2014年11月24日月曜日

第13講解説(一般人間学)

■肉体は霊を堰き止め、霊は肉体を吸い取る(削り取る)

人体の物質代謝を考えると、消化器系で身体を構築する素材が準備され、四肢ではその素材を用いて皮膚や筋肉を作っている。その意味では、四肢は生産の側にはなく、消費の側にある。「四肢は物質を作り出さない」という言葉は、そうした対比の中で考えると理解しやすい。

■霊の流れを妨げる脂肪

四肢を十分に動かしていないと、物質が余り、それが体脂肪になる。すると、この体脂肪は霊の流れを妨げる、とシュタイナーは言っている。
「脂肪が霊の流れを妨げる」というのを理解するのは容易ではない。しかし、霊が働くための物質的基盤が「結晶化、そして死に向かうプロセス」であることを考えるなら、脂肪には結晶化とは縁がないと言えるだろう。
いずれにしても、子どもの肥満に対し、シュタイナーが1919年に警鐘を鳴らしているのは注目に値する。なぜなら、当時のドイツの生活事情を考慮するなら、たとえば、大変なインフレが起きイタ時代でもあり、《肥満》が大きな社会問題ではあり得なかったからである。

■霊は生きた物質が死滅するところで活動する

その典型的な器官が神経である。前にも述べたように、神経の基本的伝達メカニズムは《分極》→《脱分極》であり、生命的状態から非生命的状態への移行である。
シュタイナーは霊が肉体を吸い取る働きとして、皮膚の垢や爪を挙げている。これも《生》→《死》という物質的プロセスが基盤となって霊が活動する、という法則には当てはまる。しかし、この関係は高次の知覚能力がなければ、洞察はできないと思われる。

■肉体労働と頭脳労働の対極性


■肉体労働

肉体労働では、肉体が霊性の中で動き回り、過度な労働では肉体が霊化し過ぎる、言い換えると吸い取られすぎてしまう。言い換えると物質的に消耗してしまう。それゆえ、多くの代謝的生産活動が必要となり、多くの睡眠が必要なる。

■頭脳労働

頭脳労働では、霊性を意識の中で捉える。つまり、脳などの神経内で霊性を霊性のままで活動させるが、その際にどうしても《生》→《死》のプロセスが必要になる。そして、これが過度になると、物質を消費し過ぎることが問題になるのではなく、余剰な物質が蓄積することが問題になる。つまり、神経を用いた例の活動の産物として、死の傾向を持つ物質が神経内に蓄積する。

■過度な頭脳労働が睡眠を妨げる理由

この講演では説明していないが、排泄にはアストラル的活動が必要であり、神経内の余剰排泄物が多くなることで、アストラル体が身体とつながっている時間が長くなる可能性がある。そして、アストラル体が肉体やエーテル体から離れにくい状態は不眠である。
ここで排泄について、簡単に説明しておく。 尿などの排泄では、腎臓の糸球体で血漿成分を一旦全部外に捨てる。(ただし、タンパク質などの高分子は排泄されないが、ここでは考察からはずしている)。そして、尿細管で必要なものだけを再吸収している。たとえて言うなら、持っているものをすべてゴミ箱に入れてしまい、その中から必要なものだけを再度、取り出しているのである。この行為には、対象が何であるかを知覚し、その有用性を吟味するという高度な選択が必要である。外界の知覚でアストラル体が活動するのと同様に、こうした内部での知覚でもアストラル体が重要な働きを演じている。 それゆえ、腎臓ではアストラル体が高度に働いている。

■意味ある動きと肉体の要求にしたがった動き

どのような動きでも、肉体側から来る運動と外界の法則性の兼ね合いが問題になる。たとえば、中華鍋を振ってチャーハンを作るとしよう。初心者は自分が動ける動き方で無闇に鍋を振るので、仕事の能率は悪く、しかも早く疲れてしまう。それに対し名人は、中華鍋が必要とする動きの法則に的確にしたがうので、能率良くしかも疲労も少ない。つまり外界の法則にフィットした動きの方が無駄がないのである。
そして、外界の法則に最もフィットした動きがオイリュトミーであると言っている。オイリュトミーでは中華鍋の場合とは異なり、物質的法則に留まらず宇宙的法則に身体をフィットさせるので、疲れないのである。 もちろん、初心者ではオイリュトミーによって死ぬほど眠くなることはしばしばあるが、シュタイナーは「オイリュトミストは疲れない」とまで言っている。
また、この文脈で、「怠け者は動かないのではなく、無駄な動きをしている。それゆえによく眠る」というシュタイナーの指摘は、人間としての生き方に大きな示唆を与えてくれている。

■難しい話は眠くなり、関心は頭脳労働を健全に保つ

頭脳労働との関連で、シュタイナーは二つのことを言っている。一つは、難しい話を聴くと眠くなる、という現象である。もう一つは、事柄を関心も持たずに丸暗記する場合は不眠を起こしやすが、関心を持って記憶するなら、そこで血液活動が活発になり、不眠を防ぐ、というのである。 難しい話の場合、聞いているうちにそこに関心をとどめることができなくなると、眠気が襲ってくる。そこで使われている複数の概念が自分にとってまったく未知であるような場合、それらをどのように関係づけて良いかわからず、すべてが宙ぶらりんのままで話が進んでいくと、人は間違いなく眠気に襲われる。 それに対し、新しい概念が出てきても、それが既知の事柄と結びつき、思考の中で関係性を保てる場合には、眠気はやってこない。体験としては、思考感覚の中で、アストラル体が諸概念と完全に結びついている場合には、内容も理解でき、眠くもならない。しかし、結びつきを見いだせない概念が三つ、四つあると、アストラル体はそれらの浮遊概念と共に浮遊状態(睡眠)に入ってしまう。実際には論理的な話であっても、自分にとって《捉えどころのない話》だと、どうしても眠くなる。
関心のない事柄を「試験に出るから」というだけの理由で覚える場合は、いわば頭脳労働を単独で行っている状態である。しかし、そこに《関心》が加わると、アストラル体を活性化する活動が加わる。さらに、関心の根底には対象への愛がある。その愛の力は、熱として働き、頭脳労働によって産出される老廃物をすみやかに排除する力になる。
このように、教育活動を健康に保つための背景を述べ、シュタイナーは関心を伴わない丸暗記を促す《試験》を望ましくないものと述べている。

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