使う力は自分の内にある力ではなく、誕生前からの名残である力を用いているのです。 この力は受胎と共に力を失うと考えられがちですが、実際には作用し続け、差し込み続けてくるこの力によって表象しているのです。 皆さんは、誕生前の活き活きとしたものを絶えず持ち続けますが、ただその誕生前のものを跳ね返す力も内に持つのです。 その誕生前の力は皆さんの反感と出会います。 さて、表象においては、誕生前のものが反感と出会っています。 そして反感の力が十分に強くなりますと、記憶像、つまり記憶が生じます。 つまり、記憶とは私たちの内に逆巻く反感の産物に他なりません。 さて、感情では反感が何かをぼんやりと跳ね返します。それに対し、感覚知覚活動が記憶に形成される場合には、反感が特定のものを跳ね返します。その両者の関係をここで理解されたでしょう。 記憶では、反感が高まっているだけです。 もし表象像に強い共感を持っていたなら、人はこれを「飲み込んで」しまい、記憶などまったくできません。 記憶が可能なのは、表象に対してある種の嫌悪感を持ち、これを投げ返すことでそこに留まらせることができるからです。 これが表象の真相です。
02-12
像的に表象し、これを記憶の中に跳ね返し、像的に保持する、というここでの諸段階をすべてやり通しますと、概念が生じます。 これが魂の活動の一方、誕生前の営みと関係する反感の側です。

▲共感(13~15)


02-13
次にもう一つの面、死後に本性を顕す私たちの中の萌芽的なもの、つまり意志の側を見てみましょう。 意志とは私たちの内で生きています。 それは私たちが意志を共感と共に持ち、死後に成長を始めるこの萌芽に対し共感的だからです。 表象が反感の上に成り立つのと同じように、意志は共感の上に成り立つのです。 反感が強まったとき表象が記憶像に変化したように、共感が十分に強くなりますと、そこからはファンタジーが生じます。 反感から記憶が生じるのとまさに同じように、共感からはファンタジーが生じます。 通常は無意識に起きることですが、さらにファンタジーが充分に強くなり、感覚までも含めて人間全体に隈なく行き渡りますと、通常の意味でイマジネーションと呼ばれるものになりますし、これによって皆さんは外界の物を表象しています。 概念が記憶から生じるのと同様に、イマジネーションはファンタジーから生じますし、これが感覚的観照を与えてくれています。 ファンタジー、イマジネーション、感覚的観照は意志から生じます。
02-14
心理学は「物を見て、それを抽象化すると表象が得られる」とくり返して説いています。 これは事実ではありません。 たとえば、チョークを白いと感じるのは意志を用いているからで、それは共感とファンタジーを経てイマジネーションになります。 それに対し、概念を作るにあたっては、まったく違う道筋を取ります。 つまり、概念は記憶から生じます。
02-15
これで魂の様子をお話ししました。 人間における共感的・反感的要素を区別しませんと、人間存在を把握することはできません。 この共感・反感の要素は、すでに申しあげましたが、死後の魂界で本来の姿を現します。 そこでは共感と反感がその真の姿を現しています。

■魂と身体形成とのつながり(16~20)

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▲神経系(16)


02-16
魂的な意味での人間の様子を述べました。 地上に受肉しているとき、この魂的要素は体と結びついています。 そして、魂的なものすべては体に現われますから、反感、記憶、概念の形をとるものも、体に現れます。 それが肉体器官と結びつき、神経系になります。 身体内に神経組織が形成されるおかげで、あらゆる誕生前の要素が肉体に作用できるのです。 魂的な意味での誕生前の要素が、反感、記憶、概念を介して肉体に働きかけ、神経系を作り出します。 これが神経の正しい概念です。 知覚神経と運動神経の区別といったことは、すべて無意味ですし、それを私はしばしば申し上げてきました。

▲血液(17)


02-17
その点から見ますと、意志、共感、ファンタジーおよびイマジネーションは状況によって人間の外に出て作用します。 これは萌芽的なものであり萌芽に留まらなくてはなりませんから、現実に完成してしまってはならず、発生とともに解消しなければなりません。 あくまで萌芽でなくてはならず、成長しすぎてはいけません。 ですので、発生とともに解消するのです。 これは人間にとって重要です。 人間を、霊的、魂的、体的に、つまり総体として理解する必要があるのです。 そして、人間の内には霊的になろうとする何かが、絶えず形成されています。 しかし、体内にそれを留めておこうとする強い愛、利己的な愛を人間は持っていますので、それは決して霊化しません。 体の中で解体します。 物質的ではありながら、絶えず霊化しようとする何かを私たちは内に持っています。 私たちはそれを決して霊化させません。それゆえ、それが霊化しようとする瞬間に消滅させるのです。 これこそが、血液です。神経の対極にあるものです。


▲「血はまったく特別な液体だ」(18)


02-18
血液は実際「特別な液体」なのです。 もしもこの液体を変質させず、本来の血液のままに保って人間から取り出し、何らかの試薬で破壊を防ぎ、血液本来の姿を保つことができたら、…これは現在の地球上では不可能ですが…、血液は霊となって舞い上がって行くでしょう。 血液が霊となって舞い上がってしまわぬよう、死ぬまでこれを体内に留めておけるように、血液は消滅させられる必要があるのです。 それゆえ体内では常に、血液の消滅…形成…消滅…が、吸気・呼気を介して繰り返されます。

▲神経と血液の対極性(19)


02-19
私たちの内には対極的なプロセスがあります。 一つは血流経路に沿って、絶えず私たちの存在を霊的なものへ昇華させる傾向を持つプロセスです。 一般には運動神経と言われますが、これは間違いです。運動神経に相当するものは、本来、血流路なのです。 神経は血液の反対で、絶えず死滅に、つまり物質化に向かいます。 本質的に言って、神経経路に沿っては、排泄された物質、追い出された物質があります。 血液は絶えず霊化しようとし、神経は絶えず物質化しようとし、対極をなしています。

▲神経を理解することの教育的な意味(20)


02-20
ここでお話しした基本原理は、今後の講演でも引き続き見ていきますし、その中で健康を促進する授業構成をご紹介できるでしょう。それによって、子どもを霊的・魂的に退廃にではなく、健康に向かわせる教育をしていきたいと思うのです。 まだ多くが充分に認識されていないので、誤った教育がまかり通っているのです。 生理学では知覚神経、運動神経と言いますが、これは単なる言葉の遊びです。 たとえば脚に向かう神経が損傷しますと歩けなくなる、という事実がありますから、それで運動神経が問題になります。 歩けないのは、脚を《運動》させる神経が麻痺しているからだ、と言います。 しかし真相は、こうした場合に歩けないのは、自分の脚を知覚できないからです。 私たちが生きるこの時代は多くの間違いで行き詰まらざるをえませんが、しかしそれは、自分たちをその間違いから解放し、人間として自立させるために必要なのです。

■人間と宇宙の関連…身体におけるその三重の現れ(21~28)

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▲共感と反感の身体における現れ(21~22)


02-21
これまでの話で、人間存在の本質は宇宙的なものと関連させてはじめて理解できることがおわかりでしょう。 つまり、表象では宇宙的なものが私たちの内にあります。 誕生以前、私たちは宇宙的なものの中に居て、現在はそこでの体験を内に映し出しています。 そして死の門を越えると、私たちは再び宇宙的なものの中に入りますが、この未来的萌芽は意志の中で力を発しています。 私たちの中で無意識に活動しているものは、より高次の認識で見れば、宇宙において極めて意識的に活動しているのです。
02-22
この共感と反感は、身体でも三様に顕現しています。 共感と反感が一緒になって働く炉が三種類あるのです。 まず第一の炉は頭部にあり、そこでは血液と神経の相互作用で記憶が生じます。 神経活動が中断される場所、つまり飛躍がある場所は、共感と反感が相互に絡み合って働くこの種の炉があるのです。 こうした飛躍の延長に当たるものが脊髄中にもあり、たとえば、椎骨では後方から神経が入り、前方から別な神経が出ています。 自律神経がそこに隠れている神経叢にも別な飛躍があります。 人間とは、外見上どうあれ、決して単純ではありません。 頭部、胸部、下腹部という肉体の三カ所、反感と共感が出会う境界で、こうしたことが行われています。 知覚と意志とに関して言えば、知覚神経から運動神経へUターンして何かが伝わるのではなく、まっすぐな流れが神経と神経の間で飛躍しますし、それによって脳や脊髄の中で、魂的なものに触れるのです。 共感と反感は、神経が飛躍している場で体的なものに組み込まれ、また、自律神経系の神経叢が発達した場所でも組み込まれています。

▲頭部と四肢の対極性(23~25)


02-23
私たちは体験と共に宇宙に組み込まれて行きます。 私たちは宇宙の中でさらに展開していく活動を行いますが、宇宙もまた私たちと共に活動を拡げていきます。それは、宇宙も絶えず共感と反感で活動しているからです。 人間を観察しますと、これもまた宇宙的共感と反感の結果です。 私たちの方から反感を抱きますと、宇宙も私たちと共に反感を抱き、私たちの方から共感を抱きますと、宇宙も私たちと共に共感を抱くのです。
02-24
外見として現れている通り、人間は、頭部、胸部、そして四肢を含めた身体部(代謝系)から成ります。 現代では何かを系統化するときには各部分をきちんと分けたがる傾向がありますから、そうした眼からは、この導入での分類的システムは隙だらけであることをご了承ください。 頭部、胸部、四肢を含む下腹部の組織に分けるなら、それらの間には明瞭な境界が必要だと言われています。 明確な線引きをして分けたがるのですが、現実の問題ではそれは無理です。 頭部では主として頭部的ですが、人間全体も頭部的なのです。 ただそれが主ではないのです。 頭部とは、そこに感覚器官があるものですが、身体全体にもたとえば触覚や熱感覚といった感覚器官が分布していて、熱を感じ取るとき身体は頭部的と言えます。 このように頭部においては頭部性が主であり、他の部分ではそれは《副次的》です。 このように各部が入りこみ合っていて、教条主義者好みの明確な境界はありません。 つまり、全身が頭部であるにしろ、頭部では、特に頭部としてきちんと形成されているのです。 胸部も同様です。 胸部が最も胸部的ですが、全身も胸部的なのです。 つまり頭部もいくらかは胸部的であり、またいくらかは四肢を含めた下腹部的でもあるのです。 このように各部が相互に移行しあっています。 また、下腹部も全く同様です。 頭部が下腹部的であることは、二、三の生理学者も認めています。 頭部の神経系が繊細に発達しているのは、私たちが誇る脳皮質のおかげではなく、その下にあるもののおかげだからです。 実際、精妙な構造を持つ脳皮質は、ある意味ではすでに退行を始め、複雑な構造がすでに失われつつあります。 脳皮質にあるのは主として栄養系なのです。 相対的な見方をすれば、脳皮質とは複雑な脳から栄養供給脳へ退行したものですから、脳皮質などちっとも自慢するには当たらないのです。 脳皮質の役割は、認識作用に関連する神経に正しく栄養を供給することなのです。 そして、私たちが動物よりもはるかに優秀な脳を持つのは、脳神経に栄養がよりよく供給されるからです。 私たちの高度な認識力は、動物より脳神経へ栄養がよりよく供給できることに依ります。 しかし、本来の認識には脳や神経系は全く無関係で、これらは単に、認識を肉体器官に表現するだけです。
02-25
さてここで中間部の組織はしばらく無視し、人間にはなぜ頭部組織とその対極である四肢を含めた下腹部組織があるのか、を問題にしてみましょう。 この対極があるのは、ある特定の時点で、宇宙が頭部を《吐き出し》たからです。 宇宙の反感によって人間頭部が形成されたのです。 人間が内に持つものに対し宇宙が言わば《吐き気》を催したときに、宇宙は頭部を押し出し、その結果この似姿ができたのです。 実際、人間の頭部は宇宙の似姿です。 丸いフォルムを持つ人間の頭部はそうした似姿です。 反感によって宇宙は自分自身の似姿を外に作り出すのです。 それが私たちの頭部です。 宇宙が自分の外に頭部を押し出したからこそ、頭部は私たちの自由のための器官となりうるのです。 性の領域を含む四肢組織は宇宙にしっかりと組み込まれていますが、頭部がそれと同じだと考えてしまいますと、正しい理解は望めません。 宇宙は頭部に反感を持っていますが、四肢系は宇宙に組み込まれていて、宇宙はそれに共感を持ち、引き寄せます。 頭部では私たちの反感が宇宙の反感と出会い、両者が反発します。 宇宙の反感と私たちの反感が衝突し砕け散るところで、知覚が生じます。 そして人間の別な側で生じる内面の営みすべては、私たちの四肢が愛情深い共感と共に宇宙と抱き合うことによって、生じるのです。

▲教育に対する帰結(26~28)


02-26
このように人間の魂は宇宙から作り出され、また分離に際しても宇宙から何らかを受け取り、またそれが人間の肉体形姿に表現されているのです。 それゆえ、この見方を基礎にすれば、意志形成と表象形成との大きな違いがずっとわかりやすくなります。 特に表象形成に働きかけ、表象形成だけに偏って働きかけるなら、全人としての人間を誕生前へと押し戻し、つまり、知育的な教育によって、意志を、すでにやり終えた領域、つまり誕生前に拘束してしまうために、害になります。 ですから、子どもの教育の際には、あまりに多くの抽象概念を入り込ませてはいけません。 できるだけイメージを織り込まなくてはいけません。 なぜでしょうか? それはこの図式から読み取れます。 イメージとはイマジネーションであり、ファンタジーや共感を通ってやってきます。 概念、特に抽象概念は抽象化ですし、記憶や反感を通って誕生前の営みからやってきます。 抽象概念をたくさん教え込みますと、子どもの血液中での炭酸合成プロセスをとりわけ密に促し、身体硬化のプロセス、死滅のプロセスを強めることになります。 できるだけ多くのイマジネーションを与えますと、つまり、イメージ豊かに子どもたちに語りかけますと、子どもを未来、つまり死後の世界に向けることになり、絶えず酸素を保持し、絶えざる生成する萌芽を植えることになります。 教育とは、ある意味では、誕生前に受けていた働きをこの世で続けることなのです。 表象とは、受胎前に体験されたことによって喚起された像化の活動である、という以外の何物でもありません。 そこでは霊的諸力が、誕生後になおも残る像化の活動を植え付けるべく私たちに働きかけてくれたのです。 子どもたちに像を伝えることによって、教育活動において宇宙的営みを引き継ぐことになるのです。 私たちが子どもの身体活動に像を植えるなら、子どもに芽生えうる像を植えることになります。 ですから、私たち教師が像によって働きかける能力を身に付けますと、次のような感情を持ち続けるはずでしょう。お前が像で働きかけるなら、お前は全体としての人間に働きかけ、人間全体がそこで共鳴する、と。
02-27
教育とは、そのすべてが誕生前の超感覚界の働きを引き継ぐことである、ということを感情に受け入れますと、教育にとってどうしても必要な神聖さが生まれますし、この神聖さがなくてはそもそも教育などできません。
02-28
私たちは二つの概念系を自分のものにしました。 認識、反感、記憶、概念-そして意志、共感、ファンタジー、イマジネーションです。 これはあらゆる個別な場合に応用できますし、教育活動の中で実践的に活用する必要がある二つの概念系です。 これについては、明日、話を進めましょう。

『一般人間学』、第03講、シュツットガルト、1919年8月23日


目次

参考リンク

■ 教師の意識と人類の至上の理念との関係(01)

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▲教師の意識と人類の至上の理念との関係(01)


03-01
現代の教師は、学校でのさまざまな活動の背景として、本来、宇宙の諸法則について包括的に理解しているべきでしょう。 そして、まさに低学年の授業では、当然ながら、最高次の人類理念と教師の魂のつながりが要求されます。 従来の学校では、低学年担当教師が従属的地位に置かれ、高学年教師より価値が低いと見なされていますが、この体質は学校における癌とも言えます。 この場ではもちろん、社会機構の精神的分野全般についての問題には立ち入りません。 しかし、将来においては、教師集団のすべてのメンバーが平等であり、その精神的なあり方も含めて、低学年教師と高学年教師は等価値である、という強い感情が社会一般にも浸透しなければならない、とだけは言っておかなくてはなりません。 ですから、子どもに直接教える内容ではなくとも、…低学年の授業も含めた…創造的なあらゆる授業の背景として、教師が持つべき前提知識が、当然ながら存在するのです。

■人間を理解する上での二つの根本的障害:二元論とエネルギー保存の法則(02~06)

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▲心理学が不完全である理由(02~03)


03-02
授業では、子どもを自然界と精神界へ誘います。(【訳注】ここでの「精神界」とは文学、歴史、等々を意味するものと思われる。) 人間は、誕生から死までこの地上という物質界に存在する限り、一方では自然界と、もう一方では精神界とつながっています。
03-03
さて、この時代にあって心理学的認識の発展は著しく遅れています。 つまり、869年に制定された教会ドグマの後遺症により、かつてあった「人間は体、魂、霊から成る」という認識を失ってしまったのです。 心理学のほとんどが、人間は二つの構成部分からなる、と述べているのをご存じでしょう。 人間は肉体と魂からなる、とか、身体と精神からなる、などと述べていますが、この場合には、肉体と身体、魂と精神はほぼ同じ意味で使われています。 ほとんどすべての心理学が、人間の二層構造という誤りの上に成り立っています。 このように二層構造で考えている限り、人間構成体についての正しい洞察は決して得られません。 それゆえ、今日心理学と言われるものは、基本的に素人芸ですし、ほとんど戯れ言に過ぎないのです。

▲エネルギー保存則から帰結される阻害(04~05)


03-04
さらにこれらの心理学全般は、例の大きな誤謬に由来しています。これは本来、物理学の偉大な発見ですが、その法則が19世紀後半に誤解され、誤謬として拡大してしまいました。 これを発見した人物は、当時、精神病院に隔離されましたが、ご存じのように、ハイルブロン市民は果敢にもこの人物の記念碑を建てました。ユリウス・ロベルト・マイヤーです。 当然ながら、この人物は現在ではハイルブロン市民の大きな誇りで、いわゆるエネルギー不変の法則と密接な関係があります。 この法則は、「宇宙に存在するエネルギー量は一定であり、その時々に応じて熱や力学的な力として現れ、形を変えるだけである」、というものです。 しかしこの法則のこの表現は、ユリウス・ロベルト・マイヤーの法則を完全に誤解しています。 マイヤーにとって重要な発見は、諸力がメタモルフォーゼしうる、という点で、エネルギーの保存という抽象法則を打ち立てることはどうでもよかったのです。
03-05
さて、文化史的に見ますと、このエネルギー保存の法則の意味は何でしょうか? これは、人間理解にとっては大きな障害になります。 諸力が新しく生み出されることはありえないと考える限り、真の人間本性は認識できません。 なぜなら、真の人間本性の基盤は、人間を通して絶えず新たな諸力が形成される、という点にあるからです。 人間とは、私たちが生きているこの世界における関連では、新たな諸力、あるいは…後にお話ししますが…新たな素材すら形成しうる唯一の存在なのです。 現在の世界観ではこの要素、つまり完全な人間認識に必要な要素をまったく取り入れようとしませんから、このエネルギー保存法則に行き着くのです。 このエネルギー保存法則は、人間を含まない…鉱物界、植物界、動物界といった…自然界を視野に入れる限りにおいては何の矛盾もありませんが、人間を含めた瞬間に現実認識から離れてしまうのです。

▲教師の課題:自然と文化の伝達(06)


03-06
教師である皆さんは、生徒たちに、自然、そしてある程度までの精神的営みの二つを理解させる必要があります。 最低限、ある程度までは自然界を知り、また精神的営みにも関係するのでなければ、現代人として社会生活を営むことはできません。 そこでまず、外的自然に目を向けようと思います。

■世界への二通りの道筋と純粋思考の持つ意味(07~14)

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▲自然に対する二重の関係-表象の側(07~08)


03-07
この外的自然とのかかわりを見ますと、私たちは、表象的、思考的に接し、また意志の側でもかかわっています。そして、表象は像的性格を持ち、誕生前を映したある種の鏡像ですし、意志は死後に芽吹く萌芽でした。 私たちは常にこのように自然と向かい合っています。 一見すると自然界はこのように二層になっているように見えますし、こうした見方が人間の二層構造という誤った考えの元でした。 この問題は、また後で取り上げましょう。
03-08
自然に思考的・表象的な面で接すると、私たちは自然の死に行く側面しか把握できません。 これは非常に重要な法則です。 次のことは、しっかり肝に銘じておいてください。 皆さんが、悟性や表象の力を借りて素晴らしい自然法則を発見しますと、この自然法則とは、自然界の死に行く側面とだけ関係しているのです。

▲知覚過程における自我-意志の側(09)


03-09
自然に対し、命を持ち萌芽的である意志を向けますと、死したる自然法則とはまったく異なる経験が得られます。 皆さんはまだ、誤った現代学問から来る考え方を詰め込まれていますから、これは難解かもしれません。 …全部で十二ある感覚を介して私たちが外界と関係するとき、それは認識的なものではなく、意志的なものです。 現代では、誰もこの事実を洞察していません。 それゆえ、目から対象に一種の触手が伸びるから見えるのだ、というプラトンの言葉を幼稚とみなすのです。 もちろんこの触手は感覚的手段では捉えられません。 ですから、プラトンがこれを知っていたというのは、彼が超感覚界に入っていたことの証明です。 対象を見るときには、まさに物を掴むときに似た、しかしそれよりも繊細な過程が生じているのです。 たとえばチョークを手で掴むときの物理的過程は、対象を見る際に目からエーテル力が発せられる霊的過程と似ています。 もし現代人がきちんと観察できれば、自然観察からこの事実が引き出されるはずです。 たとえば馬の眼は外側を向いていますが、この眼の位置を観るだけでも、周囲との関係が人間とは違うことを感じ取れるはずです。 次のように仮定すると、その根本にあるものがはっきりすると思います。 皆さんの両腕が、前方で互いに触れたり、両手を合わせたりできない構造になっている、と仮定してみてください。 オイリュトミーで言えば、Aしかできず、何らかの抵抗のために腕を前で合わせられず、決してOはできないのです。 馬の眼から出る超感覚的な触手は、ちょうどこのような状態です。左眼の触手を右眼の触手に触れ合わせることができないのです。 人間の眼の位置では、両眼の超感覚的な触手を常に触れ合わせることができます。 これができるので、…超感覚的な意味での…自我の知覚ができるのです。 動物でも左右を触れ合わせることができる場合がありますが、それでも祈りといった精神的な営みに使うことはできず、わずかな意味しか持ちません。もし人間がこの程度にしか左右の手を触れ合わせることができないか、あるいはまったくそれができなかったら、自我を霊的に感じ取ることはできなかったでしょう。

▲「なっていくこと」と「できあがっていること」(10~12)


03-10
眼や耳など感覚的感受において重要なことは、それが完全には受動的ではなく、能動的で、対象と意志的にかかわる点です。 最近の哲学には、正しい方向の予感もあり、それに多くの言葉を弄していますが、大概は、事柄把握への道のりの遠さを示しているだけでした。 ロッツェ哲学の局所的兆候という観方の中に、感覚の意志的性格についての予感が現れています。 しかし、とりわけ触覚、味覚、嗅覚は明らかに代謝系と結びついていますし、より高次の感覚も代謝系と関連していますから、意志的な性質があると言えるのです。
03-11
ですから、次のように言うことができるでしょう。 人間が悟性的理解をもって自然に向いますと、自然界の死んだものを捉え、死んだ法則を得ます。 また、自然において未来志向的に死の領域から抜け出ているものを、人間は意志によって捉えますが、その意志とは、自分にとっても曖昧でありつつ、それでいて諸感覚にまで入り込んでいます。
03-12
この言葉をきちんと捉えると、自然との関係がいかに生き生きするかを思ってみてください。 そして、こんな風に言うことでしょう。自然に出ていくと、光や色彩が向かって来て、そして、光や色彩を受け取ることで、私は自然における未来に向かう放射と結びつく。そして部屋に戻り、自然について考えを巡らせ、法則について考えるとき、私は自然の死に行くものと取り組んでいる、と。 自然の中では、死んでいくものと生まれ出るものとが絶えず結びつき合っています。 私たちが死を理解しうるのは、自分の内に誕生前の営みの鏡像を持ち、さらには悟性世界、思考世界を持ち、それを介して自然の根底にある死を捉えられるからです。 自然の中で未来に生じるものを捉えうるのは、悟性や思考をもってではなく、内にある意志的なものをもって自然に向かうからなのです。

▲認識における、感覚に依拠しない純粋な思考(13~14)


03-13
誕生前や地上生までの全体から、もしくは、誕生前の期間に単なる思考的営みになってしまったものから、何かを救い出すことができなければ、人間は決して自由にはなれないでしょう。 この場合、人間は死するものと結びつき、自分が内に持つ、死せる自然と類縁なものを自由へと引き上げることになりますが、それはまさに死に行くものを自由にしようとしていることになります。 意志存在としての人間は自然と結びついていますが、人間がそこに没頭して行きますと、意識がぼんやりしてしまいます。なぜなら、意志存在としての人間を自然と結びつけるものとは、まだ萌芽的だからです。 そのとき人間は、自然存在ではあるでしょうが、決して自由な存在ではありません。
03-14
…悟性による死せるものの把握と、意志による生命を持ち成長しゆくものの把握…この二つの要素を超えた何かを、他のいかなる地上存在も持ち得ない何かを、人間は誕生から死まで持ち続けます。 それが純粋思考です。これは、外界の自然と関連する思考ではありません。そうではなく、人間自身の内にあり、人間を自律存在とし、生死を超えた超感覚的なものに関連する思考です。 それゆえ、人間の自由を論ずるなら、人間内の自律的な要素、すなわち感覚的なものから解き放され、さらにはその中に意志もが活動している純粋思考を見なくてはなりません。
(純粋思考についての簡単な説明へのリンク)

■自然に対する人間の意味(15~21)

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▲進化に対する人間の意味(15~17)


03-15
もしこの視点から自然そのものを観察しますと、こんな風に言えるでしょう。 自然を眺めると、死の流れが私の内にあり、新生の流れもまた私の内にある。 死、そして再生が、と。 最近の学問は自然をいわば単一的なものとして捉え、生と死をきちんと分けていませんから、上述の関連をほとんど理解できません。その結果、今日の学問が自然について語る内容は混沌としています。死と生成を常に混同しているからです。 自然界のこの二つの流れをきちんと分けるとするなら、「もし人間が自然界に存在しなかったなら、自然はいったいどうなるか」、と問わなくてはなりません。
03-16
この問いを向けられると、最近の自然科学や自然科学哲学は非常に困惑します。 たとえばれっきとした現代自然科学者に、もし人間が居なかったら、自然やそこに棲む生物はどうなっていただろうか、と質問したと思ってみてください。 こうした唐突な質問に、もちろん初めは幾分驚くかもしれません。 その答えの根拠を自分の学問の中に探し、こう答えるでしょう。 「もしそうなら、地上には鉱物、植物、動物が存在し、人間だけが存在しないだけだろう。そして、地球の成り行きも、カント・ラプラス説が言うガス状態から今日に至る道筋をまったく同じにたどっただろう。ただ、人間だけがこの発展に参加していないだけだ」、と。 …基本的には、これ以外の答えは出て来ないでしょう。 もしかしたらこう付け加えるかもしれません。「もっとも農業では大地を耕し地表を変化させ、また機械を作り、さらに変化をもたらすだろうが、それは自然自身の力で生じる変化に比べたら微々たるものに過ぎない」、と。 つまり、自然科学者は常に、「人間がいなくても鉱物、植物、動物は進化するだろう」、と言います。

▲地球の形成力にとっての人間死体の意味…若さを保たせる働き(17~21)


03-17
しかし、これは正しくありません。 地球進化に人間が含まれないなら、大部分の動物も存在しないはずです。 なぜならば、特に大部分の高等動物は、…イメージとしてお話ししますが…人間が先に進むために踏み台として必要としたがために存在したのです。 かつての人間は現在とはまったく違った生き物で、地球進化のある段階で、自分自身の本質から高等動物的部分を分離排泄しなくてはならなかったのです。さらに進化するために、それらを排出する必要があったのです。 この排出は、何らかの溶液から、そこに溶解した素材が分離し、沈殿する過程に喩えることができます。 これと同じように、人間も、初期の発達段階では動物界と一体でしたが、それが時間と共に、喩えの沈澱物と同じように、動物界を排出してきたのです。 もし人間が地球進化の中で今日の人間にならなければ、諸動物も今日の動物にはならなかったはずです。 地球進化が人間を含まなかったら、動物形態、さらには地球そのものも、今日とは全く違った姿をとったはずです。
03-18
さらに鉱物界と植物界についても考えてみましょう。 この点は、はっきりさせておいた方がよいのですが、もし地球に人間が存在しなかったら、下等動物だけでなく、植物界や鉱物界もとうの昔に硬化し、生成発展できなかったはずです。 ここでも偏った自然観の上に成り立つ現代的世界観を持つ人は、当然ながらこう言うでしょう。 「人間は死に、その肉体は焼かれるか埋められるかして土に帰る。しかし、これは地球進化にとって何の意味もない。 なぜなら人間の死体を受け取ろうが取るまいが、地球の進化は今と何も変わらないだろう」と。 …しかしこのような発言自体が、火葬にしろ土葬にしろ、絶えず人間の死体が地球に帰るプロセスが、実効のあるリアルなものであることに対する無知をさらけ出しているのです。
03-19
パン焼きでは、ほんの少量でも酵母が重要で、生地に酵母を入れなければパンが膨らまないことを農家の女性は都会の女性よりもよく知っています。 地球進化もそれと同様です。 死と共に人間の肉体は霊的・魂的なものから切り離されますが、その死体の持つ諸力が絶えず地球に供給されなければ、地球進化はとっくに終わっていたはずです。 地球進化は絶えず人間死体が持つ諸力を受け取っていて、それが進化を保っているのです。 もしこの諸力がなければ、鉱物はとうに結晶形成力を失い、ばらばらに解消してしまったはずです。しかし、この力のおかげで、鉱物は今日なお結晶形成力を発揮することができるのです。 また植物も、この諸力がなければとうに生長が止まってしまったはずですが、今日なお成長できるのです。 下等動物についても同じです。 人間は身体内の促進剤を、ちょうど酵母のように、さらなる進化のために大地に与えているのです。
03-20
それゆえ、地球上に人間が生きているか否かは、決してどうでもよいことではないのです。 地球上に人間が存在しなくても地球上の鉱物界、植物界、動物界は進化していく、というのは真実ではありません。 自然プロセスとは、そこに人間も含めて統一的、完結的なのです。 人間の死も宇宙的プロセスに含めて考えるとき、初めて人間を正しくイメージしています。
03-21
こう考えますと、私が次のように言っても、驚かれないでしょう。 霊界から物質界へと降りて来ることで人間は物質的肉体という衣を身に纏います。 しかし当然ながら、誕生時に受け取ったこの肉体は、何年後かに死ぬときには違ったものになっています。 その間に、肉体に何かが起きているわけです。 その変化の原因は、肉体に人間の霊的・魂的諸力が浸透したから以外にはありえません。 結局のところ、私たちは動物と似たようなものを食べています。 つまり、動物が及ぼす外界の物質的変化と似たようなことをしています。 しかし人間の場合、その変化に、動物には存在しない何か、霊界から降りてきて人間肉体と一体となった何かが協働しています。 これによって私たち人間は、物質素材から、動物や植物が作りうるものとは違ったものを作り出します。 それゆえ、大地に帰る人間の死体素材は変化した素材であり、誕生時に受けとった素材とは異なっています。 ですから人間は、誕生時に受けとった物質や諸力を、生涯刷新し続け、変容させて地球プロセスに譲り渡す、と言えるでしょう。 死に際して地球プロセスに譲り渡す素材や諸力は、誕生時に受け取ったそれではありません。 人間はこのようにして、絶えず超感覚的世界から物質的地上世界に流れ込んでくるものを、地上の進化プロセスに受け渡すのです。 人間は、地上生において、誕生に際し超感覚的世界から持ってきた何かを物質的素材や諸力と統合し、死に際してそれを大地に譲り渡します。 こうして人間は、超感覚的世界から物質的感覚的世界への滴を絶えず仲介しているのです。 こう考えることができるでしょう。「超感覚的世界から感覚世界へは、絶えず滴が降り注いでいるが、もし人間がこれを受け取らず、自分を介して大地に伝えなかったら、この何かは、大地に実りをもたらすことはできない」、と。 人間が誕生と共に受け取り、死に際して大地に譲り渡すこの滴は、絶えず大地に実りをもたらし続ける超感覚的諸力であり、これによって地球の進化プロセスが保たれるのです。 もし人間の死体が無かったら、地球はとうに死滅しているはずです。


■自然から人間へ、人間から自然への力の働きかけ(22~29)

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▲死の力による骨と神経の形成(22~23)


03-22
さらに話を進めるなら、こう問うことができます。「それでは、死の諸力は人間の本性にどう働きかけるだろうか?」と。 もし人間が絶えず命を与えていなければ、外的自然界は死滅してしまうはずですから、死をもたらす諸力は外なる自然界を支配していますし、それは実際に人間本性の内部にまで入り込んできます。 それではこの死をもたらす力は人間本性内でどのように働くのでしょうか。 この死をもたらす力は、人間本性内で、骨格や神経系器官を作り出す働きをします。 骨格やその類を形成するものは、それ以外の組織系を形成するものとは全く違った性質を持っています。 死をもたらす諸力が私たちの内に入り込み、活動します。それをあるがままに受け入れると、私たちの骨格になるのです。 この死をもたらす諸力が入り込んで、私たちがそれを弱めると、神経系になります。 …神経とは何でしょうか? 神経とは、絶えず骨格を志向しつつも、人間内の非骨格的・非神経的要素の作用によって骨化が妨げられたものなのです。 神経は絶えず骨化しようとし、骨格と同様絶えず死へ向かっていますが、骨格の方が死んでいる程度が高いのです。 動物では骨格の事情も違い、それは人間の骨格よりずっと生き生きしています。 …「死をもたらす流れが、骨格・神経組織で作用している」と考えることで、人間本性の一方の面をイメージできます。 これが一方の極です。
03-23
もう一方の流れである絶えず生命を与える力は、筋肉・血液組織系のすべての器官に作用しています。 神経が骨格にまでなってしまわないのは、それが血液・筋肉組織と関係していて、血液・筋肉内で作用する諸力が骨化への衝動を抑えているからです。 血液・筋肉組織が骨化に対抗し、骨化を防いでいるので神経は骨化しないのです。 一方に骨格系、もう一方に血液・筋肉系がありますが、成長においてこれらの関係が不適切で骨格の正常な死滅化が血液・筋肉系によって妨げられますと、クル病になります。 ですから、人間内で筋肉・血液系と骨格・神経系の相互作用が適切であることは非常に重要です。 眼における骨格・神経系を見ますと、まず骨格がそれを覆っていますし、後退し弱められた骨格系である神経系が入りこんでいます。ですからそこでは、筋肉・血液系内に生きる意志的本性と、骨格・神経系内にある表象的活動とがつながる可能性が生れます。 ここでまた、昔の学問では重要であったものの、現代学問では稚拙と笑い飛ばされてしまう事柄が出てきます。 それでも最近の学問にはそこへの回帰も見られますが、形は違っています。

▲骨格系と幾何学(24~25)


03-24
昔は、神経髄と骨髄、つまり神経素材と骨素材との類縁関係が感じ取られていました。それゆえ、神経を骨と同じように考えていました。 これは真実でもあるのです。 私たちが抽象的学問を手にしうるのも、すべて骨格組織の能力のおかげです。 たとえば、なぜ人間は幾何学を構築できるのでしょうか? 高等動物には幾何学はありません。その生き方を見ればわかります。 「高等動物にも幾何学はあるが、人間がそれに気づかないだけだ」という意見もありますが、それはでたらめです。 …さて、人間は幾何学を構築します。 しかし、人間はたとえば三角形をイメージする際に何を助けにしているのでしょうか? 人間は三角形をイメージする、という事実をしっかり考えますと、そこにある素晴らしい何かに気づくはずです。 つまり、実生活のどこにも存在しない抽象的な三角形を、純粋に自らの幾何学的・数学的ファンタジーから作りあげているのです。 宇宙において表面に現れる出来事の基盤には、知られていないものがたくさんあります。 たとえば、皆さんがこの部屋のどこかに立っていると考えてください。 皆さんの超感覚的人間はある時、奇妙な動きをしますが、通常、それには気づきません。それはおよそ次のようです。横に少し動き、次に少し後ろにさがり、最後に元の位置に戻ります。 皆さんは実際、無意識に三角形の線を空間に描いているのです。 こうした運動は実在しますが、皆さんはそれを知覚しません。 ただ、背骨が垂直に立っているおかげでこの運動が行われる平面に居られるのです。


動物では脊髄の方向が違うので、この平面内には居ません。それゆえこの運動はできません。 人間の脊髄は真直に立っているので、こうした運動を行いうる平面内に居られるのです。 ただ、「私は絶えず三角形を踊っている」、と言えるほどには意識化されていません。 …しかし人間は三角形を描き、「これは三角形だ」と言うのです。 …これはコスモス内で人間が無意識に行った運動である、というのが真相です。
03-25
幾何学的図形を描いているときに皆さんは、こうした運動を固定していますが、この運動は地球と共に行っているのです。 地球は、コペルニクス的に動くだけではありません。全く違う、芸術的な運動も絶えず行っています。 より複雑な運動、たとえば、立方体、八面体、十二面体、二十面体等々の立体の線に沿った運動なども行われているのです。 これらの立体は発明されたものではありません。現実そのものですが、ただし意識されないのです。 これらを含むさまざまな立体には、人間に意識されない智の面影が不思議なかたちで存在しています。 皆さんがそうした智を取ってこられるのは、本質的な認識が骨格系に宿っているからなのです。ただ意識を保ったまま骨格系に降りていくことができないのです。 幾何学的認識についての意識は死滅してしまい、幾何学的像として映し出されるだけなのです。人間は幾何学を像として展開しているのです。 人間は実にしっかりとコスモスに組み込まれています。 そして、幾何学を構築することによって、自分自身がコスモスで行っていることを写し取るのです。

▲人間を通して生の力が自然界に流れ込んでいく(26~28)


03-26
このように私たちは、一方で私たちをも包括する、絶えず死んでいく世界をのぞき込んでいます。 もう一方では、血液・筋肉系の諸力に入り込んでくるものを見ています。これは絶えず運動し、絶えず激動し、絶えず生成、発生するものであり、完全に萌芽状態で死とは無縁です。 私たちは死のプロセスを抑止します。そして、私たち人間だけがそれを抑止することができ、死の中に生成を持ち込むのです。 もし人間が地上に存在しなかったら、とうに死が地球プロセスに広がり、地球は全体としてものすごい結晶化へと向かったはずでしょう。 しかし、それぞれの結晶は、その姿を止めておくことはできなかったでしょう。 人間進化に必要であるがために、私たちはものすごい結晶化から、個々の結晶を切り離すのです。 しかし、それによって私たちは地球の生命をも活発に保つのです。 つまり私たち人間が地球の生命を活発に保つのであり、地球の営みから人間を取り除くことはできないのです。 悲観論者であるエドゥアルト・フォン・ハルトマンは、いつかは人間全員が自殺するくらいに人類が成熟することを望みましたが、これを本気で考えていました。 ハルトマンは狭い自然科学的世界観を持っていましたから、人間すべてが自殺するだけでは充分とせず、地球自体も大規模な装置で木っ端微塵にすることを望んだのですが、本来、それを付け加える必要はありませんでした。 彼はそこまでする必要はなかったのです。 彼は人類すべての自決の日を決めるだけでよく、そうすれば地球は自ずから徐々に宙に解消したはずなのです。 なぜなら、人間が地球に植え付けるものがなくなれば、地球進化は止まるからです。 この認識から出発して、私たちはこれを感情でも突き詰めなくてはいけません。 現代ではこうしたことがまず理解される必要があります。
03-27
皆さんが覚えていらっしゃるかはわかりませんが、私は最初期の著作で、常にある考えに立ち戻りました。それは、その考えを元に、現在の認識基盤とはまったく違う基盤から認識そのものを構築しようとしたからです。 米英的思考法から来ている外的哲学では、人間は単なる世界の傍観者にすぎません。内面で魂的プロセスを営みつつも、世界の傍観者に過ぎないのです。 人間が存在しなくとも、あるいは外界の出来事を魂内で再体験することがなくても、すべては何の変わりもなくそのままであり続ける、と言うのです。 先ほど述べたように、これは事柄に対する自然科学的な考え方ですが、哲学も同様に考えます。 今日の哲学では、自分が世界の傍観者であることを心地よく感じていますし、つまりそれは認識の死へと向かう要素の中に居るに過ぎません。 私は認識を、この死へと向かう要素から救い出したかったのです。 それゆえ私は、「人間は世界の単なる傍観者ではなく、世界の舞台であり、その上では偉大なる宇宙的な出来事が絶えず演じられている」、と繰り返し言ったのです。 「魂の営みを持つ人間とは、そこで宇宙的出来事が行われる舞台なのだ」と繰り返しました。 このように哲学的・抽象的に表現できるでしょう。 拙著『真理と学問』の最終章では自由について述べていますが、とりわけその部分をお読みになれば、この考えが強調されていることがおわかりになるでしょう。「人間の中で行われることとは、人間以外の自然で行われるものと同じではない。そうではなく、まず自然は人間の中にせり上がり入りこんで来るし、人間内で行われることとは、同時に宇宙的な過程であり、人間の魂とはそこで宇宙的な過程が行われる舞台であり、単に人間のものではない。」と。 当然ながら今日では、一部の人たちはこうした考えをなかなか理解できないでしょう。 しかし、こうした見方を染みこませていなければ、真の教育者になることはできません。
03-28
人間の構成要素では事実として何が起こるのでしょうか? 一方には骨格・神経的本性があり、もう一方には血液・筋肉的本性があります。 この両者の共同作用によって、絶えず素材と諸力が新しく生み出されます。 素材や諸力が人間の中で新たに創造されることで、地球は死滅から守られています。 今私は、血液が神経と接触することで素材と諸力が新たに創造される、と言いました。また以前の講演では、血液は絶えず霊化の過程にあり、それが止められている、とも言いました。ここで、その二つをまとめることができるはずです。 この二回の講演で得られた考えを結びつけ、そこにさらに積み上げていきます。 一般に言われるエネルギーや物質の保存法則が誤りであることは、すでにご理解いただけたと思います。 なぜなら、人間本性内で起きていることがそれを否定していますし、それは人間本性を真に捉える障害にしかなりません。 無からは何も生じ得ませんが、何かが消えることで何かが生じる、という変容可能性を含めた総合的な考え方を取り、エネルギーや物質の保存法則を捨てるなら、学問の発展にふさわしい条件が得られるのです。

▲結末(29)


03-29
私たちの思考において、何が間違った方向に行ってしまっているかが、お分かりでしょう。 たとえばエネルギーと物質の保存法則といったものを打ち立て、これを宇宙法則と宣言しています。 この根底には、表象、というよりは魂の営みそのものが持つある種の性癖があります。 本来でしたら、表象内で作り上げたものを元に、前提となるものを確立するのが望ましいにもかかわらずです。 たとえば物理学の教科書には物体の相互不可入性の法則が公理として定立されています。 「空間内において、ある物体が占有する場に同時に他の物体が存在することはできない」と。 …これが物体の一般的性質として設定されているのです。 しかし本来はこう言う方が望ましいでしょう。 「空間でそれが占有する場に、同時に、同じ性質を持つものが存在しえない物体ないし存在は、相互不可入性を有する」と。 …ある特定の領域を他の領域と区別するためだけに概念を用いる方がよいでしょうし、定義付けは避け、単に前提となる事柄だけを置くだけにする方がよいでしょう。定義は、普遍的なものとして安易に適応範囲を拡張させてしまいがちです。 ですから、エネルギーと物質の保存則といった法則を立てるのは望ましくなく、どのような存在に対してこの法則が意味を持つのかを探求するのがよいのです。 一つの法則を打ち立て、「これはすべてに妥当する」と言うのがまさに十九世紀的な努力でした。…本来なら、物に近づくために、そこでの私たちの体験を観察するために、私たちの魂の活動を用いるべきなのです。

『一般人間学』、第04講、シュツットガルト、1919年8月25日


目次

参考リンク

■未来の教育と意志についての認識(01~03)

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▲未来の教育と意志についての認識(01~03)


04-01
未来の教育においては、意志や感情の育成が重要です。このことは教育関係者なら教育改革など考えもしない人でも唱えてはいますが、たとえそれが善意から発するものではあっても、意志の本性を見抜けていないために、ほとんど何もできてはおらず、当然、行き当たりばったりです。
04-02
まず初めに、「意志の本質を理解すれば、感情の一部も認識できる」と申し上げておきます。そうして初めて「感情とは何か」を問うことができます。感情は意志と類縁で、意志とは実践された感情であり、感情は遂行されない意志なのです。感情とは、意志が現実化せず心に留まっているものであり、意志が弱められたものなのです。ですから、意志の本質を捉えれば、感情の本質も理解できます。
04-03
誕生から死までの今生では、意志としての営みがすべて形に成り切っているわけではないことは、これまでの考察でご理解いただけたと思います。 意志決定し、それを実行しても、誕生から死まででは実現しきれない何かが残ります。 人間内で生き続ける何かが残り、一つ一つの意志決定から、そして一つ一つの意志行為から死後も続く何かが残るのです。 この残りをきちんと考えに入れなくてはいけません。それはもちろん全生涯にとって重要ですが、とりわけ子どもで重要です。

■体、魂、霊という人間構成要素の全体(04~08)

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▲全体展望(04)


04-04
ご承知の通り、人間全体を見ようとするなら、体魂霊の三つの要素を考慮しなくてはなりません。まず肉体が、最も密なる構成体として生まれます。より詳しくは『神智学』をご覧になってください。身体は遺伝的であり、遺伝的な特徴を受け継ぎます。また魂的なものは、誕生前の営みから離れ、体的なものと結びついています。肉体の中に降りて来るのです。ところが、霊的なものは、まだその素地しか人間に降りてきていません。遠い未来の人間では事情は変わりますが、現代人の場合は素地だけです。よき教育の基盤を作るには、現代人ではまだ素地しかないこの霊的なものに注目する必要があります。そこで、遠い未来の人間にまで続いていく素地となるもののすべてを紹介したいと思います。

▲霊的構成要素(05~07)


04-05
現在の人間ではまだ素地しかありませんが、まず霊我(Geistselbst)というものがあります。 霊我は、現代人では構成要素部分であるとは言い切れないのですが、見霊者はこの霊我を明確に意識しています。 ご承知のように、東洋人の中でも特に意識が発達した人たちは、この霊我を「マナス」と呼び人間に当然備わっているものと考えていました。 逆にヨーロッパの場合は無学な人々が、脈々と霊我を意識していました。 私は、根拠なしにこう言っているのではありません。 少なくとも物質主義の影響を受ける前は、人間の死後に残るものを「マーネン」と呼んでいたのは、民衆が霊我を意識していた証拠です。 私は今、意識していた証拠と申し上げましたが、それは民衆が「マナス」という単数形ではなく、「マーネン」という複数形を用いていた点です。 生前の霊我を問題にする場合、私たちは《霊我》という単数形を用います。 しかし民衆は、素朴な認識に基づく事実からこの霊我を複数形で呼びます。 といいますのは、人間は、死んだ瞬間には複数体の霊的存在に受け入れられるからです。 私はこのことをすでに別な文脈でお話しました。 アンゲロイ(天使たち)の位階に属する霊は私たち個人を導き、その上の位階のアルヒアンゲロイ(大天使たち)は人間のグループを導きます。 そして、この大天使たちは人間が死にますと即座にかかわってきます。その結果、アルヒアンゲロイたちという複数的なものとかかわりますので、人間はある意味で複数形的存在になるのです。 地上では人間が個別存在になっていますが、死後はそれとは異なり幾分複数形的になることを民衆ははっきりと感じ取っていました。 つまり、マーネンとは霊我やマナスが複数形となったときのものなのです。
04-06
さらに高次の人間の構成要素には《生命霊》と呼ばれるものがあります。 これは現代人には極わずかしか認められません。 非常に霊的で、人類の遠い未来に発達してくる何かです。 さらに最上位には、現代人ではその素地しか認められない《霊人》があります。
04-07
さてこれら三つの高次部分については、現在生きている人間ではその素地しかありません。 それでも、これらの素地は、死後、次の受肉までの間に高次の霊的存在に守られて重要な発達を遂げます。 死後の霊界の営みにおいて、これら三つの部分は将来の人間を予見するかたちで、はっきりと発達します。 今生の地上生で人間が霊的・魂的に発達するのと同様に、死後もしっかりと発達するのです。ただ死後は、人間は高次存在たちの臍の緒にぶら下がって発達するのです。

▲魂的&体的構成要素(08)


04-08
これまでは、現在においてはまだほとんど見えない三部分について述べましたが、次に現在すでに見られるものを問題にしましょう。 つまり意識魂、悟性魂あるいは情緒魂、感受魂の三つです。 これは人間の本来の魂部分です。 今日、人間の身体内で活動している魂と言ったら、この三部分が問題になります。 そして人間の身体部分では、最も繊細である感受体(アストラル体)、エーテル体、肉体の三つが問題になります。このうち肉体が最も密で、外的学問の研究対象でもあります。 以上が人間構成体全体です。

■体的諸構成要素と意志(09~12)

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▲肉体と本能(09)


04-09
当たり前のことですが、動物にも人間の肉体に相当するものがあります。 九つの構成体からなる人間と動物界を比較し、この両者の関係について感覚的なイメージや意志の本質を理解する上で有効な考えを得るには、次のことを知っている必要があります。 つまり、動物も人間と同様に魂を内に宿す肉体を持ってはいるものの、動物の肉体は多くの意味で人間のそれとは異なっている、という点です。 人間の肉体は動物と比べると決してより完全であるわけではありません。 たとえば、住み家をつくるビーバーといった高等動物の肉体を考えてみてください。 人間は建築学やさまざまなことを学び取らなくては、ビーバーがするようには家を作れません。 ビーバーは肉体という有機体から家を作ります。 それは単純に、ビーバーの肉体形姿がそれに向けて作られているからです。ビーバーは、その肉体形姿の内に息づいているものを家造りに応用できるように、外界とつながっているのです。 ビーバーの肉体そのものがビーバーの師匠なのです。 スズメバチやミツバチなどの下等動物を観察しますと、その肉体形姿には、人間とは比べようもないくらいしっかりと組み込まれた何かが見られます。 こうしたものすべてを、私たちは本能という概念で包括しています。 ですから、本能を研究するには、肉体形姿との関係を観察しなくてはなりません。 外界に見られる一連の動物形姿を観察研究すれば、動物の肉体形姿の中に、さまざまな種類の本能を研究するためのきっかけが見つかるでしょう。 意志についての研究の第一歩は、まず本能の研究ですし、そのためには、動物の肉体形姿に本能を見出すことができる、という点を念頭に置かなくてはなりません。 個々の動物の頭部形姿を観てそれを描きますと、それは本能の種々の領域を描き出したものになりえます。 意志の第一段階である本能は、像というかたちでさまざまな動物の身体形姿に現れています。 この視点から見れば、世界の意味的内容に入り込むことができます。 私たちはさまざまな動物の身体形姿を見渡し、その中に徴を見ます。 そうした徴は、自然自身が本能を元に作り上げていますが、さらにその本能を通して自然はその動物に息づいているものを実現しようとしています。

▲エーテル体と衝動(10)


04-10
さて、肉体にはエーテル体が宿り、それが肉体の細部までを形成しています。 このエーテル体は超感覚的なもので肉眼では見えません。 意志の本性という観点で見ますと、エーテル体は、肉体に浸透しているだけでなく、肉体に現れた本能にも浸透しています。 こうして本能は衝動に移行します。 肉体において意志は本能として現れました。しかし、エーテル体が本能に力を与えますと、意志は衝動になります。 そして、本能を観ますと、それは外的形姿として具体的に捉えることができましたが、それが衝動として観られるようになるにつれ、外的だったものが内面化され、より一体化されていく様子が興味深く観察できます。 動物のものであれ、それが弱められたかたちで現れる人間のものであれ、本能とは外からやってくる存在であると言えます。 それに対して衝動とは、より内面化された形で現れ、より内側からやって来るものです。なぜなら超感覚的なエーテル体が本能を力づけ、それによって本能が衝動になるからです。

▲感受体と欲望(11)


04-11
さて、人間には感受体もあります。 これはさらに内的です。 この感受体がさらに衝動に働きかけますと、単に内面化されるだけでなく、本能や衝動が意識に引き上げられ、欲望となります。 動物には肉体、エーテル体、感受体という三つの構成体がありますから、衝動だけでなく欲望も持っています。 そして、欲望とは非常に内面的であると誰しもが認めざるをえないでしょう。 衝動とは、こう申し上げたいのですが、誕生から晩年まで一つにつながっています。それに対し欲望とは、魂によって一回一回強められるものです。 一つの欲望とは、何らかの性格的なものでもなく、魂に固着したものでもなく、現れては消えるものなのです。 このように欲望は、衝動よりも魂に近いことがわかります。
「本能:肉体、衝動:エーテル体、欲望:アストラル体」の関係についての具体的な説明

▲魂的構成要素と意志-動機(12)


04-12
さて、人間が…動物には現れ得ないもの…自我の中に、つまり感受魂、悟性魂あるいは情緒魂、意識魂の中に、体的なものの中に生きる本能、衝動、欲望を取り込みますと、そこからは何が作られるでしょうか。 魂では諸部分が互いに混ざり合っていますので、意志も体における場合ほど細かくは区別しません。 魂の各部を厳密に分けて考えるべきか、それともより一体のものとして考えるべきか、それが分からないのが現代心理学の担う課題です。 古い心理学風に表象、感情、意志を厳密に区別する派やそうでない派もいます。その中でもヘルバルト派は表象に、ヴント派は意志に偏っています。 魂的要素の正しい区分が分かっていないのです。 その理由は、実生活では自我は魂の働きすべてに浸透していますし、現代人では魂の三要素が事実上明確には現れないからです。 魂内の意志的なもの…本能、衝動、欲望…、それが自我によって取り込まれた場合を指す言葉が、言語にも存在しないのです。 しかし一般的な言い方をすれば、本能、衝動、欲望が自我によって捉えられたときには、それを動機と呼びます。これで意志衝動が魂的なものの中、つまり《自我的なもの》の中に入ったときのものを動機という言葉で言語化でき、動物には欲望はあるものの、動機はないと言えるのです。 人間では、欲望を魂的領域に取り込み、それによって内的に動機をしっかり捉えようとする強力な推進力が働き、こうして初めて欲望が高次なものになるのです。 人間においてはじめて、欲望は本来の意味での意志的動機になるのです。 そして、人間には動物と同じく本能、衝動、欲望が息づいているにしろ、人間はそれを動機にまで高めています。これが、現代人が持つ意志についての正しい言い方です。 これは明らかに存在しています。 そして、誰かが人間を意志的本性の側面から観察しましたら、こう言うはずです。「その人間が持つ動機を知れば、その人間がわかる」と。 しかし、完全にわかるわけではありません! 人間の中に動機が展開するとき、その水面下では何かが微かに響いていますし、これに最大限の注意を払わなくてはなりません。

■第二の人間としての内なる霊的構成要素、ならびに意志(13~18)

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▲霊我と願望(13)


04-13
ここで私が意志衝動という言葉で示しているものと、表象的なものとをきちんと区別して考えていただくようにお願いいたします。 私が言うのは、意志衝動における表象的な部分ではありません。 たとえば、「私が望んだこと、あるいは為したことはよかった」と表象することができます。 私が言うのはそれではありません。 そうではなく、まさに意志的なものとして、ずっと微かに響くものを言っているのです。 動機を持つとき、その意志に働きかけるものが最低もう一つあり、それが願望です。 そこから欲望が生まれてくるような強い願望のことではありません。あらゆる動機に寄り添う微かに響く願望のことを言っているのです。 これは常に存在しています。 そうした願望を最も容易に知るのは次のようなときです。つまり、動機となって現れた何らかの意志を実行し、その後で振り返って、「今やったことは、本来もっとうまくできたはずだ」と言うときです。 …ところで、人生において「もっとうまくやれたはずだ」と思わない事柄などあるでしょうか? もし私たちが完全に満足するとしたら、それは悲しむべきことです。「これ以上うまくはできない」などということはありえないからです。 これが文化的に高い人と低い人の差です。低い人はいつでも自分に満足したがっています。 文化的に高い人は決して自分自身に満足しません。なぜなら、よりよくやりたい、それどころか違った風にやりたいという微かな願望が動機の中に響いているからです。 この辺りには、堕落の可能性が多くあります。 行為を後悔することを何かとても偉大だと誤解しているのです。 しかし、後悔から何かを始めるのは決して最上ではありません。 なぜなら、後悔の根底には、より善人になるにはもっとよくやっておけばよかった、という単純なエゴイズムがあるからです。 これは利己的です。 過ぎ去った行為をよりよくやっておけばよかったと思うのではなく、次の機会にはよりよくやろう、という方に重点を置くなら、利己的ではなくなります。 「次の機会にはよりよくやろう」という先に向けての意図こそが、最も高みにあるものであって、後悔は決してそれには値しません。 そして、この意図に向けて願望は響き上がって行き、さらにこう問うこともできましょう。「願望として、そこに共に響いているのは何なのだろうか?」と。 …魂を真に観察できる者には、これが死後も残る第一の要素であることがわかります。 それが、「もっとよくやれたはずだ」とか「よりよくやりたいと願っていたはずだ」と感じていたものの残りなのです。 …この残りは霊我に属します。つまり、私が述べてきた形での願望です。

▲生命霊、意図と内なる第二の人間(14)


04-14
願望はさらに具体的で明確な形を取り得ます。 すると願望は、先に向けての意図と似てきます。 そうなりますと、もう一度同じことをするなら、それをよりよく行うにはどうしたらよいか、と考えるでしょう。 しかし、そこでの表象に私は重きを置きません。 そうではなく、次にはもっとよく行おう、という動機の一つ一つに伴う感情的、意志的なものが重要なのです。 このとき、私たちの中ではいわゆる潜在意識が強く働いています。 もし自らの意志で何か行為しようとする場合、通常の意識では、「次に似た機会があるなら、どうしたらそれをよりうまく行えるか」を事前に考えていることはありません。 しかし、皆さんの内に居るもう一人の自分、つまり第二の人間は、…表象的にではなく意志的にですが…もし似たような状況ではどのように行うかという明確なイメージをもっています。 この認識の意味を過小評価しないでください。 皆さんの内に居る《もう一人の人間》を過小評価してはいけません。

▲ドッペルゲンガー。アントロポゾフィーと分析心理学(15~16)


04-15
このもう一人の人間について、例の精神分析学は無意味なことばかりを言っています。 精神分析では普通、次のような教科書的な例を挙げます。 この例は適切なので、ここでも繰り返します。 それは次の通りです。 :ある男が自宅で夜会を開き、その妻は夜会後に湯治にでかける予定である。 夜会には多くの客が集まるが、その中に女性が一人いた。 夜会が終わり、女主人は温泉旅行のために車の方に誘導される。 客は先の女性も含め皆、帰路につく。 一行が交差点に差し掛かると、ぎりぎりまで見えなかった辻馬車が突然曲がって来て、一同は驚く。 夜会の客たちはどうしただろうか。 当然ながら辻馬車をよけるために左右に逃げたが、例の女性だけは違った。 道の真ん中を、馬の前を全力で走った。 御者も馬を止めることを忘れ、夜会の客も呆然としている。 しかし、女の足は速く、馬も追いつけず、やがて橋にさしかかる。 これを避けようなどとも思わない。 彼女は水に落ちるが、幸い助けられ、夜会の家に運び戻される。 そして、そこに泊まることになる。 … ご承知のとおり、この話は例として多くの精神分析の本に載っています。 しかし、どの解釈も間違っています。 本来は次のように問う必要があるのです。 何がこの成り行きの根底にあるのだろうか? この根底には、この女性の意志があるのです。 それでは、この女性は何を望んでいたのでしょうか? この女性は家の主人に好意を持っていて、奥さんが湯治に出かけた留守にこの家に戻って来たかったのです。 しかし、この意志は意識されたものではなく、完全に潜在意識の中にありました。 そして内なる第二の人間、つまり潜在意識はしばしば第一の人間よりずっと賢いのです。 この例では、彼女の潜在意識がこの一部始終、つまり主人の家に戻るために水に落ちるところまでをあらかじめ計画したのです。 さらには、予言的に助けられるところまで先に見ています。 …精神分析では隠された心の力を解明しようとしているのですが、一般論として第二の人間の存在を言っているだけです。 しかし、私たちの魂には意識されない諸力があり、またそれは、通常の魂状態をはるかに超えた、非常に洗練された形で現れるのです。
04-16
どの人間の中にも、言わば地下に別な人間がいます。 この別な人間にはよりよい人間も生きていて、何らかの行為の際に、「次に同じような機会があったら、もっとよくやろう」と先取りするのです。つまり、「似た状況があったら、次にはもっとよくやろう」という無意識な先に向けての意図が絶えず微かに響いているのです。

▲霊人と決意(17)


04-17
そして、魂が身体から解き放されますと、この先に向けての意図は決意になります。 先に向けての意図は魂内で完全に種子のように存在していて、その後に決意が続きます。 先に向けての意図が生命霊に、願望が霊我に宿るのに対し、決意は霊人に宿っています。 このように意志存在としての人間を捉えれば、そこにはすべての構成要素があります。 つまり、本能、衝動、欲望、動機があり、さらには霊我、生命霊、霊人と関係する願望、先へ向けての意図、決意が微かに響いています。

▲死後における意志の発達(18)


04-18
これは人間の成長発達にとって重要な意味を持っています。 微かな営みとして死後のために守られているものが、地上生を生きる人間では像として生きているのです。 ここで人はそれを同じ語で表します。 私たちは、願望、先へ向けての意図、決意を表象的にも体験します。 しかし、こうした事柄が正しく育てられたときにのみ、私たちはこの願望、先へ向けての意図、決意を、人間的にふさわしいやり方で体験するのです。 願望、先へ向けての意図、決意、として人間の深みにあるものは、地上生を生きる人間では表面に出ることはありません。 表象の営みにおいてこれらの像が現れるのです。 通常の意識を育てても、願望とは何なのかを知ることはありません。 願望についての表象が得られるだけです。 それゆえヘルバルトは、願望表象の中にすでに努力を促す何かがあると思い込んだのです。 先に向かっての意図についてもまったく同じで、それについて得られるのは表象だけです。 魂の下方でリアルに生起することを、あれこれやってみたいと思うわけですが、その根底にあるものはわからないのです。 決意にいたってはなおさらです。 これについて少しでも分かっている人はいるのでしょうか? 一般心理学では意志一般について語るだけです。 …さらに教育者は、魂の三つの力すべてをコントロールし、秩序づけるように働きかけなくてはなりません。 教育に携わろうとするなら、人間本性の奥深くで行われていることを相手に仕事をしなくてはならないのです。
  • 霊人:決意
  • 生命霊:意図
  • 霊我:願望
  • 意識魂
  • 悟性魂:動機
  • 感覚魂
  • 感受体:欲望
  • エーテル体:衝動
  • 肉体:本能

■意志の教育(19~27)

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▲反文化的なマルクス主義(19~23)


04-19
表に見える人間の振る舞いを相手に授業を行うだけでは十分ではなく、内的な人間を捉えて授業を組み立てなくてはなりません。 これを意識していることは教育者にとって、非常に重要です。
04-20
現在、世界に広まっている社会主義では、授業を表に見える人間の振る舞いに合わせてしまうという誤りを犯しがちです。 あちこちで見かけるマルクス主義の理想に沿った学校が、どのようなものかを想像してみてください。 ロシアではすでにそうなっています。そして、ルナチャルスキー学校改革ではひどいことになっています。 これは文化の死です。 ボルシェヴィズムからは多くの恐ろしいものが生じていますが、教育はその最たるものです。 過去からの文化遺産を根絶してしまうだろうからです。 第一世代ではそこまでは行かないでしょうが、数世代の後には確実にそうなってしまい、その地の文化が地上から消滅してしまうでしょう。 本来なら、何人かはそれを見抜いていなくてはならなかったのです。 考えてみてください。 私たちは、穏健な社会主義からのド素人的要求の元に生きています。 そうした要求には、月並みなやり方で社会主義を実現しようという響きがあります。 また、玉石混淆状態です。 ここに出席されている人の中にも、ボルシェヴィズムの賛歌を歌い上げているのをお聞きになった人がいらっしゃるでしょう。ところが、それによって、社会主義の中に悪魔的なものを持ち込んでいることにはまったく気づいていないのです。
04-21
ここは特に注意すべきポイントです。 社会的な進歩を促すのは、より深い人間理解からの教育であること、それがわかっている人間がいなくてはならないのです。 さらに、未来の教育者は最奥の人間本性と取り組み、最奥の人間本性と共に生き、大人社会で見られる表面的な人間関係を授業に適用してはいけない、ということも知っていなくてはなりません。 ありきたりのマルクス主義者の望みは何でしょうか。 学校を社会主義的に組織し、学校長を撤廃し、できるだけ子どもの自学自習に任せようと望んでいます。 これは悲惨な結末を招きます。
04-22
私たちは田舎の寄宿学校を訪ねたことがあり、そこで一番品格のある授業を見たいと思いました。 宗教の時間です。 教室に入りました。 男子の一人は窓枠に座って脚を外に投げ出し、もう一人は床に寝そべり、他の子は腹ばいになり頭だけをもたげていました。 そんな感じで教室のあちこちに生徒たちが散らばっていました。 そこへいわゆる宗教教師が入ってきて、何の前触れもなくゴットフリート・ケラーの小説を朗読し始めました。 朗読には生徒たちがさまざまな野次を飛ばしていました。 それを読み終わると宗教の授業は終わり、生徒たちは外に出ていきました。 この経験から私の中に一つのイメージが湧きました。 この寄宿学校の隣には大きな牛舎があり、そこから数歩のところで生徒たちが生活しているのです。 … 確かにこうしたことも厳しく非難されるべきことではありません。 そこには多くの善き意志があります。しかし、文化の未来に何が生じるべきかを完全に見誤ってしまっているのです。

▲繰り返しの行為による意志の育成(23~27)


04-23
社会主義プログラムが目指すものは一体何なのでしょうか。 子どもたち同士を大人社会と同じ仕方でかかわらせようとしているのです。 しかし、これは教育における最悪の誤りです。 大人は大人なりの関係の中で成長していきますが、子どもは大人とは異なる魂的、身体的な力を育てなくてはなりません。 それをわきまえていなくてはなりません。 つまり、魂の奥底にあるものに向けて教育を行わなくてはなりません。 そうでないと前進は望めないのです。 そこで次のように問う必要があります。 授業や教育の中で、何が、人間の意志本性に働きかけるのでしょうか。 …一度はこの問いに真摯に向かい合わなくてはなりません。
04-24
あらゆる知的なものは老化した意志である、という昨日のお話を思い出してください。 つまり通常行われている、知的理解を求めること、訓告を垂れること、教育の中での概念化されたものなどすべては、ここで教育の対象となっている年齢の子どもでは全く効き目がありません。 ここでもう一度まとめてみましょう。 感情とはまだ意志になりきっていない意志です。 そして、意志の中では人間全体が活動していますから、子どもにおいても、意識化されていない決意を考慮しなくてはいけません。 子どもの意志に影響を与えるいい考えがある、などと思わないようにしてください。 ここで、子どもの感情によい影響を与えるにはどうしたらよいか、を問題にしなくてはなりません。 それを行うには、繰り返し何かを行わせるようにする以外にはありません。 皆さんが子どもに正しいことを一回限り言っても、意志発動に正しい影響を与えることはないのです。 子どもへの警告や規則付けは正しいやり方ではなく、今日も明日も明後日も子どもに何かをさせることによって意志が育つのです。 子どもの中に正しさへの感情を目覚めさせると思う事柄を繰り返しやらせるのです。 そうした行為を習慣にまで高める必要があります。 それが無意識の習慣にとどまるなら、無意識であるほど感情の発達を促します。 また意識的な繰り返し、それが行われるべき、行われなくてはならない、という理由から行為と一体となって意識的に繰り返しますと、子どもの意志発動が実際に高められます。 つまり、無意識な繰り返しは感情を育て、完全に意識された繰り返しは本来の意味での意志の発動を育てます。 なぜなら、普通は意識下に留まっている子どもの決意の力が、意識的な繰り返しによって鼓舞され、これによって決意の力が高まるのです。 知的な活動において重要なことであっても、それが意志の育成と関係すると思ってはいけません。 知的な営みにおいては、与えた教材を子どもが理解すればするほどよい、と考えるのが常です。 一回だけそれを与える点が重視されています。 その一回だけで事柄を覚え込むことが重要なのです。 しかし、一回だけ与えられそれを覚えても、感情や意志には作用しません。 そうではなく、繰り返し行われるべき事柄、ある状況下できちんと繰り返し行われるべきと見なされる事柄こそが、感情や意志に働きかけるのです。
04-25
かつての素朴で家父長的な教育では、それを家父長的に実践していました。 それが自然と生活習慣になりました。 こうしたやり方には、ある種の非常に教育的なものがありました。 たとえば、毎日同じ主の祈りを唱えるのはなぜでしょうか? もし現代人が毎日同じ話を読むとしても、決して昔のようにはいかず、退屈すぎると感じられてしまうでしょう。 現代人は一回限りに調教されているのです。 昔の人は、主の祈りを毎日繰り返し唱えるだけでなく、最低でも週に一回は読むような物語の本を持っていました。 そのおかげで、彼らは今日の教育が生み出す人間よりも強い意志を持っていました。 なぜなら繰り返し、そして意識的繰り返しこそが意志を育てるからです。 このことをしっかり心にとめておかなくてはなりません。 ですから抽象的に、意志も教育しなくてはいけない、と言うだけでは不十分です。 これは意志教育のためにいいアイディアだ、とか、これは意志育成に役立つ洗練されたやり方だ、などと思い込んでいるだけだからです。 そうしたものは実際には何の役にも立ちません。 モラルを持てと脅迫されますと、人は弱々しく神経質になるだけです。 たとえば子どもに向かって、君は今日これをしなさい、それからあなたもあれをしなさい、そして二人とも明日も明後日も同じことをしなさい、と言うならば、子どもは内的に強い人間になるでしょう。 … 彼らは、学校では誰か一人が命令しなくてはならないと分かっていますから、権威に従って行動します。 一人ひとりに毎日、場合によっては一年を通じて為すべきことを指示し、それを実際に行うこと、… これが非常に強く意志を育成するのです。 これによって、まず生徒間の結びつきができあがり、さらには教師の権威を強め、そして人間を、意志に強く働きかける繰り返しの活動へと導くのです。
04-26
芸術的な要素は、なぜ意志の形成に素晴らしい作用を持つのでしょうか? それはまず、練習とは繰り返しですし、さらには、芸術的なものを身につけることには喜びが伴うからです。 芸術的なものは一回限りではなく、繰り返し味わうことができます。 人を一回だけ喜ばせるのではなく、繰り返しの喜びを与えうる素地が芸術にはあるのです。 それゆえ私たちは、教材を芸術的要素と結びつけるのです。 これについては明日、続けたいと思います。
04-27
今日私は、意志形成のための働きかけと知的育成のための働きかけが違うことを述べたかったのです。

『一般人間学』、第05講、シュツットガルト、1919年8月26日



目次

参考リンク

■人間の魂の活動における意志と思考の関係(01~06)

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▲人間の魂の活動における意志と思考の関係(01~06)

05-01 昨日は、意志の本性について、それを人間生体の構成要素との関係で話しました。 人間の他の本性をよりよく見るために、ここで学んだ人間の意志本性についての知見を役立てたいと思います。 05-02 すでにお気づきのように、人間本質について語るに当たって、私は、一方に知的、認識的活動を置き、もう一方に意志活動を置いてまいりました。 さらに、認識活動が神経組織に関連し、意志の強さが血液活動と関係する様子も示しました。 これらを振り返って考えるなら、皆さんは「第三の魂的能力である感情活動はどうなっているのか」と問うでしょう。 …この点は、今まであまり問題にして来ませんでした。 しかし、今日、感情活動について取り上げますし、それによって認識および意志活動という人間本性の両面もさらに深く理解できるはずです。 05-03 ただその前に、私があちこちで繰り返し述べてきたことを明確にしておく必要があります。 魂的活動を教条的に、思考、感情、意志と並べることはできません。なぜなら、生きた魂全体では、ある活動は別なものに移行していくからです。 05-04 一方の意志を観てみましょう。 認識的活動である表象を浸透させないと、意志は成り立ちませんし、そのことは意識化できるはずです。 表面的な自己観察でよいので、自分の意志に意識を集中してみてください。 意志行為には何らかの表象作用が必ず入り込んでいることに気づくでしょう。 意志行為に何の表象も入り込んでいないとしたら、それは人間ではありません。 意志から湧き出る行為を表象活動で満たしませんと、ぼんやりした本能的活動として意志を垂れ流すだけでしょう。 05-05 すべての意志活動に表象が入り込んでいるのとするなら、すべての思考には意志が入り込んでいます。 ここでも極表面的な自己観察で分かりますが、皆さんが思考を形づくる際にはそこには必ず意志が送り込まれています。 考えを自分でまとめ、考えを他の考えと結びつけ、判断や結論を下すとき、これらすべてに非常に繊細な意志活動が流れ込んでいます。 05-06 つまり、こう言えるはずです。「意志活動の主体は意志活動だが、その底流には思考活動がある。思考活動の主体は思考活動であるが、その底流には意志活動がある」と。 魂的活動の一つ一つを観察するだけでも、お互いに流れ込み合っていますから、両者を教条的に並べ置くことはできないのです。

■魂的活動の身体における現れ(07~15)

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▲視覚を例に示される感覚プロセスにおける認識活動と意志活動(07~09)

05-07 魂的活動が相互に流れ込み合っていることを認識できました。それが身体にも刻印されていることが見て取れます。魂の様子が身体に開示しているのです。 たとえば、人間の眼を観察してみましょう。 眼全体を観察しますと、そこには神経だけでなく、血管も入り込んでいます。 人間の眼に神経が延びていることで思考・認識活動が流れ込みますし、血管が延びていることで意志活動が流れ込みます。 このように身体内においても感覚活動という末端に至るまで、意志的なものと表象・認識的なものが相互に結びついているのです。 これはすべての感覚について言えることですが、意志のための器官、つまりすべての運動器官にも当てはまります。 意志、つまり運動の中へは神経を介して認識的なものが、また血管を介して意志的なものが流れ込んでいます。 05-08 しかしここで、認識活動の特殊性を知っている必要があります。 すでに触れたことですが、次の点は完全に意識していなくてはなりません。つまり、この完全に複合的な人間の活動、認識・表象の側に向かう活動の中には、すべてがある、という点です。 認識・表象活動には本来、反感が生きている、と述べました。 奇妙に思われるかもしれませんが、表象の方向にあるものには、すべて反感が入り込んでいます。 「何かを見るときに、私は反感など作用させていない」と言われるでしょう。 …ところが実は、そのときに皆さんは反感を働かせているのです。対象物を見ているときには、反感を働かせているのです。 眼に神経作用しかなければ、目に見えるあらゆる対象が吐き気を催す、反感的なものになるでしょう。 身体的には眼に血管が送り込まれることで、眼の活動に共感的である意志活動が注ぎこまれます。見るという感覚知覚に存在する反感が、これによって意識から消され、共感と反感にバランスがもたらされ、客観的、中立的に見ることができるのです。 共感と反感のバランスが保たれることで、視覚行為が生じ、そこでの共感反感の相互作用は意識化されないのです。 05-09 この関連ですでに取り上げていますが、皆さんがゲーテの色彩論、特に生理・教授的部分を読まれますと、「ゲーテは見るという行為の深みにまで入っていたので、彼の色彩ニュアンスについての考察では、共感と反感が直ちに全面に表れている」ということがわかります。 何らかの感覚器官活動を少し詳しく見ますと、そこには共感・反感が見えるはずです。 同様に感覚活動では、反感的なものは認識・表象側、神経部分から、共感的なものは、本来の意志の側、血液部分から生じています。

▲人間の眼と動物の眼(10)

05-10 これまでにもアントロポゾフィーの講演でしばしばお話しましたが、人間と動物の眼の構造には重大な違いがあります。 動物の眼では、人間の眼よりも血液の働きが強い、という点が特徴的な違いです。 それどころかある種の動物には、血液活動のための《剣状突起》や《扇状体》といった器官があります。 このことからお分かりのように、動物は人間より眼に多くの血液作用を送り込んでいますが、それは他の感覚についても当てはまります。 つまり動物は、感覚において周囲の世界に対し、人間より多くの共感、本能的共感を展開しているのです。 人間は実際、周囲の世界に対し動物より多くの反感を持っていますが、ただそれが通常の生活では意識に上らないのです。 周囲の世界を見ている印象が嫌悪を催すほどに高まりますと、はじめてそれが意識化されます。 嫌悪とは高まった感覚印象に過ぎないのです。そのとき皆さんは、外からの印象に嫌悪を催すのです。 悪臭の立ちこめる所に行きますと、皆さんはそこで悪臭に対して嫌悪を感じますが、この嫌悪感とは、感覚活動全般でも生じている嫌悪感が高まっただけです。しかし、通常の感覚知覚での嫌悪は、意識の境界を越えることはありません。 しかし、人間が動物よりも周囲の世界に対し強い反感を持たなかったなら、私たちが今できるほどには周囲と自分を分離できないでしょう。 動物は人間より周囲に対し強い共感を持ち、それゆえに周囲と共に成長しますし、人間よりも気候や四季に依存しています。 周囲の世界に対しより強い反感を持つがゆえに、人間は個人(Persönlichkeit)であるのです。 意識されない深みに持つ反感によって周囲と自分を分離できる、という事実、この事実が、私たちの個として分離された個人意識に作用しているのです。

▲意志における共感と反感(11~13)

05-11 これで人間を捉えるに当たって本質的に重要なことをすべて取り上げました。 それぞれ肉体的には神経活動と血液活動として表現される思考・認識活動と意志とが合流することを見て参りました。 05-12 同様に、意志活動の中でも、本来の意志活動と表象活動が合流しています。 何かを意志する際には、望まれた対象に対して共感を展開します。 しかし、意志側の共感に反感を送り込み、個人としての行為、個人としての意志というかたちで分離できなければ、意志は本能的なままでしょう。 ただこの場合には、望まれた対象に対する共感が優位なだけで、反感を送り込むことでそこにバランスを作り出しているのです。 それによって、この共感が共感として意識されることはなく、対象を欲する、というかたちをとるのです。 通常共感は、周囲の世界を世界そのものとして私たちと客観的に結びつけています。ところが、理性だけからの行為でないもの、つまり感激、献身、愛から行う多くの行為においては、共感が意志の中で非常に支配的になり、境界を越えて意識化され、意志そのものが共感に満たされます。 常にそれが起こるわけではないにしろ、例外的には、認識における周囲への反感が意識に上ることがあってもかまいませんが、それと同様に、私たちが常に持っている共感も、感激、献身、愛などの特殊状況で例外的に意識に上ることがありえます。 それが例外でなかったら、私たちの行為はすべて本能的になってしまいます。 社会生活など、周囲からの客観的要求に自分を適応させることができないはずです。 意志に考えつつ入り込むことによって、人類全体の中に、宇宙プロセスそれ自体の中に、自分自身を組み込んでいくのです。 05-13 今述べたことが通常の生活で完全に意識化されたら、魂がどれだけ荒廃してしまうかを考えますと、ここで起きていることを明確にできるかもしれません。 こうした事柄が通常の生活で絶えず意識化されたら、どのような行為にもかなりの反感を意識することになります。 そうなるとひどいことになります。 人間が世界を歩みながら、常に反感的空気の中に居るように感じるでしょう。 反感は行為にとって不可欠な力の一つですが、それは意識されず、意識の境界下にとどまっていますし、これは天の賢き配慮です。

▲人間本性の秘儀-子どもの成長(14~15)

05-14 こんな風に言いたいのですが、ここで皆さんは、人間本性についての一つの注目すべき秘儀をのぞき見ることになります。 この秘儀は、より善き人間であれば誰しもが感じ取っていますが、教育者ではこれを完全に意識化するのが望ましいのです。 子どもの頃には、程度の差こそあれ、人は単純な共感から行為します。 奇妙な言い回しですが、子どもの活動や騒ぎは、活動や騒ぎへの共感から生じています。 共感が世界に生まれ出たとき、それは強い愛や強い意志です。 しかし、この共感はそのままでいることはできず、表象に満たされ、いわば表象で照らされなければなりません。 本能に過ぎないもの中に、モラルある理想を組み入れますと、これが包括的なかたちで生じます。 ここで皆さんは、この領域における反感の意味がよりよく分かるはずです。 幼児は共感的ですが、幼児に見られるような共感的本能衝動が生涯続くとしたら、私たちはその本能の元で動物的に成長してしまうでしょう。 これらの本能は反感的になる必要があり、私たちはそこに反感を注ぎ込まなくてはなりません。 そこで本能に注ぎ込む反感とは、モラル的理想で、これが誕生から死までの生涯では、子ども的本能的共感に対抗します。 それゆえモラル的な成長とは、常にいくらか禁欲的です。 ただこの禁欲という言葉は正しい意味で理解されなくてはなりません。 禁欲とは、動物的なものと闘う継続的な修行なのです。 05-15 人間の現実的活動においては、意志は単に意志に止まらず、高い次元で認識的活動に浸されています。それをこうした事柄から学べるはずです。

■魂の真ん中に位置する感情活動(16~25)

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▲思考と意志の中間:感情(16~17)

05-16 認識・思考と意志との中間に感情活動があります。 ここまでの意志と思考についての説明をまとめますと、真ん中のある境界線から、一方に向かっては共感、つまり意志が流れ出し、もう一方には反感、つまり思考が流れ出している、と言えるでしょう。 しかし、意志における共感にも逆向きの思考が入り込み、また思考における反感にも意志が入り込んでいます。 このように、主として一方に活動を拡げているものが、もう一方へも作用することで、人間は一つの全体になっています。 さて、思考と意志の中間に感情が位置しますので、感情は一方で思考と類縁であり、もう一方で意志と類縁です。 魂全体において認識・思考活動と意志活動を厳密には区別できないことを見てきましたが、感情内において、思考的要素と意志的要素とはほとんど分離できません。 感情の中では、意志的要素と思考的要素が非常にしっかりと相互に浸透し合っているのです。


05-17 ここでも少し自己観察すれば、言っていることが正当だと納得されるでしょう。 意志は、通常の生活の中では客観的に推移していますが、感激や愛から発する行為にまで高まる、という話を前にしました。このことは、今の話からも正しいと分かるはずです。 通常の生活では、意志は外からの必然性で行われますが、この場合には、意志に感情がなだれ込んでいるのがはっきりと見て取れるはずです。 感激や愛情に満たされた行為では、主観的な感情が意志に入り込み、それによって意志から流れ出るものを行為するのです。 感覚知覚活動においても、…まさにゲーテの色彩論のように…詳しく検討しますと、そこに感情が混ざり込んでいることがわかります。 感覚活動が嫌悪にまで高まったり、また逆に、心地よい花の香りを吸い込んだりするとき、そこでは何の妨げもなく感覚活動に感情活動が流れ込んでいます。

▲思考内での感情の活動-判断(18~20)

05-18 しかし、思考活動へも感情活動が流れ込んでいます。 …かつて、特に非常に注目すべき哲学論争がありました。…世界観の歴史には多くの哲学論争がありました…。心理学者フランツ・ブレンターノとハイデルベルクの論理学者ジークヴァルトとの間で行なわれた論争です。 この二人は、人間の判断活動をめぐって論争していました。 誰かが「人間は善良であるべきだ」と判断する際には常に感情が伴う、したがって決断を下すのは感情である、というのがジークヴァルトの意見でした。 ブレンターノは「判断活動と感情活動はともに心情の動きからなるが、判断活動には感情だけが入り込んでいると考えては、判断活動を把握することはできない。 そうすることで本来客観的であらんとする判断に、何か主観的なものが入り込んでしまう。」と考えました。 05-19 事の真相が分かっていれば、こうした論争は、魂的活動の相互流入という真理にまで、心理学者も論理学者も達していないことを示しているだけです。 ここで本当に観察されるべきは何であったかを考えてみてください。 まず一方に、当然ながら完全に客観的に下されるべき判断活動があります。 「人間は善良でなければならない」という内容が、主観的な感情に左右されてはいけません。 つまり判断の内容は客観的でなければならないのです。 しかし判断を下す際には、まったく別なものも問題になります。 事柄が客観的に正しいにしても、その正しさだけでは魂内で意識化されません。 その事柄を、まず魂内で意識化しなくてはならないのです。 このとき、感情活動が共同していないと、いかなる判断も魂内で意識化されないのです。 「判断の客観的内容は感情活動外に確として存在する。しかし主観である人間の魂内で、判断の正しさを確信するには、感情活動を展開する必要がある。」このように両者の意見をまとめて、ブレンターノとジークヴァルトは和解すべきであった、と言わざるを得ません。 05-20 現在はこのように不正確な哲学的観察が横行していますが、それを元に正確な概念を得るのがどれだけ難しいかが、ここから分かると思います。 もちろん正確な概念にまで登り着かなくてはなりませんが、そこまで引き上げてくれるのは、今日のところ霊学しかありません。 外的な学問は、自分たちの概念は正確であるとし、アントロポゾフィー的霊学を痛烈に批判します。しかしそうしたことが起きるのは、霊学的諸概念が現実から得られたものであって、単なる言葉の遊戯ではなく、現行の概念よりもずっと正確で厳密であることにまったく考えが及ばないからです。

▲最初のまとめ(21)

05-21 このように感情的要素を、一方では認識・表象の側、もう一方では意志の側にたどりますと、感情は魂的営みの中央、つまり認識と意志の中間に位置し、その本性を両側に放射していることが分かります。 …感情とは、なり切っていない認識であり、なり切っていない意志、抑えられた認識、抑えられた意志なのです。 すでに見た認識や意志の場合、共感反感は隠れていましたが、感情活動も共感と反感の組み合わせによるものなのです。 認識にも意志にも共感反感の両者が存在し、肉体的には神経活動と血液活動の共同作用ですが、これらは隠れていました。 それが感情では表に現れます。

▲身体構成における感情の営みの現れ(22)

05-22 それでは感情は肉体的にどのように現れるのでしょうか? 人間の身体内のいたる所で、血液経路が何らかの形で神経経路と触れ合っているのが見つかります。 その血液経路と神経経路が接する所では、本来どこでも感情が生じます。 ただ、たとえば感覚器官では、神経も血液も非常に繊細なので、感情として感じ取られないのです。 視覚や聴覚にも微かな感情が入り込んでいますが、それは感じ取られません。そして、感覚器官が身体の他の部分から隔てられていると、さらに感じ取りにくくなります。 眼は眼窩内に収められ、他の肉体器官からほぼ隔離されていますので、眼の活動である視覚では、感情的な意味での共感や反感はほとんど感じ取られません。 そして、眼に入り込んでいる神経も血管も非常に微細です。 眼では感情的な感受は非常に抑圧されています。 …聴覚の場合は、感情的なものはそこまで抑圧されていません。 聴覚は視覚よりも生体の全体的活動と密接かつ有機的に関連しています。 耳の中には数多くの小器官があり、それらは眼とはまったく違った様子を示しています。 それゆえ耳とは、いろいろな意味で、生体の全体的活動の忠実な像なのです。 ですから耳における感覚活動には、大変強い感情活動が伴うのです。 それゆえ、聞いたことを非常によく理解できる人間にとっても、聞いたものの中で認識的なものと感情的なものを区別するのは難しいですし、芸術的なものの中でそれらを聞き分けるのはさらに困難です。 これが元で、近代には大変興味深い現象がありましたし、それが芸術作品の中に直接現れています。

▲聴覚と感情の類似性(23)

05-23 皆さんはリヒャルト・ワーグナーの『マイスタージンガー』の登場人物、ベックメッサーをご存知でしょう。 このベックメッサーは何を表現しているのでしょうか? 人間全体を基盤とする感情的要素は、聴覚活動の認識的な部分に入り込み、作用していますが、この人物は、そのことにまったく気づかない音楽学者を表現しています。 ワーグナーは、「音楽の中では主として感情が活動すべきだ」というまったく偏った自分の見解を、主人公のヴァルターに託して表現しています。 音楽を聴く際には感情と認識の両者が共に作用している、というのが正しい見解ですが、それを誤解したことから生じた二つの…どちらも間違った…見解の対立が、ヴァルターとベックメッサーという人物の対立として表現されています。 これはワーグナーとウィーンの音楽学者エドゥアルト・ハンスリックという敵対者との歴史的対立でもあります。 ハンスリックは、ワーグナーの作品が有名になるにつれ、彼の作品の底流にある感情的事柄のすべてを非音楽的と見なし、批判しました。 芸術分野において、ハンスリックの『音楽的に美なるものについて』くらい心理学的に興味深い本はないでしょう。 この本で彼は、「音楽のすべてを感情的なものから引き出そうとする人間は、真の音楽家でもなく、真の音楽的感覚も持たない。そうではなく、音と音との客観的な結合にこそ、感情的なものを廃した音と音をつなぐアラベスクにこそ、音楽の神髄がある」、と主張しています。 このハンスリックの『音楽的に美なるものについて』では、最上の音楽的なるものとは、音の形成体、音のアラベスクにおいてのみ成り立ちうる、という要求を実に純粋なかたちで展開し、ワーグナー主義の中枢をなす、感情的要素からの音楽的創造に対しては、ありとあらゆる嘲笑を向けています。 ハンスリック、ワーグナー間のこうした論争が、そもそも音楽領域で生じたこと自体が、魂的諸活動にまつわる近代心理学の理念が、どうしようもなく不明瞭であったことを示しています。そうでなかったら、ハンスリックのような偏った考えは生れてこなかったはずです。 しかし、それが一面的であることを見通した上でハンスリックの鋭い哲学的論考を読みますと、『音楽的に美なるものについて』の豊かな精神性は否定できないでしょう。

▲感覚一般論 v.s. 体験という現実(24~25)

05-24 感情的存在である人間総体から、認識的である周辺部へと、ある感覚では多く、ある感覚では少なく入り込んでいくことが、以上のことからお分かりだと思います。 05-25 こうして皆さんは、まさに教育的洞察を高めるために、今日の荒廃した科学的思考の状況に注意を向けるでしょうし、また向けていただかなくてはならないのです。 ここでは準備的な話をしていますし、皆さんを革新的活動へと導く準備となるはずのことを話していますが、もしそれをしないなら、現存の教育学や現行の心理学、論理学、教育実践をかき集め、それを元に学校活動を展開することになるでしょう。 外部で当たり前なことを、学校実践に持ち込まざるを得ません。 ところが今日一般化している事柄は、心理学ですら非常にお粗末な状態です。 どの心理学でも、まずいわゆる感覚論が出てきます。 感覚活動が何から生じるのかを研究し、眼、耳、鼻などの感覚活動を見つけます。 そしてこれらを《感覚活動》という偉大なる抽象概念でくくるのです。 これは大変な間違いですし、非常に問題のある誤りです。 とりあえず今日の生理学者や心理学者に知られている肉体的な感覚だけを取り上げてみても、たとえば眼における感覚と耳における感覚を取り上げても、それらはまったく違うことが分かるはずです。 眼と耳とは二つのまったく違った存在です。 さらに、まだまったく研究されていない、あるいは眼や耳ほどに研究されていない触覚も加わります。 とはいえ話を眼と耳に限りましょう。 これら二つは、まったく異なる活動であり、見るも聞くもひっくるめて《感覚一般》とまとめてしまうのは灰色の理論と言えます。 事柄に正しく向かい合おうとするなら、眼の活動、耳の活動、嗅覚器官の活動などなどをまずきちんと具体的に観察するべきです。 するとそこには非常に大きな違いが見出され、今日の心理学者たちが言う「一般感覚生理学」など作ろうとも思わないはずです。

■結論:現実への道(26~27)

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▲結論:現実への道(26~27)

05-26 『真理と学問』や『自由の哲学』の論考では、私はある領域内に踏みとどまろうとしました。そして、その領域にとどまることによってのみ、人間魂の観察において正しい洞察が得られます。 そのときには抽象概念に陥ることなく、魂を一体なるものとして語ることができます。 なぜなら、確実な地盤に立っているからです。 その出発点とは、人間は世界の中へ入り込みそこで生きるものであって、決して現実すべてを手にしてはいない、という地点です。 この点に関しては『真理と学問』や『自由の哲学』で読むことができます。 人間は、その最初に現実のすべてを手にしているのではありません。 人間はまず成長し、その成長の過程で、思考と観察を相互に入り込ませることによって、以前には現実でなかったものを真の現実として手にするのです。 人間はこうして初めて現実を自分のものにします。 これに関して、すべてを食い荒らすカント主義は恐るべき荒廃をもたらしました。 カント主義は何を行ったのでしょうか? カント主義は冒頭からドグマ的に、「私たちを取り囲む世界は、とりあえずは観察すべきものとして存在し、私たちの内には本来、この世界の鏡像だけが生きている」と言います。 そして、そこからカント主義のすべてを演繹しています。 カント自身がはっきり分かっていないのです。 人間が知覚する周囲世界が一体何であるのかを。 現実とは、周囲の世界にあるものでもなく、現象の中にあるものでもありません。そうではなく、私たちが獲得することによって次第に浮かび上がってくるものであり、私たちに最後に近づいてくるものが、そのとき初めて現実になるのです。 根本的なところから言ってしまえば、真の現実とは、人間が言葉を発することができなくなる瞬間、つまり死の関を越える瞬間に見るものなのです。
(「シュタイナーが指摘したカント認識論の問題点」へのリンク)
05-27 現代の精神文化には非常に多くの誤りが入り込んでいて、それが教育分野で最悪の影響を及ぼしています。 ですから、常に誤った概念を正しい概念に置きかえていかなくてはなりません。 それをして初めて、授業で行なうべきことをも、正しく行うことができるようになるのです。

『一般人間学』、第06講 、シュツットガルト、1919年8月27日


目次

参考リンク

■前置きと進め方(01~02)

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▲前置きと進め方(01~02)


06-01
これまで、子どもの教育に際してどうしても理解する必要があることを、魂の視点から把握しようと試みて来ました。 …霊、魂、体の…三つの視点を区別しなければなりませんし、完全な人間学を手にするために、これらの視点から人間を考察しています。 そして、通常の生活では魂が最も身近なので、まず魂的観点から観察を始めました。 人間を把握するべく魂に迫るわけですが、そこでは反感と共感がメインの概念になることも感じとられたと思います。 しかし、ここで魂的視点からいきなり体的視点に移るのは適切ではありません。なぜなら、霊学的観察の見地から言えば、体とは霊的・魂的なものの開示として捉えるべきであることが分かっているからです。 これまでは、魂を一般的に大雑把に考察して来たので、ここに霊的観点からの人間観察を加え、その後で一般に人間学と呼ばれる、外的物質界に現われた人間存在を観察しようと思います。
06-02
視点はどうであれ、人間を適切に観察しようとするなら、常に思考、感情、意志という魂的活動の三区分に立ち返らなくてはなりません。 これまで私たちは思考、感情、意志を共感・反感という作用圏で見てきました。 ここでは意志、感情、認識を霊性の観点から捉えようと思います。

■3つの意識状態:意識的要素と無意識的要素(03~06)

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▲思考的認識 - これを霊的に考察すると(03)


06-03
霊的観点からも、意志、感情、思考的認識の違いが見つかります。 次のことを観察するだけです。 思考的認識を行なっているときには、…まずイメージで表現させていただきますが、イメージ的なものは理解に役立ちます…いわば光の中に生きていると感じるはずです。 認識をしているとき、皆さんは自我と共にこの認識という活動に、完全に入り込んでいるのを感じます。 いうなれば、認識と呼ばれる活動のどの部分をとっても、自我による行為の射程内にありますし、また逆に、皆さんの自我の行為は、認識活動の範囲内にあります。 皆さんは完全に明るさの中に居て、概念的に表現して差し支えなければ、完全に意識化された行為の中で活動しているのです。 もし認識が、完全なる意識下で行われるのでないなら、それは望ましくありません。 自分が判断を下す際に、無意識のどこかで何かが生じ、その帰結として判断が生じている、という感情を自我が抱かざるをえない、と考えてみてください。 「この人は善い人だ」、という判断を下すと仮定してみてください。 判断を下すに当たって、まず何が必要かを明確にしておく必要があります。…主語は「この人は」で、述語は「善い人だ」ですが…この二つの部分を含む過程に、皆さんは完全に主体的にかかわり、意識の光を当て切らなくてはなりません。 皆さんが判断を下す際に、何らかの魔物か自然界のメカニズムが、《この人は》と《善い人間だ》を結びつけるのを受け入れなければならない、と仮定しますと、この認識的思考行為の中で、意識は完全に目覚めておらず、判断に常に意識されない何かが入り込むことになります。 これが思考的認識の本質部分ですし、人間はそこでの活動すべてに、完全に目覚めた意識をもって入り込んでいるのです。

▲意志 - 霊的に考察すると(04~05)


06-04
意志では事情が違います。 ご承知のように、最も単純な意志は歩行ですが、これを行うときに完全に意識されるのは、歩行の表象的な面だけです。 脚を前方に交互に動かす際に、筋肉内で行われていることや、身体内での機械的・生物的な出来事については何も知ることはありません。 もし歩行という意志を遂行するに当たって必要な一切の活動を、すべて意識的に行わなければならないとしたら、世界からいかに多くの事を学んでいなければならないかを想像してみてください。 歩こうと思ったとき、そこにどれだけの活動が必要か、さらにはその活動に際し脚、その他の筋肉にどのくらいの栄養分が必要か、などを正確に知っていなくてはならないはずです。 皆さんは、供給された栄養のどれだけが消費されるかなど、計算したことはありません。 こうしたことは、ご承知の通り、すべて身体内で完全に無意識に行なわれています。 意志の活動では、そこに常に無意識の深みからのものが混ざり込むのです。 ここではまず生体内での意志の本質を観察して、そこに無意識なものが混ざり込むことを見ましたが、それは生体内だけのことに限りません。 意志を外界に延長し、私たちが外界に対して行ったことを見ても、それは決して意識の光で完全に照らし出され把握されることはありません。


06-05
二本の柱状の棒があると仮定します。 その上へもう一本の棒を水平に乗せようとします。 認識では、皆さんはその中に完全に入り込み、完全に意識化された認識的活動を行い、たとえば「あの人が善い」と判断を下す際には完全に意識化された活動を行っていました。その意識的行為に息づくものと、ここでの柱に梁を乗せる行為に息づくものとを厳密に区別してください。 その際に認識的行為として活動している何かと、「この二本の柱は、どうして何らかの力で梁を支えられるのか」という、皆さんの意志と密接に関係しているにもかかわらずまったく気づくことができない何かとを、きちんと区別してみてください。 この現象に対し物理学は、今日に至るまで仮説に止まっています。 どうして二本の柱が梁を支えるか、を理解しているなどと思うのは、単なる思い込みです。 凝集力、粘着力、引力、反発力等々の概念などは、結局のところすべて外的学問における仮説にすぎません。 何かを取り扱うときにはこの外的仮説を用いて計算します。梁を支えるべき二本の柱が特定の太さであれば折れないことを、この仮説を用いて計算します。 しかし私たちは、これに関連する過程全体を見通すことはできません。それは、前進における脚の運動を見通すことができないのと同じです。 このように、ここでも、意志の中には意識には上り得ない要素が混ざり込んでいます。 意志には、非常に広い範囲で無意識的なものが含まれているのです。

▲感情 - 霊的に考察すると(06)


06-06
感情は、意志と思考的認識との中間に位置しています。 感情では、一部には意識的、一部には無意識的なものが入り込んでいます。 このように感情には、認識的思考の性質と、感情的意志、あるいは感じ取られた意志という性質があります。 では霊性の観点から見ると、ここには何があるでしょうか。
(「さまざまな仲介をする《形象意識》」についての説明リンク)

■三つの意識状態:目覚め、眠り、夢(07~09)

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▲認識(07) - 意志(08) - 感情(09)


06-07
ここまでいくつかの事実を性格づけしましたが、これらの霊的観点からの正しい捉え方は次のようになります。 私たちは日常的に、目覚めているとか、目覚めた意識状態という言い方をします。 しかし、この目覚めた意識状態とは、認識的思考の場合だけに当てはまります。 人間の目覚めについて正確に言うと次のようになります。 「人間の真の目覚めとは、何かを思考的に認識しているとき、またその状態にあるときだけである」と。
06-08
それでは意志はどうでしょうか。 皆さんご存じの通り、熟睡の意識状態です。…これは無意識状態とも呼べます…。 ご存じのように、睡眠中、つまり就眠から目覚めの間は、体験が意識に上りません。 無意識的である意志の底流にあるものすべても、まったく同じです。 意志する存在である限りにおいて、私たちは覚醒中も眠っています。 私たちの内には常に、眠れる人間、つまり意志する人間が居て、そこに目覚めた人間、つまり思考的認識的人間が付き添っています。 意志存在である限りにおいて、私たちは目覚めから就眠までも眠っているのです。 私たちの内では絶えず何かが、つまり、意志の内的本性が眠っています。 私たちは睡眠中の自分の身に起きていることは意識しませんが、この意志の本性も同様に意識しません。 意志としての人間では覚醒中にも熟睡が入り込んでいますし、それを知らなければ、人間を完全に認識することはできません。
06-09
さて、中間にある感情ではどのような意識なのか、を問うてみましょう。 …これも覚醒と熟睡の中間にあります。 魂内で活動する諸感情が夢と同じようであることを皆さんはご存じでしょう。 ただ、夢は覚えるものであるのに対し、感情は直接に体験されます。 しかし感情と夢では、そこにおける内的な魂の状態、魂の雰囲気は同じです。 覚醒時の人間を見ても、思考的な認識では覚醒し、意志では眠り、感情では夢見ています。 つまり、覚醒中にも、現実に三つの意識状態が入り込んでいます。 思考的認識における本来の覚醒、感情における夢視、意志における熟睡です。 霊的観点から見ますと、通常の意味での夢のない睡眠(熟睡)は、日中の意志、つまり魂全体をそこに没入させている状態と、何ら変わりはありません。 ただ、熟睡中には魂的本性全体が眠っているのに対し、覚醒時には意志においてのみ眠っている、という点だけが違っています。 普通に夢と言われるものでは、人間全体が夢の魂的状態に没入していますが、覚醒時には、感情活動だけがその夢想的魂的状態に入り込んでいます。

■教育的課題(10~11)

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▲教育的課題(10~11)


06-10
このような観方をしますと、子どもの意識の覚醒状態が千差万別であっても、教育的には何の不思議もないはずです。 感情的営みが優位な素質を持った子どもは夢想的で、特に思考がまだ十分に目覚めていない子ども時代では、すぐに夢想に入り込んでいくのが分かります。 これがわかりますと、そうした子どもには、教師が強い感情を介して働きかければよいと分かります。 この強い感情が、子どもの内に明るい認識を目覚めさせうる、と望めるのです。 なぜなら、生命リズムの中では、どんな眠りもやがては目覚めるからです。 感情の営みの中で夢想的に微睡んでいる子どもに、教師が強い感情をもって接しますと、この強い感情が子どもに取り込まれ、しばらく後には自然に思考へと目覚めていきます。
06-11
さらに深く微睡んでいる子ども、それどころか感情の営みに対してもぼんやりしている子どもは、意志の素質が特に強いことが分かるでしょう。 これまでのことを考えれば、子どもの営みに見られる多くの謎に対しても、認識から対処できることがお分かりになるでしょう。 真性の知的障害のように見える子どもが学校に入ってきたと仮定しましょう。 ここで直ちに、「この子は精神的発育遅滞児だ、知的障害児だ」と判断しても、…さらには実験心理学的診断、すばらしい記憶力テスト、現行の教育心理学研究所で行われているさまざまなテストを行い、「この子は素質的に障害児であり、知的障害児施設、あるいは最近好まれる表現で言う才能未発達学校がふさわしい」と判断しても、子どもの本質にはまったく迫っていません。 ひょっとしたらこの子は、特に優れた意志的素質を持っていて、成長してからその胆汁質的性格が強い行動力に変わっていく子どもかもしれません。 しかし、当面意志は眠っています。 もしこうした子どもで、思考的認識が後になって現れてくると判断された場合、後に強い行動力を発揮しうるよう、それにふさわしく適切に対処する必要があります。 初め、この子は真性の知的障害児に見えるかもしれませんが、もしかしたらまったく違うかもしれません。 このような場合、意志の目覚めを目指さなくてはなりません。 つまり、覚醒時における睡眠状態に働きかけなくてはならず、意志として眠っているもの、おそらくは非常に強い意志、ただ今は眠っている意志、眠った存在が優勢であるような意志を後の人生で目覚めるよう、少しずつ導いてやらなくてはなりません。…なぜなら、どのような眠りも目覚めようとする傾向があるからです…。 この種の子どもに対しては、認識能力や把握能力を育てようとする働きかけは極力避け、たとえば、話すのと同時に歩かせるなど、非常に強く意志に働きかける事柄を叩き込むのです。 こうした子どもは多くないはずですが、その子を教室から連れ出し、…他の子どもにとっては活気を与えるでしょうし、その子にとっては建設的です…文章を語りながら身体を動かさせます。 つまり、「みんな(一歩)善い(一歩)人たち(一歩)だ(一歩)」というようにするのです。 このようにして、意志要素の中で、人間全体と認識的で単に知的なものとを結びつけていきます。こうして少しずつ、子どもを意志から思考へと目覚めさせていかれます。 覚醒時の人間においても…覚醒、夢想、熟睡…三つの意識状態が存在している、という洞察があって初めて、真の認識が得られ、成長過程の人間に向かい合う私たちの課題を果すことができるのです。

■意識状態ならびに身体との自我の関係(12~19)

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▲基本諸力(12~14)


06-12
しかしこう問えるかもしれません。 「真の意味で人間の中心である自我は、この三つの意識状態にどう関係しているだろうか」、と。 「世界とか宇宙とか呼ばれるものは、諸活動の総和である」というのは紛れもない事実ですが、これを前提にすれば、この問題も簡単に理解できるでしょう。 こうした活動は、基本諸元素の営みの領域として、私たちの前に現れます。 これらの基本諸元素の営みの中で諸力が作用しています。 たとえば私たちの周りでは生命力が力を振るっています。 そして、元素的諸力と生命力との間には、たとえば熱や火における作用も含まれます。 私たちがどのような環境に居るかを考えてみてください。 そこでは、火を介して非常に多くの作用があります。
06-13
地球上のある地方で、たとえば南イタリアなどでは、丸めた紙に火をつけるだけで、すぐにも大地から煙がもうもうと立ちあがります。 なぜこんなことが起きるのでしょうか? 丸めた紙の火で熱が生じ、その付近の空気が希薄になり、通常なら地表下で活動している諸力が上昇する煙によって地面の上まで引き上げられます。そうして、火の付いた紙が地面に投げられますと、その瞬間に皆さんは煙に包まれるのです。 これはナポリ地方に旅行すれば、誰でもできる実験です。 これは、表面的観察に留まらなければ、周囲の至る所に諸力が充満していることを示す例です。
06-14
さて、熱よりも高次な諸力もあります。 そうした諸力も周囲にあります。 物質的・肉体的人間として世界を歩むとき、私たちは常にそうした諸力を縫って進んでいます。 通常はそれを認識することはありませんが、私たちの肉体はそうした諸力に耐えられるように作られています。 そうした肉体があるおかげで、私たちは諸力に充ちた世界を歩めるのです。

▲思考的認識における自我と肉体の関係:世界を像に変える(15~17)


06-15
人間の自我は進化の中で最も新しく生まれたものなので、この自我が直接こうした諸力にさらされるとしたら、私たちは世界の諸力の中に分け入ることはできません。 この自我は、周囲の世界に取り巻かれ、その中に居ますが、周囲に完全に身を任せることはできないのです。 世界の諸力の中に流れ出なくて済むように、この自我は今のところは守られていなくてはなりません。 いずれは、この自我も諸力の中に入って行かれるまでに育ちます。 しかし、現状ではまだそれはできません。 ですから、完全に目覚めた自我が、私たちにとっての環境である現実世界に入り込むのではなく、単に世界の像に入るだけに止まる必要があるのです。 それゆえに、思考的認識では世界を映した像しかありません。この点は、魂の観点で詳しく述べました。
06-16
今度はこれを霊的観点から観察しましょう。 思考的認識において、私たちは像の中に生きています。 そして現在の人間進化段階では、この誕生から死までの期間、私たちが完全に目覚めた自我と共に生きるのは、コスモスの像の中であり、コスモスの現実そのものの中ではありません。 それゆえ、目覚めている時には、肉体がまずコスモスの像を作り出さなくてはなりません。 そして私たちの自我は、その像の中で活動するのです。
06-17
心理学者たちは、肉体と魂を関係づけようと非常に苦労しています。 彼らは肉体と魂の相互作用とか、心理・身体並行論などをいまだに云々しています。 これらすべては、結局のところ子どもじみた概念にすぎません。 なぜなら、ここでの真の成り行きは次のようだからです。つまり、朝、自我が覚醒して肉体に入りますが、身体の物質的営みには入らず、像の世界に入ります。そしてこの像の世界は、その最も深い部分に至るまで、外界の諸過程を元に、身体が作り出しているのです。 こうして思考的認識が自我に伝えられるのです。

▲感情における自我と肉体の関係:魂的に火傷をする―意識が夢段階に弱められる(18)


06-18
感情では事情が違います。 感情において自我は、単なる像の世界ではなく、実際の肉体の中にまで入ります。 もし自我が目覚めた意識をもって肉体に入るとしたら、…これを魂的な意味で受け取ってください…文字通り、魂的に火傷をするでしょう。 思考においては、肉体が作り出した像の中へ、自我そのものが入って行きますが、感情においては、そこに目覚めた自我そのものが入ったとしますと、自我は魂的に火傷を負うはずです。 皆さんは耐えられないはずです。 自我が入り込んで行くことは感情にとって重要なのですが、入り込んでいることを皆さんは夢想的な状態、つまり朦朧とした意識状態でしか体験できません。 肉体で生起する感情的なものに、自我は夢状態でしか耐えられないのです。

▲意志における自我と肉体の関係:耐え難い痛み ― 意識が睡眠段階まで麻痺させられる(19)


06-19
そして、意志において生じることは、睡眠状態でしか体験できません。 日常の中で意志において生じることをすべて共体験しなければならないとしたら、それこそ恐ろしい体験になります。 前にも述べましたが、たとえば食物からの諸力を生体が受け取り、歩行の際にそれを脚で消費する成り行きを実際に体験しなければならないとしたら、皆さんは耐えがたい苦痛に襲われるでしょう。 これを体験しない、あるいは眠った状態で体験するというのは、幸運なことです。 なぜなら、これを覚醒状態で体験するとしたら、それは考え得る限りの痛み、恐ろしい痛みだからです。 それどころか、こうも言えるでしょう。意志の中で目覚めるとしたらは、それは意志を遂行する人間にとっては痛みそのものですが、通常の場合は、意志は熟睡していて、麻痺しているので、痛みが潜在的なものに止まっているのです。

■高次の意識段階における意識状態:イマギナチオーン、インスピラチオーン、イントゥイチオーン(20~25)

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▲像の中での営み(20)


06-20
いわゆる目覚め状態での自我の三つの営み…つまり完全な覚醒、夢想的覚醒、熟睡的覚醒を含みます…を性格づけますと、通常の目覚めた身体内で自我が活動することで、自我が現実の中で、本来何を生き通しているのかが分かるでしょう。 この自我は肉体内で目覚めているときには、思考的認識の中に生きていますし、そこでは完全に目覚めています。 その中で自我は単に像の中に生きるだけです。そして、私の『いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか』で述べた修練を経ない限り、誕生から死まで、思考的認識を介して、自我は像の中に生きるだけです。

▲インスピラチオーンにおける営み(21~22)


06-21
さらに自我は、感情を統御する諸過程の中へも目覚めつつ降りて行きます。 ただ感情の営みでは、完全には覚醒しておらず、夢想的に目覚めています。 夢想的覚醒状態で私たちが感情を伴いつつ行っていることを、私たちはどのように体験しているでしょうか。 私たちは、インスピラチオーン、インスピラチオーン的表象、インスピラチオーン的無意識表象などと呼ばれるものの中で実際にそれを体験しています。 芸術家では、感情から何かが目覚めた意識へと立ち昇って来ますが、そのすべての発生源はここです。 そこでまずこうした体験がなされます。 目覚めた人間において、ひらめきが覚醒意識に上り、さらに像にまで高まることがありますが、それらすべてがここを経由していきます。




06-22
インスピラチオーンは、すべての人が感情の深い営み内に無意識に内在させていますが、私の著書『いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか』の中でインスピラチオーンと呼んでいるものは、それが、明るみ、つまり完全に意識化された体験として昇ってきたものです。 ですから特別な才能を持った人たちがインスピラチオーン(インスピレーション)と言う場合、感情の営みへ世界から持ち込まれたものを、素質によって完全な覚醒意識に昇らせたものを指します。 思考内容は宇宙内容でしたが、これもそれと同様に宇宙内容です。 しかし誕生から死まで地上生では、この無意識的なインスピラチオーンには、夢想的にしか体験できない世界過程が映し出されています。そうでなければ私たちの自我はこうした過程の中で火傷するか、窒息するかしてしまいます。 人間が異常状態に陥りますと、こうした窒息がしばしば起こります。 悪夢を考えてみてください。 外気との相互関係が順調ではなく、どこか狂いが生じていますと、それは逸脱した状態で別なものに入り込んでいこうとします。 つまり、自我意識に入り込もうとするのです。すると、正常な表象が意識されるのではなく、苦しみの元になる表象、つまり悪夢が意識されます。 悪夢における異常な呼吸は息苦しいものですが、もしも人間が通常の呼吸を完全に目覚めた意識で体験したなら、それは悪夢の場合と同様、苦しいものになります。 それを感情と共に体験しますと、それは苦しみに満ちたものでしょう。 それゆえ、体験が鈍化され、肉体的現象としてではなく、夢想的感情としてのみ体験されるのです。

▲イントゥイチオーンにおける営み(23~25)


06-23
さらに意志において行われる諸過程を体験したなら、すでに申しましたように、これは恐ろしいほどの痛みになるでしょう。 それゆえ三番目として、「意志における自我は熟睡している」と言うのです。 非常に鈍化された意識…熟睡的意識…無意識なイントゥイチオーンの中で体験されるものが、そこで体験されます。 人間には常に無意識的イントゥイチオーンがありますが、それは意志の中に生きているのです。 人間は意志の中では眠っています。 それゆえ通常の生活では、イントゥイチオーンを引き出すことができません。 無意識的イントゥイチオーンは幸運な状態でしか昇ってきませんが、そのときには、非常にぼんやりとですが、霊界を体験しています。
06-24
ところで通常の生活では、ある奇妙なことがあります。 思考的認識における、完全に目覚めた意識状態は誰もが知っています。 ここではいわば意識の明るみに居ますし、これは周知です。 しかし、誰かが世界について熟考し、「イントゥイチオーンを得た」、と言いはじめることもあります。 こうしたイントゥイチオーンから、感じ取られたとりとめもない事柄を言い出します。 その際に語られることはしばしば支離滅裂ですが、無意識的につじつまが合っている場合もありえます。 その極めつけは、あの詩人がイントゥイチオーンと言う場合です。そのイントゥイチオーンは、感情の営みというインスピラチオーン的表象という最も手近なところに源泉を持つのではなく、眠れる意志の領域にある完全に無意識なイントゥイチオーンの領域に源泉を持つのです。
06-25
こうした事柄を深く見ると、表面的には日常の偶然に見えるものの中に、深い法則性が見えてきます。 たとえばゲーテの『ファウスト』第二部を読みますと、この奇妙な詩句がどのようにできあがったのか、徹底的に教えてもらいたいものだ、と思います。 『ファウスト』第二部の執筆当時、少なくともその大部分の執筆当時、ゲーテはすでに高齢でした。 ゲーテは、書記のヨーンを机に向かわせ、口述を筆記していきました。 もしもゲーテ自身が自筆で書かなければならなかったとしたら、『ファウスト』第二部に見られる、奇妙で彫金のような詩句を生み出すことはおそらくなかったでしょう。 口述筆記中、ゲーテはワイマールの小さな書斎を絶えず行き来していましたし、そしてこの行き来が『ファウスト』第二部の書き上げに関係しています。 ゲーテが、歩くこと、つまり無意識的意志行為を展開したために、彼のイントゥイチオーン群から何かが立ち昇って来ましたし、つまりゲーテの外的活動が口述筆記の内容として顕われたのです。

■まとめ並びに人間の身体形態についての展望(26~27)

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▲まとめ並びに人間の身体形態についての展望(26~27)


06-26
体内における自我の営みを図式化すると次のようになります。 これですと、深い意味ではない一般的なイントゥイチオーンが、より意識に近いはずのインスピラチオーン的感情よりも日常の像的認識に昇って来やすい理由が分かりにくくなります。 I   覚醒的  --- 像による認識
II  夢視的 --- インスピラチオーン的感情
III  熟睡的 --- イントゥイチオーン的ないし
         イントゥイチオーンされた意志
…前の図解は間違っているので…次のように描けば正しいですし、事柄が分かり易くなります。



するとこう言えるでしょう。 「矢印1の方向で、映像的認識がインスピラチオーンに降りていき、それが今度はイントゥイチオーンから立ち昇ってくる(矢印2)。 ここで、矢印1は、認識作用の肉体内への下降を示している」と。 座っていても立っていてもよいですから、静かな思考的認識、あるいは外界の観察に没頭している、と思ってみてください。 このとき、皆さんは像の中に生きています。 この過程における、自我による像体験以外のものは、まず感情、そして意志へ、身体へと降りてゆきます。 しかし皆さんは、感情内のものは無視しますし、意志内のものもとりあえずは無視します。 さて、皆さんは歩き始め、行動し始めます。するとまず、感情ではなく意志を外的に観察し始めます。 肉体への下降と矢印2で示された再上昇では、夢想的インスピラチオーン的感情よりもイントゥイチオーン的意志の方が映像的意識に近いのです。 それゆえ、しばしば「なんとなく直観(イントゥイチオーン)が来た」と言われる理由がわかります。 …それゆえ、私が『いかにしてより高次の諸世界の認識に達するか』の中で「イントゥイチオーン」と言っているものと、通常意識における表面的なイントゥイチオーンは混同されやすいのです。
I 覚醒的  ---
II  夢視的 --- インスピラチオーン的 感情
III  熟睡的 ---  イントゥイチオーン的  意志


06-27
ここで人間の肉体形姿をいくらか理解できるでしょう。 ここで、歩きながら世界を観察している、と思ってください。 下半身に脚がついているのではなく、頭部から直接脚が出ていて、それで歩いていると思ってください。 そうなりますと、世界観察と意志作用とが一つに混ざってしまい、その結果、皆さんは眠ったままでしか歩けないでしょう。 頭部は、肩などの上に乗っていて、身体上で静止しています。 それは静止しているのです。そして皆さんは、身体の他の部分を動かすことで、頭部を運んでいるのです。 頭部は身体上で静止できなくてはなりませんし、そうでなかったら思考的認識の器官ではありえなかったでしょう。 頭部は、熟睡的意志から隔離されていなくてはなりません。 なぜなら、頭部を運動、つまり準静止状態から自発的運動に移行しますと、その瞬間に頭部は眠ってしまうからです。 頭部は、本来の意志活動を身体にやらせていますし、自分はこの身体を客車としてそこに乗り込み、この乗り物に運んでもらっています。 頭部が客車に居て身体という機関車に運んでもらい、また運ばれながら安静な状態で活動することによってのみ、人間は目覚めて行為できるのです。 こうした事柄を総合しますと、人間の身体形姿をはじめて真に理解できるのです。

『一般人間学』、第07講、シュツットガルト、1919年8月28日


目次

参考リンク

■方法論的前置き:一つの事柄を他の事柄と関連付ける(01~03)

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▲方法論的前置き:一つの事柄を他の事柄と関連付ける(01~03)

07-01 ここでの問題は、人間本質が何であるかを見通すことです。 これまでの道筋では、教育学一般を介して、人間本質をまず魂の観点、続いて霊の観点から捉えようとしてきました。 今日も、この後者を深めていこうと思います。 私たちは当然ながら、世間一般で通用している教育学、心理学等々の諸概念とも常に関係を持っていきます。 皆さんはこれからも折に触れて、必要に応じ、教育学や心理学の文献と取り組まなくてはならないからです。 07-02 魂的観点からの人間観察の場合には、宇宙法則における反感・共感を見いだすことに、霊的観点からの観察の場合には、意識状態を見いだすことに主眼を置かなくてはなりません。 そこで昨日は、人間内で渦巻く三つの意識状態、つまり完全なる覚醒、夢想、熟睡を取り上げ、完全覚醒は思考的認識にだけあり、夢想は感情に、熟睡は意志にあることを示しました。 07-03 本来、理解とはすべて、他のものとの関連付けです。 あるものを他と関係付けること、それ以外の理解などこの世には存在しません。 この方法論的な注意事項をあらかじめ申し上げておきたいと思います。 認識的に自分自身と世界を関連付けつつ、まず私たちは観察をします。 観察では、通常の生活では感覚器官を用いますし、自分を高めたイマギナチオーン、インスピラチオーン、イントゥイチオーンでは魂や霊を用いています。 しかし霊的観察も観察であることには変わりありませんから、単に観察するだけでなく、それをきちんと把握する必要があります。 そして、把握のためには、個々の観察を、私たちにとっての環境である宇宙に存する他の事柄と関連付ける必要があります。 人間の体魂霊についても、人間の生涯全体を視野に入れると、よりよい概念を得られます。 ただ、ここで私が概略をお話しした関連付けとは、把握における最初の手がかりでしかありません。そのことはご承知おきください。 こうして得られた諸概念は、より完全なものに育てて行かなくてはなりません。

■生涯の中での体・魂・霊(04~09)

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▲身体的視点で見た場合の年齢(04~06)

07-04 新生児の身体フォルム、動き、生命の現れ、泣き声、喃語などを観察しますと、人間身体について、イメージが一つ増えます。 しかし、そうした人間身体のイメージは、壮年期や老年期の人間と関係付けたときに初めて、完全なものになります。 壮年期の人間はより魂的で、老年期では霊的です。 しかし、後者には反論が多いかもしれません。 当然ながら、「多くの老人では精神が呆ける」とよく言われます。 …「人間は老齢になると呆ける」というのは、魂・霊に対する物質主義からの特徴的な反論で、物質主義者はさらに執念深く、「偉大な精神を持ったカントですら、晩年には呆けたではないか」とたたみかけます。 物質主義者のこの反論も、この事実も正しいのです。 ただ、この事実は彼らが証明しようとしたことは証明していないのです。 カントも死の直前には、子どもの頃より賢くなっていました。ただ子どもの頃には、彼の叡智から来るものすべてを彼の肉体が受け入れられましたので、物質界での営みにおいてそれを意識化できました。 それに対し老年期には、霊性から彼が受け取ったものを身体が受け入れられなくなってしまいました。 身体が、もはや霊性のための適切な道具ではなくなったのです。 それゆえ地上界に居るカントは、彼の霊性に息づいているものをもはや意識化できなくなったのです。 今述べた反論が一見、当を得ているように見えるにしろ、歳を取ると人間は霊的に豊かになり、霊性に近づいている点ははっきりさせておかなくてはなりません。 高齢になっても自分の霊性に対する柔軟性と生命力を保ち続けている老人では、霊的なものの諸性質が現れ始めているのが認められるはずです。 実際、そうした可能性もあるのです。 07-05 かつてベルリンに二人の教授がいました。 一人はミシュレーというヘーゲル学者で、当時すでに九十歳を越えていました。 彼にはかなりの才能があり、名誉教授になりましたが、その高齢でなお講義を続けていました。 もう一人はツェラーというギリシャ哲学の歴史作家でした。 彼はまだ七十歳になったばかりで、ミシュレーに比べれば若者でした。 ところが、「もう歳で、講義を続けるのも難儀だし、せめて講義のコマ数を減らしてもらいたい」とこぼすのをあちこちで耳にしました。 これに対してミシュレーはいつも、「ツェラー君の言うことはわからん。私なら一日中講義できる。ツェラー君はまだ若いのに、年がら年中講義がしんどいと言っている」と言っていました。 07-06 ご覧の通り、ここでのわずかな物質的な例でも、高齢者の精神の根底にあるものがお分かりいただけると思います。 実際、このようなのです。

▲魂的観点からの年齢(07)

07-07 これに対し、人生中盤(壮年期)での生きる様子を観察しますと、魂を観察する上での基盤となるものが得られます。 それゆえ壮年期の人が、あえて申し上げますが、かえって魂的なものを否定しうるのです。 壮年期の人は、魂がないようにも、魂が豊かにも見えうるのです。 なぜなら、魂は人間の自由に委ねられていますし、また教育にも左右されるからです。 多くの壮年期の人間が非常に貧しい魂しか持たないにしても、壮年期に人が魂的であることの反証にはなっていません。 無意識に手足をばたつかせ続ける子どもの身体と、内省的で落ち着いた老人の身体を比較しますと、子どもではその身体性が強調されていますし、老人では身体性が後退し、いわば身体そのものとしては否定されているかのようです。

▲子ども期における感情の意味(08~09)

07-08 観察を魂的なものに一歩引き上げますと、人間には思考的認識、感情、意志がある、と言えるでしょう。 子どもを観ますと、子どもの魂では意志と感情が密接につながっていることがわかります。 子どもでは意志と感情が一体化している、とすら言えるでしょう。 子どもがあばれ、地団駄を踏むのは、その時の感情を表していますし、動きと感情を切り離すことができる状態ではありません。 07-09 老人では違っています。 老人ではまったく逆です。思考的認識と感情とが一体になっていて、意志はある程度独立しています。 人間の一生を見ますと、感情はまず意志と結びついていますが、年齢が進むにつれて次第に意志から解き放されます。 そしてこの、意志からの感情の解放、ということがまさに教育と深くかかわっているのです。 感情が意志から解き放たれますと、それは思考的認識に結びつきます。 これは、後半生での事柄です。 意志から感情がスムーズに解放されうるように子どもに働きかけますと、それが将来の営みに対する正しい準備になります。 つまり、成長した男女として開放された感情を思考的認識と結びつけることができ、人生の中で成長していくのです。 人生体験を語る老人の言葉に、耳を傾けたくなるのはなぜでしょうか? それは老人が人生を歩む中で、自分の個人的な感情を彼の持つ諸概念や諸理念と結びつけているからです。 老人が物語るのは理論ではなく、個人として感情に結びつけることができた諸理念や諸概念なのです。 自分の感情と思考的認識とを本当に結びつけることができた老人では、それゆえ、諸概念や諸理念が温かく響き、現実に満たされ、具体的で、その人の響きを持っています。 それに対し、壮年期の状態にとどまった人では、概念や理念が理論的抽象的で、学問的に聞こえます。 人間の魂的能力が通っていくその道筋も、確かに人生の一面なのです。 つまり、子どもでは感情的意志であったものから、老人での感情的思考に発展するのです。 人生はこの両極の間で展開しますから、これらを心理学的にしっかり捉えられれば、人生に対して正しい教育が行なえるのです。

■感受の本質(10~19)

目次にもどる07-10 さて、私たちが世界を観察するにあたって最初に現れ、またすべての心理学者も世界の観察において最初に来るもの、としている何かを取り上げなくてはなりません。 それは感受(Empfindung)です。 私たちの何らかの感覚が外界と関係するとき、そこで感受が起こります。 私たちは色を感受し、音や寒暖を感受します。 このように、私たちが周囲の世界と相互に交流すると感受が生じます。 07-11 普通一般の心理学もこの感受について述べていますが、それは正しくありません。 心理学者たちは感受についてこう言います。 「外界で、光エーテルや空気の振動といった何らかの物理的過程が起きていて、これが感覚器官に流れ込み、刺激する」と。 … 刺激という言葉は使いますが、作り上げた表現に飛躍してしまい、理解に向かおうとしないのです。 私たちの魂内では、感覚器官を介した刺激によって、完全に(物理的なものではない)質的な意味での感受が引き起こされますが、しかし同時に、それを引き起こすのは、たとえば聴覚では空気の振動といった物理的過程です。 しかし、これが実現される様子については、心理学も現在の他のいかなる学問も、一切、何も分かっていません。 これが一般的な心理学の現状です。 07-12 感受の本性そのものを洞察し、感受はどの魂的諸力と最も近い関係にあるか、という問いに答えられれば、こうした心理学的考察よりもこの問題を正しく理解できるようになります。 …心理学者たちは簡単に考え、感受から認識へは簡単に移行すると考え、「我々はまず感受し、次に知覚し、次に表象を作り、概念を形成する、等々」と言います。 …一見すると、成り行きは実際そう見えます。 ところが、本来の感受の本性がまったく考慮されていないのです。 07-13 十分に自己観察をして、感受をしっかり見極めますと、その本性が意志的であり、そこに若干の感情的ニュアンスが加わっていることが分かります。 感受の最初の段階では思考的認識とは無関係で、むしろ感情的意志、あるいは意志的感情と近い関係にあります。 感受が意志的感情あるいは感情的意志と類縁にあることをどれだけの心理学が洞察しているかを私は知りません。…そもそも、現在いくつの心理学があるかなど、見通せません。… 感受は意志的感情あるいは感情的意志と類縁なので、感受が意志と類縁であると言うだけでは完全に正確とは言えません。 感受が感情と類縁であることは、非常に優れた観察力を持つ少なくとも一人の心理学者が認識していました。ウィーンのモーリッツ・ベネディクトが心理学の持論でこれを展開しています。 07-14 彼の心理学に対する他の心理学者たちの評価は高くありません。 この心理学はいくらか風変わりでもあります。 第一にモーリッツ・ベネディクトの専門分野は犯罪心理学で、その彼が心理学書を書いているのです。 第二に彼は自然科学者であり、教育における文学作品の重要性を著わし、さらには、文学作品を教育の中でどのように使いうるかを示すべく、作品分析もやっています。 学者であろうとしながら、心理学者は詩人から何かを学び得る、と主張しているのですからひどい話です。 そして第三に、この男はユダヤ系の自然科学者で、自著の心理学書をカトリックの司祭にして当時ウィーン大学神学部のカトリック哲学者であったローレンツ・ミュルナーに捧げたのです。 このようにひどいことが三つも重なっていますから、専門の心理学者たちが彼をまっとうに評価するはずがありません。 しかし、彼の心理学を読みますと、その個別の点では現実に即した見解が見つかります。もちろん、まったく物質主義に染まりきったモーリッツ・ベネディクトの思考法は拒否しなくてはなりませんが。 本全体からは何も得ることはありませんが、個々の観察は非常に豊かな内容です。 世の中に良いものがあるなら、それがあるところで探さなくてはなりません。 もし誰かが個々の事柄についての優れた観察者であるなら、全体の傾向は嫌悪すべきものでも、モーリッツ・ベネディクトはこれに当たりますが、そうだからといって、個々の事柄についての優れた観察まで拒否する必要はないのです。

▲第二の規定:眠った夢、夢見る眠り(15~16)

07-15 つまり感受とは、人間に現れる様子から、意志的感情あるいは感情的意志なのです。 それゆえ、表面の感覚領域が広がる場所、…大雑把に言ってよければ、感覚は身体の外側部分にあると言えます…その場所に、人間における感情的意志あるいは意志的感情が何らかのかたちで存在している、と言えるはずです。 人間を図式的に描きますと、…これらはすべて模式図だと思ってください…外側表面に感覚領域があります(下図参照)。 この身体表面が感覚領域であり、この表面に意志的感情あるいは感情的意志があるとするなら、私たちはここで何をしているのでしょうか? ここでは眠りと夢が半々の活動を行っています。これは夢想的睡眠とも睡眠的夢想とも呼べます。 私たちが眠るのは夜間だけでなく、周辺部、身体表面でも絶えず眠っています。 そして、感受が存在する領域で絶えず眠りつつ夢見て、あるいは夢見つつ眠っているために、人間である私たちは、感受を完全に見通すことができないのです。 感受を捉えられない理由と、朝目覚めたときに夢をはっきりと意識化できない理由とが同じであることに、心理学者たちはまったく気づいていません。 お分かりのように、ここで言う眠りや夢という概念の持つ意味は、日常生活のそれとはまったく違っています。 日常生活での眠りとは、夜、ベッドに横たわった眠りです。 この眠りは、実際にはもっと広範に拡がっていて、身体表面では絶えず眠っていて、そこに夢が混ざり込んでいます。ただ私たちはそれにまったく気づきません。 感覚的感受はまさにこの《夢》状態にあり、その後で悟性や思考的認識に捉えられるのです。
07-16 皆さんは、子どもの意志・感情領域を諸感覚において探さなくてはなりません。 ですから私たちは、子どもを知的に教育する一方で、意志にも絶えず働きかける必要がある、と強調するのです。 つまり、子どもが見るべきもの、知覚すべきことすべてにおいて、子どもの意志と感情とを育てなければなりません。そうでないと子どもの感受のあり方にそぐわないのです。 晩年に達した人には、その感受がすでにメタモルフォーゼを遂げたことを理解し、こう話しかけることができます。(【訳注】ここでシュタイナーは話し方を変えたのかもしれない)。 老人では、感受も感情的意志から脱して、感情的思考あるいは思考的感情に移行しているのです。 老人では感受がいくらか別なものに変わっています。 感受に思考的性格が強くなり、騒がしい意志的性格がなくなり、落着きを増しています。 「概念や理念的性格のものに感受が近づいている」とは、老人に対して初めて言えるのです。

▲言葉の説明について(17~19)

07-17 通常の心理学者は、感受にこのような繊細な区別をつけません。 彼らにすれば、老人でも子どもでも何の区別もなく、同じ感受でしかないのです。 これは、カミソリを手にして、「カミソリはナイフだから、これで肉を切ろう。ナイフはナイフなのだから」と言うのと同じ論理です。 …この場合、概念を語句説明から導いています。 こうしたことは絶対に避けた方がよく、概念は事実から得るのが望ましいのです。 感受については次のようなことがわかるはずです。感受もまた生きていて、生涯の中で成長を遂げ、子どもの頃は意志的性格がより強く、老人では悟性的知的性格がより強い、と。 すべてを語句説明から引き出してしまう方が、人々にとってはもちろん容易ですし、それゆえたくさんの語句説明があり、ひどい害をもたらす可能性もあるのです。 07-18 かつて私は、しばらく会っていなかった同級生と再会し、彼のご高説を拝聴するはめに陥ったことがありました。 彼とは小学校の同級生で、私は実科高等学校に進み、彼はハンガリーの師範学校に入りましたが、それは1870年代にはかなり珍しいことでした。 こうして卒業後数年して私たちは再会し、ちょうど光について語り合いました。 私はすでに一般の物理学の内容は学んでいましたから、光がエーテルの振動と関係する、等々のことは知っていました。 これが光の少なくとも一つの原因でありうると考えられていました。 旧友はさらに加えて、「俺たちは光の何たるかも習った。つまり光こそ視覚の根源なのだ」と、言いました。 …何という言葉の戯れでしょう。 こうして、概念が単なる語句説明に堕ちていくのです。 この友人が後に教師になり、停年まで数多くの生徒に授業をしたことを思えば、そこで生徒に何が教えられたかは想像に難くありません。 …言葉から離れ、事物の霊性に近づかなくてはなりません。 何かを理解しようとするとき、いつでもすぐに言葉で考える必要はありません。そうではなく、事柄的関連を探さなくてはいけないのです。 《霊性(Geist)》という言葉の語源をフリッツ・マウトナーの言語史に探し、この《霊性》という語は最初にどのような形で現れたか、を調べますと、この言葉が泡(Gischt)ないしは気体(Gas)と関係していたことがわかります。 この関係は成り立ちますが、これを元にしてもたいしたものは生まれてきません。 残念なことに、聖書研究ではこの方法が、表には出ませんが全面的に用いられています。 それゆえ聖書とは、大多数が、特に現代神学者が、最もひどい理解をしている書物なのです。 07-19 ここで重要なのは、いかなる場合も事柄に沿って見ることです。つまり霊性についても、言語史から概念を求めようとするのではなく、子どもと老人とで身体の活動の仕方を比較することで概念を作るのです。 このように《事実を相互に関連させる》ことによって、私たちは真の概念を得ることができるのです。

■意識状態と身体部位におけるその状態-空間的関連(20~24)

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▲神経系と思考(20~22)

07-20 感受は子どもでは意志的感情あるいは感情的意志として身体周縁部分で生じるが、それが可能なのは、この身体周縁部が身体内部に対し夢見つつ眠っているからである、という事実を知っていなければ、感受についての現実的な概念は得られません。 さて、皆さんは思考的認識においては完全に覚醒していますが、完全に覚醒しているのは身体の内側においてだけです。 身体周縁部、つまり身体の表面においては絶えず眠っています。 さらにまた、身体表面で生じることは、似たような仕方で頭部でも生じていますし、それがさらに強く生じているのが、人間のより深い内部、つまり筋肉や血液の中です。 こうした深部でも人間は夢を伴って眠っています。 身体表面で人間は眠り夢見ており、また内部深くでも眠り夢見ています。 それゆえ人間内部には、意志的感情あるいは感情的意志のより魂的なもの、つまり願望の営みなども夢を伴った眠りの状態で存在しているのです。 それでは、私たちはどこで完全に目覚めているのでしょうか。 完全に目覚めているのは中間ゾーンです。 07-21 ご覧のように、霊性の観点から出発し、覚醒と睡眠という事実を空間的に人間形姿に関連させ、「霊性の観点から人間を見ると、身体表面と内部器官では眠っていて、誕生から死までの現在、真に目覚めうるのは中間ゾーンだけである」、と言えるでしょう。 この中間ゾーンで最も発達している器官は何でしょうか? それは、特に頭部で発達している、いわゆる神経系です。 神経系からは分枝が外側の身体表面や身体内部に送り込まれています。 神経はこのように隈無く行き渡り、その間に脳、脊髄、腹髄などの中間ゾーンがあります。 ここにおいて、真に目覚めるチャンスが与えられています。 神経が最もよく形成されている所で、私たちは最もよく目覚めています。 しかし神経系は霊性に対してある奇妙な関係にあります。 神経系とは、肉体機能を介して絶えず死滅し、鉱物化する傾向を持っています。 神経系をそれ以外の腺、筋肉、血液、骨格などから切り離すことができたら、…骨格組織はむしろ神経組織と一緒にしておく方がいいかもしれませんが…神経系は生きている人間内で絶えず死体になっていきます。 神経系内では絶えず死が進行しています。 神経系は、霊的・魂的なものとの直接の関係を持たない唯一の組織系なのです。 血液、筋肉などはどれも霊的・魂的なものと直接に関係していますが、神経系はこれらとは直接には関係していません。 神経系は絶えず死に絶えるものなので、絶えず人間生体から自分を切離し、そこに存在しない、というそのことによってのみ、霊的・魂的なものと関係しています。 肉体の他の部分は、生きているがゆえに霊的・魂的なものと直接の関係を作り出します。 しかし、神経系は絶えず死滅し続け、人間に向かってこう言い続けます。 「私は自分の営みをもって存在することは決してないので、お前にとっては何の邪魔にならず、それゆえお前は発展できる」と。 …これは特別なことです。 心理学や生理学の本には、「感受、思考、精神的・心理的なもの全般を伝達する器官が神経系である」と書かれています。 しかし、どのようにして神経系は伝達器官なのでしょうか? 神経系が、絶えず生命から身を離し、思考や感受に対し一切の妨害をせず、思考や感受といかなる関係も結ぼうともせず、それが存在する場所が霊や魂にとっての空であることによって、そうなっているのです。 霊・魂にとっては、神経の占める場所は虚空間なのです。 虚空間であるがゆえに、そこに霊・魂が入って行かれるのです。 神経は霊的・魂的なものに無関与であり、生理学者や心理学者が神経の性質であると言っているような働きを一切していませんから、その点を私たちは神経に感謝しなければなりません。 もし神経が生理学者や心理学者の学説通りの働きを五分間でも行なったら、その五分間、私たちは世界や自分自身について何も知ることができないでしょう。眠り込むのです。 その五分間には、眠りを仲介する、つまり感情的意志あるいは意志的感情を仲介する諸器官と同じことを、神経がすることになるからです。 07-22 これが現実ですが、生理学や心理学で真理とされることを取り上げるのは、今日では厳しい状況です。 お前の言うことは正反対だ、と言います。 …真実は単純で、世間の方が逆立ちしているので、霊学によって足で立たせてあげなくてはなりません。 生理学者は「思考の器官は神経であり、とりわけ脳である」と言います。 …しかし真実は、脳や神経系は絶えず自分を人間生体から切り離し、それによって思考的認識がそこで展開しうる場を与える、という意味において思考的認識と関係しているのです。

▲神経における人間精神と宇宙精神の出会い(23~24)

07-23 ここで非常に厳密に考察しますので、皆さんも理解力を集中してください。 感覚領域である人間の周辺部分ではリアルな過程が生じていて、それらは絶えず世界での出来事とつながっています。 たとえば、光が眼を介して人間に作用すると仮定しましょう。 眼の中、つまり感覚領域ではあるリアルな過程が、つまり物理・化学的過程が生じます。 これが体内に入り込み、さらに物理・化学的過程が生じる内部領域(図の斜線で暗くされた部分)に達します。 光の当った面と向かい合い、この照明された面から眼へと光線が入ってきます。 ここで物理・化学的過程が生じ、それは内部の筋肉・血液的なものに伝わります。 この中間に空虚なゾーンがあります。 この領域は、神経器官によって空虚な状態にされていて、この中では、眼や人間内部で生じる自律的な過程は生じず、外界に存在するもの、つまり光の性質、色彩そのものの性質などがそのまま入り込んできます。 感覚が存在する身体表面ではリアルな過程が生じていて、眼、耳、熱感覚器官などはその過程に左右されます。 それと似たリアルな過程は人間内部にもあります。 しかし神経が広がっている中間部分は違います。神経は空間を解放していて、そこで私たちは外界にあるものと共に生きることができます。 眼は皆さんに対し光や色を変化させます。 しかし神経が存在する場所、生命活動が空虚な部分では、光も色も変化せず、皆さんは光や色と共に生きるのです。 感覚領域が身体周辺にあるために、皆さんは外界から遮断されていますが、ちょうど殻の中に居るように、その内側で皆さんは外界の過程と共に生きているのです。 血液や筋肉とは異なり神経は何も妨げないので、ここでは皆さん自身が光となり、ここでは皆さん自身が音となり、ここで外界の諸過程が展開するのです。 07-24 身体の外側表面や内部では眠りつつ夢見、夢見つつ眠っていますが、体内には生命的に虚な空間が存在し、そこでは目覚めています。そして、これにどのような意味があるかがおぼろげながらでも掴めたのではないかと思います。 外と内の中間ゾーンでのみ、私たちは完全に目覚めているのです。 これが空間的な関連です。

■記憶と忘却(25~27)

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▲記憶と忘却(25~27)

07-25 しかし、人間を霊性の観点から見るとするなら、覚醒、熟睡、夢想を人間の時間的なものとも関連させなくてはなりません。 07-26 皆さんが何かを学びます。するとそれを完全な目覚めの中に取り入れ、自分のものにします。 何かの学び、それについて考えるのは、完全なる覚醒の中で行われます。 次に皆さんは別な営みに移ります。 別なものが皆さんの興味を引き、注意力はそこに向けられます。 その時、以前に取り組み、学んだ事柄はどうなるのでしょうか? これは眠り込み始め、再び想起されると、再度、目覚めるのです。 心理学の言う忘却と想起は言葉の戯れですから、これを排し、リアルな概念で置き換えてはじめて、忘却と想起を正しく把握できるのです。 想起とは何でしょうか? それはある表象複合体の目覚めです。 忘却とは何でしょうか? それは表象複合体の入眠です。 こうしてリアルなものを、リアルな体験と比べることができ、単なる語句説明から脱却するのです。 目覚めと眠りについての自省、自分の入眠体験、あるいは他人の入眠の観察、という場合、そこではリアルな過程が問題になります。 忘却、つまり内面の魂的活動を…何らかの言葉にではなく…このリアルな過程と関連させ、両者を比較しますと、「忘却とは別な領域での入眠であり、想起とは別な領域での目覚めである」と言えるでしょう。 07-27 リアルなものとリアルなものの比較、これによってのみ、霊的な意味で世界を捉えることができます。 体と霊を真に関連付けるためには、少なくともその初歩的な手がかりを得るためだけであっても、少年期と老年期を比較しなければなりませんでしたが、それと同様に、忘却と想起も入眠と目覚めというリアルなものと関連付け、比較する必要があるのです。

■結語:社会三層構造についてのコメント(28~30)

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▲結語:社会三層構造についてのコメント(28~30)

07-28 人間がリアルなもの、現実であるものの中へ、当たり前のように入り込んで行くことこそ、人類の将来にとって絶対不可欠なのです。 今日、人はほとんど言葉だけで考え、事実で考えません。 想起と目覚めを対比させて語ることで私たちはリアルなものを手にしますが、それをしない現代人はどうやってリアルなものに達するのでしょうか。 現代人の想起の定義は、言葉で溢れかえり、ありとあらゆるものに満ちています。しかし、現実から、そして事柄からその定義を見つけようなどとは思いもよりません。 07-29 ですから、抽象的概念からでなく完全に事実から引き出された何か、たとえば三層構造といったものを人々に示しても、彼らは事柄を現実から引き出してくることにまったく不慣れなので、とりあえずこれを理解不能と感じることも、不思議ではないでしょう。 彼らは、事柄を現実から引き出してくることなど思いもよらないのです。 事柄を現実から引き出すということで言えば最低レベルの人たちが、たとえば理論ばかりを振りかざす社会主義の指導者たちです。彼らはもう終わりまで来ていて、退廃現象の末期としての言語説明ばかりが現れます。 この種の人たちは、現実の何たるかを最もよく理解していると信じてはいますが、ひとたび語り始めますと、最も空疎な言葉の籾殻ばかりを吐きます。 07-30 これは、今日の時流にまつわる余談に過ぎません。 しかし教師は、この時代から教育を委ねられた子どもたちを理解しなくてはなりませんので、今自分が居る時代も捉えている必要があるでしょう。